数えられないものを受け止める工夫を

研究者たち、特に防災や災害対応に直接かかわりがなかった人文社会系の研究者たちのあいだで、研究者としても市民としても何ができるかを考えている。それとも関連して、研究者が集まっている大学ではどのようなことを考えているのか。知り合いを通じて、それぞれの大学でどのような取り組みがあるかについての情報が入ってくる。総長が教職員に「こうした状況の中で事実をしっかり見定めて行動する姿勢を保ち、被災なさった皆さまへの深い思いを、救援物資等の送り出し・医療支援など当面する具体的な支援や被災状況を少しでも緩和するための知識の活用につなげていくとともに、これからの人々の生活再建や社会の復興の基礎となる知識の教育、勉学と研究を着実に続けていっていただきたい」と呼びかけ、それぞれの専門性を活用することによる関わりを呼びかけている大学もある。
そんな中で、ある大学では、震災後に大学執行部からはじめて送られてきたメールが、今回の震災に関する支援を行ったら大学のホームページに載せるので届けるように、「何時、どの団体を通じ、何を、どれだけ」の情報を知らせてほしいというものだったらしい。この話を聞いて、大学教員の業績評価の話と重なって見えてしまった。
特許などに結びつく研究でもない限り、研究活動にどれだけの意味があるのかを客観的に示すのはとても難しい。だから、大学教員の活動は、論文を何本書いたか、授業を何コマ教えたか、学生を何人指導したかといった「数えられるもの」「目に見えるもの」という数値で評価するというのが現状だ。ちょっと乱暴な言い方をすると、波及効果の高い優れた成果でもやっつけ仕事の成果でも1点は1点という考え方だ。これには良し悪しの両面がある。大学の枠を超えて研究者どうしで連携して活動しようとしてもその成果がどちらの大学に属するのかが問題になって話が進まないということがある一方で、常勤の大学教員になったとたんに研究成果を出すことをやめてしまった人にそれなりのプレッシャーを与えるという意味はあるだろう。でも、大学人だったら数値で止まらずに研究意義をどのように評価するか工夫する必要があるのではないか。「震災への支援活動を数値で提出するように」と言わんばかりの大学執行部からの要請を見て、こんなところまで数値ではかるのかとちょっと驚いた。
話は少しそれるが、海外の紛争地や支援地で活動する人道支援NGOの事業評価でも「数えられるもの」「目に見えるもの」に過度の重きが置かれているような印象がある。海外での事業評価団に参加したとき、現地の空港に降り立って、いざ支援現場にと思ったらまず現地事務所に連れて行かれて伝票の山を渡されたということもある。たとえば歯ブラシの配給なら1人で2本もらった人がいるかどうかを調べる。もちろんその団体に託されたお金を無駄に使わないためにも経理の監査は大切なのだけれど、それだけでなく支援内容が支援相手にどう届いたかという面も重要であるはずなのに、事業報告が基本的に数値で表現されるため、数値で表現しにくい部分は報告や評価から抜け落ちてしまう。
ここで言いたいのは、そんな評価を実施しているNGOが悪いということではまったくない。ほとんどのNGO団体は、支援の現場では数値だけにこだわるのではなく現場の状況に臨機応変に対応していたりする。でも、活動内容を本部に報告する段階になると、そして本部が外部に報告する段階になると、情報の受け手にわかりやすいように「数えられるもの」「目に見えるもの」の話ばかりになっていく。このような「数えられるもの」「目に見えるもの」の報告ばかり招いているのは実は受け手の目で、具体的には、ドナーである個人や企業や政府、そしてそれを支えている市民、さらにそれらの意思決定に大きな影響を与えるマスメディアの目だ。
今回の震災では、これから緊急段階そして長い復興段階に入る。直接被災した地域や人々だけの復興ではなく、日本社会や近隣地域を巻き込んだ社会の再編になることだろう。そこでは、「数えられるもの」「目に見えるもの」以外のことがらを積極的に受け止めるような考え方の転換も含まれるはずだ。このことは、復興や支援を直接担う人たちだけでなく、そのまわりで関わる報道や研究などの専門家、そしてその成果を受け取る社会も考えていかなければならないと思う。