『水辺の物語』(3) マレーシア発のアジア映画

ウー・ミンジン監督について語る上でまず押さえておくべきことは、ウー監督がマレーシアの英語系華人であることだろう。「マレーシアにはマレー人、華人、インド人の3大民族がいて、それぞれが民族語を持っており、それと別に家庭では方言を使い、よそで他民族と話すときはマレー語や英語を使う」というのがマレーシアの民族と言語に関する一般的な説明で、したがって華人の場合、「家では広東語や福建語などの中国語方言を話し、小学校では民族語である華語を学び、中学校以降は国民語であるマレー語を学ぶ」ということになる。
ただし、数からいえば少数派だが、家庭の方針などのために華語のかわりに英語を学ぶ華人もいる。家庭では広東語や福建語などの中国語方言を話すが、華語はほとんどわからないし、漢字はせいぜい自分の名前が書ける程度でしかない。そのかわり英語はネイティブ話者と同じように使いこなす。このような人たちは「英語系華人」と呼ばれる。
英語系華人には、「華人の民族語は華語」「華人うしの共通語は華語」という説明は、世の中でそう言われていることはよくわかっているが、でも自分にとってリアリティが感じられない説明でしかない。さらに言えば、そのような説明が成り立つ背景である「マレーシアにはマレー人、華人、インド人の3つの民族がある」という言い方もあまり好ましく思っていない。自分は血統上はチャイニーズだけれど、でも中国文化を受け継いでいくという意味での中国系ではないと思っている。
ウー監督はまさにこの英語系華人で、英語で「Chinese」と言ったときに2つの意味が含まれてしまう。1つは血統上のチャイニーズで、これには自分も含まれる。もう1つは中国文化を受け継いだチャイニーズで、これには自分は含まれていない。だから、「自分はChineseなのでChineseが出てくる映画を作った」という一方で、「自分はChineseではなくMalaysianだ」と言ったりもする。「Chinese」と言ったときにどの意味が込められているかに気をつけないと話がかみ合わなくなる。


さて、ウー監督は華語がほとんどわからないそうだ。家庭で使っていたために広東語はわかるが、インタビューなどで使うのは気が進まないという。それなのに、『海辺の物語』のように数多くの中国系の言葉が出てくる映画をどうして撮ることができたのか。
ウー監督は脚本を英語で書き、華語に翻訳される。役者たちにはそれぞれ自分が最も使いやすい言葉を使うようにと指示したそうだが、もし中国系の言葉がわかるスタッフたちが見て違和感があるような絵になってしまえばスタッフから修正意見が入り、その作業を通じて違和感がないように設定が変えられていく。どうして違和感があるのかは、おそらく自分たち自身でもうまく言語化できないだろうし、したがってウー監督にも言葉で説明されないことも多いのだろう。だから、ウー監督は、修正の理由を知ることなく、その修正が自分の解釈を成り立たせる限りで修正を許可する。その過程で物語の自分なりの解釈は少しずつ変わっていくが、その解釈が他のスタッフの解釈と同じであるかはわからない。
このような状況に置かれたウー監督にできることは、スタッフの提案を取り入れた上で、なるべく唯一の解釈に収斂させないようにして、解釈をそれぞれの観客に委ねることしかない。その結果、背景に関する知識を十分に持っていない観客にはわかりにくくなる可能性があるが、背景についてある程度の知識がある観客には、それぞれの解釈を可能にする幅の広い作品となった。
これは、監督の頭の中にイメージがあってそれを映像化していく撮り方と対照的で、監督の頭の中にイメージはあるけれど、それを映像化する過程で多くの人の意見を取り入れ、ときに監督自身が考えているのと違う方向に向かうことも許すという撮り方だ。結果として出てくるものは既存の映画作品のカテゴリーにうまくはまらないかもしれないが、しかし今日の現実の社会で起こっていることに根ざしてそこから立ちあがってきたものであるため、まぎれもなく今日の世界に根ざした映画であると言える。
ただし、繰り返しになるが、そのような作品には背景がわからないとわかりにくいものも少なくない。だから、話はそれるが、映画祭などで上映される作品には背景となる社会や文化に関する情報を添えてはどうかと思う。映画祭などの公式パンフレットには映画業界の専門性から書かれた作品紹介がある。その多くは作品論や技術論などで、それらが重要であることを否定するつもりはまったくないが、それに加えて、その映画が描いている対象社会に関する情報も載せてはどうか。私は、自分が馴染みのない国の映画を観るときにはその国に詳しい人が書いた背景説明があった方が映画の理解が深まるだろうから、そのようなものがあればぜひ読みたいと思う。でも、一般に、それは映画を観る人たちに有益な情報を提供するのか、それとも作品を楽しむ上では不要な情報なのか。そんなことを考えながら、マレーシア研究仲間たちといっしょにマレーシア映画の背景を紹介するブックレットをいくつか作ってみた。それがどのように受けとめられているかはわからないが、購入してくださる人たちがいるということは反応が悪くないということだと思い、もう少し続けてみたいと思っている。他の国や地域でも、簡単なものでいいので、社会や文化の背景についてまとめたものが映画祭にあわせて読めるようになればと思う。


