『歓待』の存在感

『歓待』が一般公開されて感想がウェブ上でも見られるようになってきた。観る人によってまるっきり違う感想を持つ映画だろうなと思っていたけれど、本当にいろいろなのでおもしろい。私の感想は『歓待』のパンフレットに載せていただいたのでそちらをお読みいただくとして、自分の感想と違っておもしろいなと思った感想を2つ。
1つは、「外国人」や「移民」の問題を描いた作品だという感想。確かに外国人がたくさん出てくるし、町内会のおばさんたちが外国人(やホームレス)というだけで怪しい人たちと見ているところがあるので外国人の物語でもあるけれど、私はそちらよりは夏希の疎外感の方が気になってしまった。家でも町内会でもどこかよそ者意識を持ってしまう夏希。町内会のおばさんたちが外国人やホームレスを理由もなく毛嫌いしているのがけしからんと感じるか、それとも夏希が自分でよそ者意識を持ってしまうことの方が気になるのか、人によって気になるところが違うということなんだろう。この違いは、他人がよそ者扱いされていることに目が向くか、自分がいまいる場になじめないという思いを抱いていることに目が向くかという違いと関連しているだろうけれど、さらに言えば、観る人が置かれた状況を反映しているということだろうか。
もう1つは「不条理」という感想。これは言うまでもなく怪人・加川花太郎の行動のこと。あれを不条理と捉える人がかなりいるのが新鮮だった。不条理だと感じる人は、花太郎の行動が理解できない(あるいは納得がいかない)と思ったためだろう。確かに私が日頃馴染んでいる人々の思考や行動とかなりかけ離れているし、もし自分が実際に花太郎のような態度を取られたら不愉快になるだろうと思う。確かに不条理と言われれば不条理だ。でも、それはそれとして、不条理に見える花太郎の行動には花太郎なりの理屈があるのかないのか。深田監督は、発言などから推測するに、花太郎の行動は私たちの常識からかけ離れているけれど、それは花太郎もわかったうえであえてそう行動している、つまり花太郎なりの計算があっての行動だと考えている気がする。私の考えは、花太郎は自分自身が馴染んでいる世界の常識に従って行動しているだけで、本人には常軌を逸しているという自覚はないというもの。「そんな世界はどこにあるんだ」という声が聞こえてきそうだけれど、マレーシア社会ってけっこうそういう面がある気がする。もちろんマレーシア社会が不条理だっていう意味じゃなくて、言葉にして合意していない限りは他人の気持ちを勝手に慮って行動したりしないという「決まりは決まり」が徹底されているという意味で。
ほかにも『歓待』には見所がたくさんある。私がおもしろいと思うのは、小林家の面々の「この家の一員である/ない」という気持ちが表れているところ。たとえば夏希は料理も洗濯も子どもの世話も家計のやりくりもあれこれ努力していても自分は小林家の一員だという確信が持てずにいるのに、清子は土足で畳に上がったり立膝で食事したりと好き勝手なことをしておきながらも小林家の一員であるという意識はゆるぎない。でも、家のことはしない自由人に見える清子も、夏希の誕生日パーティーでは料理を出したりしている。これだけでもいろいろな方向に想像を膨らませてくれる清子の不思議な存在感。『歓待』は「存在感」から読み解いてもおもしろいかも。