スマトラの復興過程の経験から

地震津波原発事故で大変なことになっているけれど、だからといっていろいろな活動を過剰に自粛するのはいかがなものかと思う。特に、災害関係の映画の上映を自粛するのはよい考えだとは思わない。もっとも、災害映画を観ると災害対応の参考になるとか、被災者の気持ちに寄り添うことができるとか、そういう「実利」のために映画を使うことには賛成できない。映画は娯楽の王様なのだから、素直に観て楽しめばいい。
同じ国土に苦しんでいる人がいるのに自分たちは楽しい思いをしていいのかというのが自粛のもとの発想だろうけれど、安全な場所に身を置いている立場で何かできることと言えば、被災した人たちが大変な苦労を強いられていることに思いを巡らせつつも日常生活を維持することではないか。
被災地に行きたい、被災地に何か送りたいという思いはとても立派だと思うけれど、救命救急の段階での素人のそういった一時的な英雄主義はあまり助けにならない、というよりむしろ邪魔だったりする。何かしたいけれど何もできないのでもどかしいという気持ちはよくわかるが、自分や他人に苦労を強いることでその気持ちを解消しようとするのではなく、今は何もできないことを噛みしめることも必要ではないか。「今できることは何か」ではなく、「半年後にできることは何か」「1年後にできることは何か」を考えてみてはどうだろうか。1年後の今日や2年後の今日になっても今の気持ちを抱き続けられるように、今は自分のいる場所で日常生活を維持するように努めるべきではないだろうか。


今回の地震津波災害を受けた地域がこれからどのような復興の過程をたどるのかは予測がつかないけれど、同じ津波災害ということで2004年のスマトラ沖地震津波の被災地であるインドネシアアチェ州で経験したことを書き留めておく。
スマトラ沖地震津波についての詳細は以下のページで。
http://homepage2.nifty.com/jams/aceh.html


津波の被災地は大きく分けて3つの区域がある。第一に、海岸に近く、見渡す限りの建物がすっかり流されてしまったエリア。第二に、それよりも内陸側で、建物は残っているけれど、1階部分が浸水したり瓦礫が押し寄せてきたりしてそのままでは使えないエリア。第三に、それよりさらに内陸側で、津波の被害を直接受けなかったエリア。この3つのエリアでは被害も対応も異なるけれど、新聞やテレビなどの報道ではこの3つの区域が明確に区別されないため、アチェ州ならアチェ州が、宮城県なら宮城県が、全体的に均質に被災したような印象を受けてしまう。
アチェでは、救命救急の段階がほぼ終わったのは被災から2か月ぐらいの時期だった。この間に、第一のエリアでは遺体処理、第二のエリアでは瓦礫の撤去、第三のエリアでは避難所の開設と感染症の予防というように、区域ごとに主要な課題が異なっていた。同じ町でも、一方で被災地に喫茶店第一号がオープンし、そこから少ししか離れていない地区ではまだ遺体処理が行われているという状況があった。
被災地についての土地勘がなければ、新聞やテレビの報道を見るだけではどの区域のことかわからず、被害と対応の状況を掴み損ねることになりかねない。情報の受け手はその点に注意すべきだろうし、送り手にも工夫していただきたいと思う。


なお、第三のエリアである内陸部で津波の被害がなかったからと言って、そこに地震の被害がないとは限らない。
2004年のスマトラ沖地震津波では、被災地入りした大手の国際NGOがテレビに映りやすい沿岸部を事業地として押さえ、小規模のNGOはアクセスが悪くてテレビの取材がなかなか来ない内陸部を事業地に割り当てられた。内陸部には津波が及んでいなかったが、あれだけ大きな地震があったので内陸部でも地震による被災者が多く、しかし世間の目が津波災害に向けられていたために内陸部の地震被災者は支援の手が届いていなかった。日本のピースウィンズ・ジャパンというNGOは、大手の国際NGOに沿岸部の支援地を取られたために内陸部に向かい、それまで知られていなかった内陸部の地震被災者たちを見つけ、自団体でできる限りでの支援を行い、対応可能範囲を超えたものは他のNGOに連絡して支援を求めるという活動を行った。この活動があったからこそ内陸部の地震被災者たちに支援の手が差し伸べられた。津波にばかり目が向けられがちだが、津波が及んでいない地域にも地震の被災者がいる。
2004年のあの災害は、津波の大きさが印象に残るために「津波」と呼ばれることが多い。でも私は、大手の国際NGOと比べると規模が小さいものの、だからこそ小回りがきき意義のある活動を行ったピースウィンズ・ジャパンのアチェでの支援活動に敬意を表して、あの災害を呼ぶときに「地震」を入れて「2004年スマトラ沖地震津波」と呼ぶようにしている。