映画『ビンの中のアレ』

少し前になるが、「マレーシア初の同性愛映画」という『ビンの中のアレ』(... dalam Botol)を観た。
同性愛行為が刑法違反になるマレーシアでは、映画で同性愛行為を描くことももちろん認められてこなかった。ところが昨年、同性愛者が悔いて異性愛者になるか、同性愛者のまま死ぬかのいずれかという条件付きで、同性愛行為を描いた映画の公開が認められることになった。この作品はその第一作ということになる。
ただし、これを「マレーシア初の同性愛映画」と呼んでいいものかは悩ましい。
第一に、広い意味での「同性愛」を扱った映画はこれまでマレーシアになかったわけではない。HIV/AIDSの啓蒙キャンペーンの一環として作られた『Bukak Api』は、クアラルンプールの男女のセックス・ワーカーたちの様子を描いており、同性愛も当然含まれる。でも、あれは一般公開じゃなかったかな。それに、もしかしたら、セックス・ワーカー相手なら自由意思による性愛を伴わないので許容の範囲という判断があるのかもしれない。異性装が登場するものや同性どうしの友情以上の親密な関係を直接描かずに示唆に留めているものまで含めればリストはさらに増えるけれど、それらがありながら今回が初の同性愛映画だと言われているということは別カテゴリーということで、そうだとすると、やはり性愛を伴うかどうかが分かれ目なのかもしれない。
では、『ビンの中のアレ』では男どうしの性愛が描かれているかというと、そういうわけでもない。男どうしでパンツ一丁でじゃれあったりするけれど、それだけ。上映にあたってはいくつかの場面がカットされたそうなので、もしかしたらもともとはもう少しきわどい場面もあったかもしれない。
第二に、『ビンの中のアレ』を「同性愛映画」という括りに入れていいのかが悩ましい。確かに男どうしで半裸でじゃれあっている場面もあるけれど、ガウスがルビディンに「お前は女になれ」と命じて、ルビディンが本当に手術して女の身体になって戻ってきたところから物語が始まる。だから性転換者の異性愛と言った方が適切かもしれない。


転向するか死ぬかという制約のせいもあるけれど、残念ながらあまり魅力的な話になっていない。冒頭で恋人のガウスに「女になれ」と言われたルビディンは、借金をして性転換手術を受け、ルビーとなって帰ってきた。しかしガウスは別の女性と付き合いはじめており、しかもルビーは借金を返す当てもなく、謝金返済不履行で訴えられることを恐れて田舎に戻る。そこで幼馴染の女性ディナと出会い、彼女を生涯の伴侶にしようと思いを固めるが、結婚式の当日、ルビディンが性転換手術を受けていることが知られてしまい、ルビディンは結婚式場から逃げ出してしまう。話はこれだけ。
同性愛が描かれていると思って観ると期待外れになるかも。見どころはルビー(ルビディン)役の役者の演技で、細かいしぐさや口調が本当に女性っぽい。


タイトルは、原題は「... dalam Botol」。「dalam botol」だけだと「瓶の中」だけれど、その前に「...」がついているところがポイント。もともと「Anu dalam Botol」(ビンの中のアレ)というタイトルにしようとして、当局から修正要求があったために「anu」の部分を「...」にしたらしい。だから、「ビンの中」ではなく「ビンの中の・・・」あるいは「ビンの中のアレ」とするのがよいと思う。
ちなみに「アレ」とは直接的にはもちろん男性器のことで、劇中で机の上に瓶が置かれている場面があり、そのなかに切り取られたロバートの身体の一部が入っていることが示唆される。おそらくそれとは別に哲学的な意味も含められているのだろうけれど、あまり想像をかきたてるようなストーリーではなかった。


マレーシアで劇場公開されて約1週間で100万リンギの興行収入があったという情報も流れたが、実際にはその半分程度の入りで、特に好評だったというわけではないようだ。米国での上映権が高く売れたという話もあるが、これは疑わしいという声が多い。私がクアラルンプールで観たときも2週間で劇場公開打ち切りとなったので、「マレーシアで大評判」とは言えないようだ。
(ただし、「マレーシアで大評判」と書こうとする人の気持ちはよくわかる。日本の映画業界でアジア映画が紹介されるとき、その基準が「その国でとても売れたこと」である場合がとても多い。だから、よい作品を日本でも紹介したいと思ったら「その国であまり売れていない」と言うべきでないということになる。でも、私たちが外国の映画を観るとき、それを作った国の人たちと同じ感覚になって楽しまなければならないということはない。国民性や民族性の違いがあるのだから、原作国で大うけしたかどうかではなく、作品の内容の良し悪しで判断して紹介してもらいたい。そうしないと、映画を観る目がないので数字に頼って紹介していると思われかねない。)

上映時に「この映画は真実に基づいた物語である」という字幕がついていた。マレーシアでは文化芸術は現実社会を反映したものでなければならないという考え方があるためだ。実話に基づいているかどうかは作品の価値と無関係だと思うけれど、マレーシアでは「実話に基づいている」と言わないと「作り話だから観る価値がない」と思われてしまう。日本人の発想からすると不思議な話だけれど現実。