『同じ星の下、それぞれの夜』

縁あって『同じ星の下、それぞれの夜』を観た。タイ、フィリピン、マレーシアをそれぞれ舞台にした『チェンライの娘』『ニュースラウンジ25時』『FUN FAIR』の3つの作品から成るが、ここではマレーシアを舞台にした『FUN FAIR』を中心に。


「FUN FAIR」(ファンフェア)とは、マレーシアの地方都市でよく見る移動遊園地のこと。射的やピンボールから観覧車やメリーゴーラウンドまで遊園地一式を揃えて各地を巡業し、一か所に数週間滞在して営業する。夕方から夜にかけて開き、派手派手しいネオンのなかで一時の享楽を得るところ。でも遊びに行くとけっこうお金がかかる。
『FUN FAIR』では、華人少女のチェチェちゃんが母親に忘れ物を届けようとして飼いヤギのヤンヤンとともにファンフェアに行こうとするが、ファンフェアは家から遠く、しかもどこにあるかわからない。道に迷ったところを通りかかった日本人ビジネスマンとマレー人ベチャ引きが助けようとするけれど、チェチェは中国語、ベチャ引きはマレー語、日本人ビジネスマンは日本語と片言の英語しか話せないので会話にならず、言い争っているうちにヤンヤンはいなくなるしで、てんやわんやの旅になる。
お話としては、ヤギを抱えたかわいいチェチェちゃんの「はじめてのおつかい」で、無事に母親のもとにたどり着いて忘れ物を渡すことができるかがメインのお話で、もちろんそちらのお話はそちらのお話で感動を呼ぶお話になっているんだけど、多少深読みを逞しくすればそれとは違う見方でも楽しめる。


『FUN FAIR』は、マレーシア出身の漂流するアジア映画人リム・カーワイが制作に協力したらしい。リム・カーワイと言えば、登場人物が馴染みのある土地でよそ者扱いされる独特の浮遊感のある作品群で知られているが、『FUNFAIR』でもその雰囲気が感じられる。
『FUN FAIR』の舞台はマレーシアだが、マレーシアのどの町の話なのかはわからない。首都で都会のクアラルンプール、ヤスミン作品の舞台でも知られる西海岸の民族混住地域のペナンやイポー、マラッカ王国の王都でポルトガルやオランダの痕跡が残る古都マラッカ、タン・チュイムイ作品の舞台でも知られる東海岸のマレー人漁村、そして大自然と多彩な先住民文化のボルネオ島など、マレーシアと言ってもいろいろな土地があるが、この作品の舞台がどれなのかは明らかにされない。
店の看板が映らないようにしていることなどから考えて、おそらく意図的に特定の土地であることを示す絵をカットしているのだろう。実際には冒頭のオートバイのナンバーなどから撮影地はマラッカだろうとわかるけれど、マラッカ観光の定番であるオランダ時代の赤レンガのスタダイズ広場もザビエル像があるセントポールの丘もポルトガル時代の名残のサンチャゴ砦も一切出てこない。日本人ビジネスマンたちが食べるのも、マラッカ名物のババ・ニョニャ(プラナカン)料理ではなく、マレーシアのどこにでもありそうな屋台のミー・ゴレンかビーフン・ゴレンのようなものだ。ここまでマラッカ色が消されているのは意図的だとしか考えられない。
また、現在のマレーシアでベチャ(自転車タクシー)が町を走っているのを見つけるのは容易ではなく、日本人ビジネスマンが行くような町ではせいぜいペナンかマラッカで主に観光客用のベチャを見かける程度なので、その意味でベチャが出てくるのはマラッカのイメージとも重なるが、ベチャ引きが羽振りのよさげなマレー人にしか見えないため、どこか異世界という雰囲気を醸し出している。
もう1つ挙げるならば、中華系のチェチェが中国語方言を一切使わず、全ての台詞を華語(標準中国語)で通していることもそうだ。マレーシアの中華系の人々にとって、華語は学校で学ぶ言葉であって、家庭や地域社会では華語ではなく中国語方言を使う方が一般的だ。家庭では両親が話す中国語方言を身に着けるし、各地方にはその地方で使われる中国語方言があって、家庭で使う中国語方言にかかわらず町で中華系どうしが出会ったらまずその地方の中国語方言で話しかけるのが普通だ。中国語方言をなくして華語に一本化させようとしたシンガポールでもあるまいし、チェチェくらいの小さい子なら家でも外でも中国語方言で話すものだろう。しかしチェチェは、母親と話すときも(母親と父親の会話も)、近所の子どもたちとも、街で出会った見知らぬ人とも、中国語方言ではなく華語で話している。もちろんそのような地域社会や家庭が現実のマレーシアに絶対存在しないというわけではないし、半島南部のマラッカやジョホールあたりに行くとそういうところもあるにはあるけれど、クアラルンプールやペナンなどから想像される一般的なマレーシアの華人社会イメージとは違っていて、その意味で「実際には存在しないマレーシア華人社会」の雰囲気を醸し出している。
(念のために書いておくが、「実際には存在しない」マレーシア像が描かれていることがこの作品にとってマイナス評価だということでは決してない。むしろその逆。世界で高く評価されているヤスミン作品だって、その最大の魅力は「今ここにはないもう一つのマレーシア」を描いたことにあるのだから。)
では、『FUN FAIR』が(おそらく意図的に)「実際には存在しないマレーシア」を描いていることにはどんな意味があるのか。
マレー人のベチャ引きは、1950年代に活躍したP.ラムリーの『ベチャ引き』を思い出させる。それと関連して、チェチェがヤギを連れてファンフェアに行こうとしたとき、駅で「ヤギは電車に乗せられない」と言われ、「前はヤギと一緒に電車に乗ったのに」とチェチェが言っていた。この謎は物語中では結局解かれないままだが、ここで深読みを逞しくするならば、もしかしたらこの時すでにチェチェは違う世界に行ってしまったのかもしれない。あるいは、違う世界からこの世界にやって来たということか。
では、もしそうだとしたら、いったいいつ違う世界に行ってしまったのか。『FUN FAIR』の冒頭で、少し熱があって学校を休んだチェチェが水を飲んでいる場面がある。これはホー・ユーハンの短編「As I Lay Dying」(AILD)で熱がある男の子が水を飲んだ場面と重なっている。ALIDも独特の雰囲気を醸し出している短編だけれど、私なりの深読みでは、あの男の子は熱を出して水を飲むことで別世界に行ってしまっている。そうだとすると、『FUN FAIR』はチェチェが水を飲んで別の世界に行ってしまった話なのかもしれない。そう思って見ていると、なんと『FUN FAIR』のエンドロールに「協力 ホー・ユーハン」とあるじゃないか。
『FUN FAIR』は、日本人が予備知識なしに観ると東南アジアの華人少女の「はじめてのおつかい」ものと見えて、リム・カーワイやホー・ユーハンに馴染んだ東南アジア中華映画ファンが観ると「どこでもないマレーシア中華世界」の物語に見えるという二重構造になっている。リム・カーワイもホー・ユーハンも、もちろんわかった上でそう仕掛けているんだろう。日本人が東南アジアに行って現地のスタッフのアイデアを取り入れて撮るからこそできる仕掛けだ。ホー・ユーハンも相変わらずだとわかってよかった。
そうだとすると、チェチェは誰の魂で、『FUN FAIR』に行くことで誰に再会したのかといったことも気になるし、なぜヤギを連れていたのかとかベチャ引きとは何者だったのかとかいった謎も気になるけれど、そこまで言ってしまうと深読みが過ぎるか。来年2月に公開予定とのことなので、関心がある方は劇場で観てあれこれ想像していただくのがよいだろう。


