Space Battleship ヤマト

Space Battleship ヤマト』は何をやらかしてしまったのか。
機内で上映していたので観てみた。あらかじめ書いておくと、私はアニメ版の「ヤマト」と「さらば」はいちおう観たが、あまり熱狂しなかった。ただし「永遠に」にはまってそこから「1000年女王」に向かったのだけれど、それはともかく、今回の「SBヤマト」を観ても、はじめは「ヤマト」だったけれど途中から「さらば」が混ざってきてるなあと思う程度だった。だから、オリジナルと違うからけしからんという気持ちにはあまりならなかった(サーシャが存在しないことになるのはけしからんと思ったが)。でも、あれじゃあオリジナルのファンは怒るかもしれないとは思った。オリジナルと違うからではなく、オリジナルの世界観や精神のようなものが受け継がれていないから。オリジナルと切り離して1つの作品として見ても、物語に緊張感と広がりが感じられずに物足りなさが残った。
そう思いながらネット上で感想を探してみると、想像通り、圧倒的に批判の声が多かった。いろいろ読んでいると、批判のおおよその共通項が浮かび上がってきた。最終兵器である波動砲の大安売りだとか、軍人としての古代の沖田艦長に対する態度がけしからんとか、乗組員たちの態度が学芸会っぽいとか、森雪が服装は身体にぴったりしていないし性格は勝ち気だしで魅力的でないとか、艦内で性交しているとか、いろいろあるけれど、それを思い切って一言にまとめてしまえば「男のロマン」を蔑にしたということなのだろう。
第二次大戦のやり直しもやめて、宇宙人と地球人の恋愛だの友情だのもやめて、人間に作られた命と神様に作られた命の比較もやめて、イスカンダルまで遠いし上映時間も短いしで話は連続ワープさせて、そうやって物語をまとめる過程で余計な「男のロマン」をどんどん取り去っていったのだろう。では、もともと「男のロマン」の塊のようなヤマトの物語から「男のロマン」を取り去ったら何が残ったのか。
地球が放射能に汚染されて人間たちが生きていけなくなる瀬戸際で、成功の可能性がどれだけあるかわからないけれど放射能除去装置を取りに行く人々。宇宙の果てまで行かなければならず、しかも未知の敵にいつ襲われるともわからないため、生きて帰ってこられるかわからない旅だ。でも、乗組員たちは、地球や仲間を救うために自分の命を犠牲にすることをむしろ望んでいるかのように見える。終盤でたどり着いた敵の拠点に乗り込んでいき、結果として拠点を破壊することになるが、古代たちを奥へと進めるために敵を足止めしようと自分が盾になって死んでいく人々。
これが「男のロマン」を取り去ってもなお残った部分だ。ガミラスが生命体なのか違うのかはっきりしないので誰と戦っているのかよくわからなくなってしまったが、戦う相手がいなくなっても残るのは「仲間を助けるために自分が犠牲になる」ことだった。ということは、これこそが「男のロマン」の芯ということだろうか。あるいは、「日本民族のロマン」ということなのかもしれない。(ついでに言うと、「男のロマン」を削ったかわりに新しく添えた部分は「愛する人の子を産むこと」で、これは「女のロマン」だろうか。「女のロマン」とは言わない?)
SBヤマトを観て、「仲間を助けるために自分が犠牲になる」という男のロマンの芯だか日本民族のロマンだかはかなり根深いと認識を新たにした。思い返せば、私は子どものころから、家では「世間様と違うことをしてはいけない」としつけられ、学校では「一億総○○という没個性が戦争を招いたので個性を持つように」としつけられた。相反する2つのしつけに挟まれたおかげで無定見という定見を持つにいたったわけだが、そういった私の個人的な経験はともかく、戦後日本で生まれ育った私たちは確かに個性を持つようにしつけられてきたし、その理由として挙げられていたのは、国のために命をなげうつ国民を生み出す軍国教育への反対だったはずだ。とっても乱暴な言い方をすると、「もう戦争は繰り返したくない、だからみんな個性を持て」ということになる。私はそれをかなり深く刷り込まれていて、でも他方でマスコミなどを通じて欧米のような個人主義社会で暮らしていくのは耐えられないというメッセージも受けていて、そうしてたどり着いたのがマレーシア社会だった。マレーシアの人たちは、根は世話焼きなんだろうけれど、異民族どうしが隣り合って暮らしていることをよく理解していて、だから過剰に干渉してはいけないと身に染みているので個人主義と世話焼きの両方が組み合わさったような社会が作られている。日本もそれに倣えば「世間と同じ」で「個性を持つ」という二律背反が解消できるのではないかと思ってきた。
でも、SBヤマトを観て、日本人は仲間を救うために自分の命を犠牲にするシチュエーションだとやっぱり燃えるんだなあと改めて実感した。想定外の攻撃と放射能除去装置を前にして、戦後教育も何も吹っ飛んでしまったかのようだ。この突然の転換にどう対応すればいいのかかなり戸惑った。
活字になっているものでそれと違う意見を読んだのは、今のところSpa!鴻上尚史(世間はもう解体されたのだから1つの価値で縛ることはできない)と朝日新聞文芸時評欄の斎藤美奈子(「支援の仕方は多様でいいのだ」)。この2人の記事を読んでだいぶ心が休まった。