マレーシア映画に話を戻そう。2000年ごろから見られるようになった「マレーシア映画の新潮流」は、先駆者であるアミル・ムハンマドがほとんど作品を作らなくなり、そして牽引役であったヤスミン・アフマドが亡くなった後で、若手の華人監督を中心に新しい展開を見せ始めている。とっても単純に図式化すると、華語系華人として大陸中国や台湾に渡ってそこで通用する作品を作り出しているリム・カーワイ監督のような人もいれば、英語系華人としてアメリカ留学経験を持ち、「チャイニーズではないけれどチャイニーズを描く」というウー・ミンジン監督のような人もいる。また、華語系華人アメリカ留学を経験して、マレーシアという国でやっていくという作品を作り続けているホー・ユーハン監督もいる。アジアの他の国や地域との共同制作をする動きも見られるようになってきた。国を超えた共同制作では、自分たちと文化背景が異なる人たちの意見を取り入れて作品を作っていくことになるだろう。最初にイメージしていた作品からかけ離れていくかもしれないが、それは同時に1つの国を越えてより広い範囲で成り立つ物語が作られているということでもある。マレーシアを例にとれば、マレーシアを舞台とし、マレーシアの現実を踏まえて作られながらも、マレーシアという国を越えた広がりを持つ作品になる契機がある。そのような意味で、私はこれを「マレーシア映画」を越えた「マレーシア発のアジア映画」と呼びたい。もしそのようなものがこれから発展していくとしたら、その牽引役となるのはウー・ミンジン監督だろうと思う。日本人を含むスタッフとの共同制作である『タイガー・ファクトリー』が東京国際映画祭で観られるのが楽しみだ。


東京国際映画祭と言えば、スケジュールが発表されていた。国別に書かれていないのでわかりにくいが、私のように国や地域で観る映画を決める人は少数派ということだろうか。かわりに「ヒューマンドラマ」とか「アクション」とかいう分類がされている。
ということで見落としがあるかもしれないけれど、ざっと見たところ、なんとマレーシア・シンガポール関係の5作品が10月26日に集まっている。見落としそうなのは『海の道』。国籍で言えばフィリピン映画だろうけれど、扱っているのはフィリピンからサバに行こうとする人々の話なのでマレーシアの話でもある。作品解説に「マレーシア領ボルネオ島南部サバ州」とあるけれど、ボルネオ島南部はインドネシア領カリマンタン。英語の作品解説には「南部」とは書かれていないので日本語解説に付け加えたのだろう。正しくは「マレーシアのボルネオ島北部サバ州」。
サバのフィリピン人についてはいろいろな語られ方がしているけれど、それをフィリピン側の視点で描いたものになるだろうから、複雑な思いで観ることになるのだろうなあと今から覚悟している。しかしこの作品の分類が「ヒューマンドラマ」と「アクション」とは。前者はわからなくはないけれど、後者は舟から舟に飛び移ったりして立ちまわりを演じるのだろうか。