ほかの2つの作品も、もしかしたらタイ映画やフィリピン映画の文脈で深読みするとそれぞれ第二の物語が見えてくるのかもしれない。それについてここではこれ以上立ち入らないが、3つの作品を並べて見せるというスタイルについては少し書いておきたい。1つ1つの作品が二重構造になっていることも興味深いけれど、3つ並んでいることでもう一段上のテーマが浮かび上がってくる仕掛けになっている。これは日本側の制作者の仕掛けだろうか。
3つの作品を並べることで浮かび上がるテーマはおそらく複数あって、観る人の関心によっていろいろな顔を見せるような気がする。私が関心を持ったのは、日本人がアジアに出かけて行ったときにアジアをどのように描き、アジアの人びととどのように語りあうのかということ。
『チェンライの娘』では、タイ人女性がみな(怪しげな)日本語を話す。日本人の男は日本語で話が通じているけれど、タイ語の台詞に字幕が付くことで、彼が理解しているタイの姿とタイの娘たちが了解しているタイの姿が同じでないことが観客に示される。チェンライの娘たちにとっての本来の世界と彼女たちが作り上げて見せようとする世界がそれぞれあって、日本語しかわからない男には娘たちの作り物の世界しか見えていない。
『ニュースラウンジ25時』では、フィリピン人も日本人の男も女もみんな英語を話す。そのため、そこに本来の世界と作り物の世界の違いはない。だから、現地スタッフが抱えている悩みも理解できるし、マニラ特派員の彼女とのよりを戻すために現地スタッフの協力を求めようとする。
『FUN FAIR』では、それぞれの登場人物がそれぞれの言葉を話し、互いに通じない。ヤギを見つけなくちゃとかファンフェアに行かなくちゃということは想像がつくので共通の目的になるけれど、お互いにどんな事情があって出会うことになったのかは最後までわからない。これは、互いのことがわからなくても1つの目的のために協力できるということでもある。
この3つの違いが何を意味しているのか、タイ、フィリピン、マレーシアの社会の比較から考えてもおもしろそうだし、日本(人)との付き合いという角度から考えてもおもしろいかもしれない。

裏のテーマは複数仕掛けられているかもしれない。たとえば「当てる」と「触る」とか。3つの作品ともに、男たちは、金儲けとか女をはべらせるとか有名になるとかという直接の目的はそれぞれ違っていても、自分が抱えているヤマでいつか一発当てたいなと思っているところは一緒。それに対して女たちがやりたいと思っているのは、家族や身近な人たちのからだに直接触れて世話してあげること。3人の監督が特に意図的に揃えようとしたわけではないと思うのだけれど、なぜ同じになるのかが興味深い。
このほかにもたぶんいろいろな仕掛けがあるような気がする。そのような作品になっているのは、とにかく現地に飛び込んで現地のスタッフの言うことに耳を傾けながらも自分が作りたいものを作ろうとしたという作り方や、そんな作品を並べて見せようとした企画の力がおそらく大きくて、その意味で混成アジア映画の画期の1つとなる作品になるのだろうなと思う。