「水辺」の物語――陸と海のはざまの物語

昨日に引き続き、アジアフォーカス・福岡国際映画祭で観たウー・ミンジン監督の『水辺の物語』について。
この作品の英語タイトルは『Woman on Fire Looks for Water』で、華語タイトルは『遺情』だが、日本語タイトルは『水辺の物語』になっている。英語のタイトルとも華語タイトルとも全然違うじゃないかという気もするが、実はこの日本語タイトルはこの物語のエッセンスを実にうまく表現している。
フェイが出会う2人の女性であるリリイとスーリンは、それぞれ陸の世界と海の世界を象徴している。リリイは水に入るのが嫌いだし、仕事は海で取れたものの水分を抜いて陸の人たちが利用できるようにすることだ。直接関係ないけれど、性格もドライだ。これに対してスーリンは、自分で水に入って貝を採る仕事をしている。性格も、(ウェットとまではいかないけれど)ドライではない。
ではフェイはどうか。水から生えるマングローブ林を主な活動場所にして、仕事は両生類のカエルを売ることだ。ついでに言うと、水上の乗り物である船にも乗るし、陸上の乗り物であるオートバイにも乗る。つまり陸と海の特徴を併せ持った存在ということだ。海水に満ち引きがあるように、はじめリリイに言い寄っていたけれど途中からスーリンと一緒に仕事をするようになってリリイとほとんど会わなくなり、その後でまたリリイに会っているが、これは引潮と満ち潮の変化とちょうど対応している。
物語の後半で引潮になる。船のまわりの水が引いていき、船を陸につけるのに苦労する。この時期、フェイはリリイとほとんど会わない。毎日6時まで(貝採りの)仕事をしているという。物語上は、おそらく引潮なので夕方遅くまで仕事ができるというようなことなのだろう。つまり、引潮になると貝採りの仕事をしやすくなるために陸上から遠ざかるし、潮が満ちてくると陸上との接点が増えていくということだ。
引潮の時期には、フェイが陸上に寄り付かなくなるとともに、陸上で多くの命が失われていく。マングローブ林の水がなくなり、父が遺体で発見される。カエルは死に、カエルを食べた人々も毒にあたる。(スーリンはカエルに毒を盛ったのは自分だと言ったが、本当にスーリンが毒を盛ったのか、それともフェイの機嫌を直してもらうために自分がやったと言っただけなのかは実はわからない。)リリイも毒にあたって倒れる。引潮の直前には羊と鶏が騒いでうるさかったというが、陸の動物たちが騒ぎ、そして命を落とすというのは陸の世界にとっての異変の前兆だろうか。そして再び潮が満ちてくると、フェイがリリイと会い、リリイも中毒から回復する。このように、潮の干満がフェイの活動範囲と連動しているとともに、陸上の生命活動とも連動している。
ということで、この物語は、陸と海のはざま(すなわち水辺)にいるフェイが、陸側に寄ったり海側に寄ったりしながら、リリイとスーリンの間で揺れ動いているという物語であり、フェイに注目するならば「水辺の物語」と呼ぶにふさわしいということになる。
『水辺の物語』が陸の世界と海の世界の2つから成っていることは別のエピソードでも描かれていた。リリイとワイルンが食事をしているときにワイルンがした話で、ワイルンがトラックで魚を運んでいたときに相棒のミンが突然変な歌を歌いだし、何かに憑りつかれたと思って「パクラン」に電話で助けを求めたところ、ニンニクを使えば追い払えると言われた。しかし自分たちの積み荷は魚しかないのでニンニクが手に入らない。そこで近くの民家にお願いしてニンニクを調達したという。語られてはいないが、ニンニクをくれたお礼に積み荷の魚をあげたのだろうか。この挿話は、陸に暮らす人々は陸のものしか持たず、海に暮らす人は海のものしか持たず、交換しないとどちらの生活も不自由であることが示されている。


さて、ここからもう少し深読みしてみたい。
スーリンが象徴する海の世界とは、「海でつながった世界」であるとともに「海の向こうの世界」でもある。それに対してリリイが象徴する陸の世界とは「今いる世界」ということになる。この2つの関係は、例えば「あの世」と「この世」と捉えることも可能だろうし、どう捉えるかによってそこからどの方向に話が広がっていくかが違ってくるだろうが、ウー監督もどの方向に解釈してもかまわないというので、私は自分の関心に引きつけて「この土地」と「あの土地」、もっと具体的に言えば「マレーシア」と「中国」と捉えてみたい。
このように捉えるならば、2人の間にいるフェイは、陸の世界と海の世界を併せもった存在であるという意味で「水辺」の人であり、そしてマレーシア世界と中国世界の両方に属しているという意味ではプラナカン性を持った人ということになる。2つの世界に足場を置いているため、ときどきマレーシア人らしさが強くなるが、ときどき中国世界の一員としての特徴や意識が強くなることもある。どちらの特徴や意識も完全に捨てることはできない。これまでずっとリリイ=陸=マレーシアの一員となりたいと言い続けてきたのに対し、それがなかなか受け入れられず、しかもスーリン=海=中国世界から自分たちの一員として受け入れてあげると呼びかけられ、フェイの意識がスーリン=海=中国世界に向かうと、その結果としてリリイ=陸=マレーシアの生命活動が停滞する。
これを父カンの話と重ねるとどうなるか。昨日書いたように、かつての恋人アイリンは、今でも広東語で自分と繋がっていると同時に大陸中国風というもう1つの顔も持っており、中国世界と重なって見える。カンの妻がどんな人でどうなったかは知らされていないが、いずれにしろ、カンは最近になってアイリン=中国世界との結び付きを強めようとしたということになる。これとフェイの立場を重ねるといろいろとおもしろい話ができそうだが、それはまた別の機会に。
視点をフェイからリリイに移してみると、陸の世界の人であるリリイは、フェイが自分から遠ざかっていったとき、再びフェイと近づくためには水の中に入っていかなければならなかったということになるし、水に入っていくことでフェイと再会できた。これを「この世」と「あの世」で解釈するならば、水に入っていくことで「この世」から去ることによってフェイと再会できたと理解することもできる。


『水辺の物語』のわかりにくさは、いくつも解釈の可能性がある中で、1つの解釈の方向を決めてそれなりに筋が通った解釈ができたと思うと、わかったと思ったとたんにその解釈が手のひらからするりとこぼれてしまって別の解釈が顔をのぞかせているようなところがあるためだろう。ウー・ミンジン監督はかなり意図的にそのようにしていて、その試みを言葉で表現するなら「マレーシア発のアジア映画」になるというのが私の考えなのだが、今日もその話までたどり着けなかった。続きは明日以降。