フィリピン映画『リベラシオン』

大阪アジアン映画祭で観たフィリピン映画玉音放送を聞いても日本の降伏が信じられず、フィリピンのジャングルに籠って、1人、また1人と仲間が倒れていく中で1人だけ20年以上も生き延びた元日本兵の話。
はじまってしばらくして、あまり相性が良くないと感じた。設定は上記の通りだと思うのだけれど、どうもちぐはぐ感がある。日本兵が「まだ戦争は終わっていない」と言って警戒しながら暮らすけれど、その割には昼間から見晴らしのいい空き地で焚き木をしたりする。敵に撃ってくれと言っているようなもの。火を焚いておけばいいというのは、まさか戦っている相手は獣? それに、日本兵たちがやたらに元気だ。玉音放送を聞いたということは1945年8月以降の話で、ろくに栄養も取れずにふらふらだったはずなのに、暇な時間に相撲を取ったり力任せで太い木を切ってみたりする。さらに、ヘリコプターの音が聞こえて投降を呼びかけるビラがまかれるのだけれど、数百枚はあるかと思われるビラが日本兵の周囲数メートルの範囲に集中して撒かれる。まるで頭上数メートルの高さからビラが撒かれたように見える。そんなこんなで、これは別のオチがあるのではないか、たとえばこれは映画の撮影中で彼らは日本兵を演じている役者なのかとか、彼らは実際の日本兵だけれど村の人たちからは行動が丸見えで村人たちは気づかないふりをしているとか。そのネタばらしがいつ出てくるかと思っていると、突然全裸の女の子が出てきて森の中をかけまわり、「すべて森の妖精のせいだ」と字幕が出たところで上映が終わった。(字幕では「妖精」ではなく「幻影」だったかもしれない。)え、物語が始まっていないのに最後に裸だけ出して終わりかよ、と思ったら、映画館スタッフから、もともと85分のフィルムと聞いていたけれど実際に届いたフィルムは120分あり、それを最後まで上映すると終電に間に合わなくなるので帰るならこのタイミングで帰ってくださいというアナウンスがあった。ここまででだいたい1時間なので、ということはこれからまた1時間あるのか、最初の1時間は3分ぐらいに縮めてもいいんじゃないの、とか思いながらも気を取り直して後半へ。
それから1時間弱のあいだ、一進一退の物語が続く。そして物語が終わり、エンドロールになったところで急いで映画館の外に飛び出していく人たち。終電ぎりぎりなんだろう。ところが、エンドロールが終わったところでもう一幕あって、それがまたけっこう重要な意味を持っていたりする。
ということでよくわからなかったけれど、注目するとしたら通信手段、特にラジオの役割だろうか。はじめに玉音放送が出てきて、もちろん日本語だけれど、字幕はつかない。途中で日本兵が地元住民からラジオを強奪してラジオ放送を聞くのだけれど、英語放送の部分は字幕がないので英語がわかる人にしかわからないし、タガログ語?放送もその言葉がわかる人しかわからない。(ただし、よく聞いていると「USベース」「オキナワ」という単語が聞こえるので、沖縄の米軍基地についての話だということはわかる。)ラジオ放送は情報を得るのに有効な手段だけれど、言葉がわからないと内容が通じない。ビラを撒いても「アメリカが騙している」と信じようとしなかった。最近はインターネットを含めて世界中の人々が通信しやすくなったけれど、いくら通信手段が発達しても、言葉が通じなければ、そして相手のことを信用しようという気持ちにならなければ、メッセージは伝わらない。
なぜそんなメッセージをもった映画を撮るのに日本兵の物語にしたのか。これはフィリピンから日本への「もっと自分たちを見てほしい」というアピールではないのか。フィリピンでは、元日本兵が見つかったという情報(ただし調べると事実でないことが明らかになる)がこれまでに何度も出ている。これは自分たちの方を向いてほしいという日本に対するメッセージなのではないか。そして、最近では「日本兵がいた」というだけでは日本人はフィリピンに目を向けなくなってきたため、「日本兵がいた」という映画を作ってしまったということではないのか。その際に、日本へのラブコールを表現するとなると、共通の経験である戦争の話にならざるを得ない。だから日本兵の話になったのだろう。この映画からは戦争で日本にひどい目にあわされたというメッセージは感じられなかった。戦争以外に共通の経験をもっと増やしていけば別の物語も語られるようになっていくのだろうか。