混成アジア映画

雑誌の編集作業からようやく解放された。「混成アジア映画」という切り口でアジアの映画と社会を語るという企画。映画の専門家(いろいろな地域やジャンルの映画をたくさん観てきた人たち)ではなく、地域の専門家(映画を含めて地域社会のことをずっと見てきた人たち)たちが、自分の研究対象地域の映画をどう観るか、あるいは映画を通じてその地域をどう見るかを語るというもの。「混成アジア映画」という切り口がうまくまとまっているかどうかはともかく、1つ1つの原稿はどれも大変読みごたえがあるので、多くの人に読んでいただければと思う。今年3月末の刊行だけれど、書店によっては店頭に並ぶまで少し時間差があるかも。


さて、缶詰めになっている間に世の中もいろいろと進んでいたようで、「Istanbul Aku Datang」が大阪アジアン映画祭で観られることになり、しかもなんと「イスタンブールに来ちゃったの」というタイトルがついた。ついでに書いておくと、大阪アジアン映画祭の会期中の3月15日には「イスタンブールに来ちゃったの」のバーナード・チョウリ―監督を招いてのシンポジウムもある。「グッバイ・ボーイズ」とか「ゴールと口紅」の話も聞けるかも。
このシンポジウムの打ち合わせを兼ねてマレーシアのレッドフィルム社を訪ねると、なんとバーナード監督は次回作の準備でイスタンブールに行っていて、プロデューサーのリナ・タンさんに会社を案内してもらうことになった。通された会議室兼試写室の雰囲気が「カンポン・バンサ」(Kampung Bangsar)の予告編でシャリファ・アマニが働いているオフィスに似ていると思ったら、カンポン・バンサはこの部屋で撮ったんだとか。そういえばレッドフィルムの制作だったか。
2012年の独立記念日にあわせて企画された「My Hometown」という番組。マレーシア各州からプロ・アマを問わず自分の故郷を紹介する短編映像を募集して、その中から13州とクアラルンプールをあわせた14本分がテレビで放映された。そのクアラルンプールの短編を作ったのがシャリファ・アマニで、そのタイトルが「カンポン・バンサ」だった。
念のために書いておくと、バンサというのはクアラルンプールのちょっとおハイソな住宅街で、外国人が集まりそうな小洒落た飲食店が集まっていて、「クアラルンプールの代官山」と呼ぶ人もいるらしい。マレー語の「カンポン」は日本語の「田舎」と同じで生まれ育ったところという意味と都市化されていないところという意味があるため、バンサで生まれ育った都会っ子のシャリファ・アマニは、断食明けが近くなってみんなが「カンポンに帰る」と言うのを聞くと、自分は「カンポンがない」と思ったりするらしい。
「サンカル」に続くシャリファ・アマニ監督第二作の「カンポン・バンサ」、観たかったんだけれど放映がアストロで普通のホテルでは登録されていないチャンネルで観られなくて残念と思っていたら、レッドフィルムの試写室で観せてくれた。「サンカル」もそうだったけれど、「カンポン・バンサ」も別れの物語だった。別れは別れとして受け入れているんだけれど、でも心の整理がついていないような物語。シャリファ・アマニは「田舎がない」と「別れ」という2つの思いを抱えてどんな作品を作っていくんだろうか。


これから年度末にかけてこの場に書く時間の余裕があまりないかもしれないので、去年からこれまでに観たマレーシア映画を忘れないうちにいくつかメモしておこう。
レッドフィルムの新作が「Songlap」。タイトルの「Songlap」は「横取り」という意味だけど、敢えてぶっ飛んで意訳するなら「タイガー・ファクトリー2」でどうかな。いや、「タイガー・ファクトリー」とは監督も物語も全然違うんだけど、どっちも若い女の子に妊娠・出産させて赤ちゃんを売るビジネスの話だから。安易かな。
途中でタイ国境?で密入国させられた若い女たちが車から降ろされる場面があり、男が女たちに「早く降りろ!」という感じで「ハイキ!」と声をかけている。これってもしかしてミャンマー人かなと思ったけれど、設定上はタイ人らしい。何でミャンマー人かと思ったかというと、NHKアジア語楽紀行のマレー語講座で国立公園の象の保護区を紹介した課で「象を呼ぶとき、インド象はage、ミャンマーの象はhaiki、マレーシアの象はmari siniと言います」とかいう例文があって、マレー語講座なのになぜ他の言葉?と思ったことがあったけれど、そのときミャンマーの象を呼ぶ掛け声が「ハイキ」だった。「Songlap」でも女性たちにハイキと声をかけていたように聞こえたけれど、ミャンマー人ではないのか? 役の上ではタイ人で、演じていたのはミャンマー人で、声をかけるときにはついミャンマーの言葉にしてしまったとか?
「タレンタイム」のハフィズ役のシャフィー・ナスウィップがワルの役で出ているんだけど、どうもハフィズのイメージと重なってしまって、ワルなのにワルになりきれていないような印象を受ける。


