ブノハン

マレーシア映画『ブノハン』を観た。
2009年にヤスミン・アフマド監督が亡くなって、ポスト・ヤスミンのマレーシア映画をいくつか観たとき、それぞれおもしろいし楽しめるんだけれど、それでも私の中のマレーシア映画の歴代ベストで『タレンタイム』を抜く映画は出てこなかった。「マレーシア映画文化ブックレットはもう作らないんですか」という声をかけていただいたことも何度かあるけれど、正直に言うと、これはブックレットで語りたいという作品がなかなか出てこなかったということもあった。もしかしたら、ヤスミンが今後もマレーシア映画の最高峰であり続けるのかなという気がしはじめていた。でも、その考えは甘かったようだ。『イスタンブールに来ちゃったの』と『ブノハン』ですっかり考えが変わってしまった。特に『ブノハン』はぶっ飛んでる。
でもねえ、タイトルが『Bunohan』(殺し)で、宣伝ポスターがボクシングっぽいので、第一印象はどうしても殴り合い殺し合いの映画だと思っちゃうんだな。確かに殴り合いも殺し合いも出てくるんだけど(そして意外な人が殺されちゃったりするんだけど)、でもこの物語の魅力は殴り合い殺し合いの部分じゃあない。男どうしの絆っていうのかな、同性愛の要素はまったくないんだけど、兄弟・友人どうしの絆と裏切りみたいな話の方。一言で言うなら香港ノワールのマレーシア版というかマレー・ノワールとかいう呼び方ができるかもしれない。そう書くとありきたりに見えちゃうかもしれないけれど、そうだとしたら私の表現能力のせいで、この映画のせいではない。


原題は『Bunohan』、英語タイトルは『Return to Murder』。Bunohanは、標準マレー語だとBunuhanで、「殺し」の意味。劇中では、登場人物たちが複雑な思いを抱いて戻ってくるクランタンの故郷の町の名前がBunohan。日本語訳は、折衷案で『ブノハン〜殺しの地への帰還』あたりでどうだろうか。
物語はかなりわかりにくい。その理由の1つは映画の作り方のせい。雰囲気がモノトーンで画面が全体的に暗い。登場人物は男だけ。しかも顔が陰になっていたりして、誰がしゃべっているのかよくわからない。台詞は全編クランタン方言のマレー語。だから一般のマレーシア人もたぶん耳で聞くだけでは台詞がわからないはず。でも、会話に重要な情報が含まれているので、会話を1つ1つ追っていかないと途中で迷子になる。
どうしてそんな作りになっているかというと、この映画がワヤン(影絵芝居)を映像にしたものだからだろう。ワヤンでは語り手が声色を変えて一人何役もするし、登場人物はみんな影なので誰がしゃべっているかはぱっと見ただけではわからない。観客は想像をたくましくしなければならない。
じゃあなぜワヤンなのか。ワヤンはこの物語の舞台であるクランタン地方の伝統芸能だし、物語上も意味があるんだけど、もうちょっと大きな視野で見ると、この作品が何重もの劇中劇になっていることと関係している。何重もの劇のそれぞれのレベルで主要なメッセージがある。そして、その中でも最も大きなメッセージは「人はみな他人の物語の中で生きている」ということ。
わかりにくいもう1つの理由は、この映画に出てくる男たちがみな口数が少ないこと。男たちはみな自分が何をすべきかがわかっているし、ほかの男たちが何を考えていて、何をすべきかもわかっている。だから、何をどう考えて何をしようとしているかをいちいち言葉で説明しないし、尋ねたりもしない。自分が知らない情報を尋ねたり、その情報を知った相手が当初予定していた行動をとろうとしているのかどうかを尋ねたりするときだけ言葉を発する。
物語の核心に関わるので肝心の部分をネタバレせずに説明するのは難しいが、1つ例を挙げると、殺し屋のイルハムがムエタイの試合の途中で姿を消したブンガ・ラランを始末するように指示を受け、ブンガ・ラランがイルハムの田舎であるブノハンに逃げたという情報を得て約20年ぶりにブノハンに戻ったところ。イルハムが幼なじみのジンを訪ねて「ブンガ・ラランを探している」と言うと、ジンは「お前が家を出た後で生まれたので知らないだろうが、奴はお前の弟で名前はアディルだ」と教えた上で、イルハムに「おまえ、まだ同じ仕事をしてるのか」と尋ねる。イルハムは「心配するな、お前を巻き込むことはない」と答える。これは、イルハムは殺し屋なので、ブンガ・ラランの居場所を尋ねるということは殺すために探しているということだから、ジンが「自分の弟でも殺すつもりなのか」と尋ね、イルハムが「殺すつもりだがその責任は自分一人が負う」と答えているということ。肝心なところが全部この調子なので、登場人物の気持ちがわかりにくいといえばわかりにくい。
お互いの手の内がわかっている男たちが、ときに協力し、ときに裏切り、相手を殺そうとし、あるいは殺されようとする。特にメインキャラクターのイルハムとアディルは自分の行動の理由をほとんど語らないので掴みにくい。でも、この物語の男たちの行動がわかるかどうかはマレーシア事情やクランタン事情に通じているかどうかとはあまり関係ないと思う。マレーシアのことを全く知らなくてもわかる人はわかるはず。補助線として、この映画に出てくる男たちはみな自分の母親に幸せになってもらいたいと思っており、母親の名誉のためなら自分が文字通り死んでもいいと思っているし、母親を幸せにできないなら自分が死んだ方がいいと思っている、と考えるとわかりやすいかもしれない。


物語は、途中まで登場人物の台詞や行動で少しずつ舞台設定が示されるともに「1つの謎」が提示されて、終盤でその謎が解かれると舞台設定に沿って一気に物語が動き出すという仕組み。「謎」が何かはウェブ上でもいくらでも書かれていて、それを書くこと自体に全く問題ないと思うんだけど、その謎が解かれた後で話がどう展開するかがこの物語の肝で、上でも書いたように舞台設定がわからないとその後の登場人物たちの行動がうまく読み解けないので、その部分こそ深読みして味わいたいところ。でも、この映画は大小さまざまな謎がちりばめられていて、それらが最終的に1つの物語に収斂していくので、それを書くとしたら物語の何から何までネタバレすることになってしまう。ネタバレしてもこの映画のよさは全く失われない(というか、そのことがわかったうえでもう一度はじめから観たくなる)とは思うけれど、この物語をどう紹介するかはもう少し考えてみたい。
いずれにしろ、もし国内の映画祭かなにかで日本語字幕付きで上映される機会があったら、マレーシア映画に関心があるかないかにかかわらず、ぜひ観ることをお勧めする。