「2月29日」(29 Februari)
KRUの新作。マレーシアで初の3D映画。
2月29日に生まれたために4年に一度しか歳をとらない青年ブディの生涯を描くことを通じて、ミュージカル仕立てでマレーシアの近現代史を描く。マレーシアの現代史を織り込んでドラマを作る映画は「1957 Hati Malaya」や「Tanda Putera」で最近いくつか見られるようになっていて、その流れに位置づけられるかも。2月29日に生まれたので4年に一度しか年を取らないというのは「レインドッグ」にもあったっけ。
歴史の考証はまあまあ。19世紀末から20世紀初頭にかけての場面で華人商店の看板が簡体字で書かれているのはあれれと思うし、日本軍政中の描き方もずいぶん変なところがあるけれど、まあそれがメインじゃないし。歴史ものとしての見どころは、1957年のマラヤ連邦の独立記念の式典で、トゥンク・アブドゥル・ラーマン初代首相が独立を宣言している場面。この場面の写真はとっても有名でマレーシア人にはおなじみの場面だけど、その白黒の写真がなんと最新技術でカラーになり、しかもラーマン首相がわずかだけど動いている。白黒写真に色を塗っただけにしか見えなかったのだけれど、観ていたマレーシアの少年が「トゥンクだ!」と興奮して声を上げたので、それなりにインパクトはあるんだろう。
ただの歴史ものではなく、マレー人のブディが華人のリリーと恋に落ちるという民族・宗教を超えた恋の物語でもある。見逃してはいけないのが公園で2人でデートしている場面。リリーが仰向けに寝て、ブディがその隣でリリーの方を見ながら横になっている。二人の間は距離があるんだけど、リリーの側の低い位置からカメラが撮っているので、ちょうどリリーとブディの顔が重なってキスしているよう見える。マレーシアでは民族・宗教を超えた恋愛を正面から描く映画はほとんどなくて、ヤスミンが「細い目」や「タレンタイム」などで試みたけれど、でもさすがにキスまではさせなかった。「2月29日」も、直接触れてはいないけれど、「映画の嘘」でキスしているように見える場面を見せている。


「いちごの恋」(Cinta Stroberi)
日本人の女の子(いちごちゃん)が1人でマレーシアを訪れる。この日本人、実はマレー人が扮しているんだけど、何から何までぶっ飛んでる。マレーシア人の日本人イメージをそのまま形にしたもの。原宿から抜け出してきたのかと思うような服装とメイク。怪しげな日本語とわざと下手な英語ととてもたどたどしいマレー語。日本にいる父親と電話で話をすれば、父親が敬語を使っていちごが男言葉の命令口調で話すとか。いちごの子どもの頃の回想シーンでは、お父さんとお母さんと3人で食事をしていて、箸を使っているからたぶん日本の食卓だろうけど、なぜかお父さんが帽子をかぶったままご飯を食べている。
ツアーの客でいちごにちょっかいを出してくる出川似の男は「ナルホドさん」。途中で「ナルトさん」になったりするんだけど、これもマレー人が扮する日本人で、みょうちくりんな日本語を話す。英語もわざと日本人の癖を強調して「グッドォ」とか言って笑われてるし。
いちごちゃんのマレー語が途中からやたらにうまくなっていくことも、どう見ても日本人に見えないナルホドさんがわけの分からない日本語を話していることも、最後にはそれなりに説明がつかないわけではないし、いちごちゃんが1人でマレーシアに来た理由もそれなりに物語として語られて、それがまたマレー人が好きそうなお話なんだけど、筋に納得がいくかどうかはたぶんほとんどどうでもよくて、クアラルンプールやマラッカの観光プロモーション・ビデオとして見るといいのかも。