『水辺の物語』(4)

アジアフォーカス・福岡国際映画祭で観たウー・ミンジン監督の『水辺の物語』のメモ。思いついた順に。

父は何でも知っている

フェイが海辺でスーリンの母親を助けたとき、後ろの海をカンの船が通っている。毎日あのあたりを船で通っていて、スーリンの家族が毎回同じようなことをしているなあと思っていたのだろう。そしてある日、自分の息子が引っ掛かっているのを見て、手相を見ているふりをしてアドバイスしたということなのだろう。手相を見たのは実はあまり根拠がなく、海から船で見ていたために先が予想できたということなのかもしれない。
「父は何でも知っている」に関して言えば、アイリンに「毎日明け方に目が覚めているだろう」と言っていたのも、船に乗って漁をしながらアイリンのことをずっと見ていたのかなと思ったりする。冒頭の漁の場面は夜明けだったし。

「カエルに顔が似てくる」?

リリイがフェイにカエルをもらったとき、「カエルを食べ過ぎるとカエルに似てくるってガンさんが言ってた」というセリフがある。その後でフェイがリリイに自分はカエルに似ているか尋ねている。日本語字幕では「顔が」似てくるとされていた。でも、もとのセリフは顔だけでなく姿かたちのことを言っていたように思う。あとでわかるが、「カエルを食べ過ぎるとカエルに似てくる」とリリイに言ったガンさんというのはリリイが働く干魚工場のオーナーで、その奥さんがまるでカエルのような体形をしている。「カエルに似てくる」というのは姿かたちのことで、ガンさんは奥さんに対する皮肉の意味も込めて言っていたのではないか。

ミャンマー人と「パクラン」

マレーシア華人監督の作品には海がよく出てくる。しかもなぜか西海岸が多い。西海岸の海には何があるのか。マラッカ海峡の対岸にはインドネシアスマトラ島があるし、その向こうにはタイやミャンマーを経てインドや中東につながるインド洋世界がある。交易をする人たちが来るところだし、かつてイスラム教をはじめとする文明がやってきたところでもある。最近では津波もやってきた。自分たちが持っていないものや自分たちの理解を超えたものがやってくるのが海だということになるだろうか。
『海辺の物語』では、海の向こうからやってきたらしい人たちが2人登場する。
1人目は干し魚工場でリリイを口説くミャンマー人。リリイとマレー語で話しているが、(おそらくわざと)変な語順でマレー語を話しており、マレーシアに来てマレー語を習い覚えたばかりの外国人という印象を与える。リリイを誘う口実に使っているのがミャンマーの歌なので、ミャンマー人なのだろう。実際、マレーシアにはミャンマー人がたくさんいて、クアラルンプールの屋台などで多く働いているし、最近では漁村で働く人も増えているらしい。
もう1つは「パクラン」。姿は見せないけれど何度か話に出てくる。名前の原語表記はPak Lan。日本語字幕では「パクラン」になっていたけれど、Pakとは目上の男性に対する敬称なので、(見た目の年齢にもよるだろうが)「ランおじさん」「ラン爺」あるいは「ランさん」ということ。しかも、Pakという敬称はインドネシア人と結びついたイメージがあるので、ラン爺はもともとインドネシアからこの村に来た人かもしれない。ラン爺が電話で話した言葉をワイルンがそのまま口真似して言った部分はマレー語だったので、ラン爺はこの村の人たちとマレー語で話しているのだろう。父の体調が悪いとフェイが薬をもらいに行こうとしたり、リリイが子どものころにおぼれかけたのを助けてくれたり、ミンの憑きものを追い払うのを手伝ってくれたりするなど、呪術によって災いを除くという役割を果たしている。実際にマレーシアの村落部にはそのような力を持つと思われている人がいて、多くの場合にはインドネシア人(特にジャワ人)だったりする。
『海辺の物語』には、海の向こうからマレーシアにやってきて、半ばよそ者扱いされながらもそれぞれ役割を与えられてコミュニティの一員になっている人たちが物語にうまくおさめられている。マレーシアの映画で、マレー語はほとんど出てこなくて、マレー語が出てきたと思ったらどれも話しているのはマレー人ではないというおもしろい仕掛けになっている。

ツバメの巣

スーリンの父親はどんな仕事をしているのか。もちろん、物語中で描かれているのはザル貝を採って出荷すること。でも、わざわざクレーンをつけたり機械化したりして、金をかけすぎではないのか。しかも乗っている車はプロトンのWajaだ。もしかして他にも金もうけの手段があるのではないか。というのはかなりこじつけに近いが、スーリンの父親がもし別に仕事をしていたらどんな仕事だろうかという問いと、スーリン一家の信条のようなものを重ねてみたい。
この一家は「労せずして得る」を信条としているようなところがある。ザル貝はただそこにあるものをとるだけで、いくら採ってもなくならないので工夫はいらない。婿も、海辺でわなを仕掛けて通りかかった気のいい青年を捕まえるだけ。このような考えを持つ人にふさわしい仕事はツバメの巣だろう。洞窟に採りに行くのではなく、コンクリートの2階建てや3階建ての窓なしの建物を作り、建物の中を真っ暗にして、ツバメの鳴き声のCDをかけるだけ。うまくいけばツバメが巣を作って、それをとるだけでいい収入になる。何も働かなくても、ただツバメが巣を作るのを待つだけ。ザル貝採りや婿探しに通じるところがあるではないか。
このツバメハウスは数年前からインドネシアやマレーシアで増えだした。どこでも同じようなCDを使っているので、私もツバメの鳴き声を聞いてCDかそうでないかわかるようになった。『水辺の物語』のバックグラウンドでセミの鳴き声のように聞こえているのがツバメの鳴き声で、これは間違いなくCDのもの。ということはこの集落にツバメハウスがあるということだ。スクリーンには一切映らないが、もしこの漁村にツバメハウスがあるとしたら、それを経営しているのはスーリンの家だろうという気がしないだろうか。
そんなことをウー監督に話したら、スーリンの家の仕事はザル貝採りという設定だけれど、確かにあの漁村にツバメハウスはたくさんあって、撮影ではツバメハウスが画面に入ってこないように工夫した、でも音はしかたないので入ったままにしてあるとのことだった。

物語中の時間の経過

『水辺の物語』のなかではどれだけの時間が流れたのか。はじめの方に「清明節なので動物の死体があるとよくない」という話が出てきて、終りの方でリリイがリアンの勉強を見てあげているときに「国慶節」が出てくる。これはマレーシアの独立記念日だから8月31日のこと。ウー監督は、この物語はせいぜい3ヵ月程度の話と言っていた。清明節は4月初旬だとするとそれから国慶節までだとちょっと長いが、「国慶節」というのはそこに書かれているものを読んだだけで実際には6月頃だったということだろうか。


一見すると都市での時の流れと無関係に昔ながらの生活を維持している漁村にも見えるけれど、移民労働者が来たりツバメハウスが来たりしていて、外の世界としっかり繋がっているということを改めて感じた。
謎のまま残ったものとして、首切り、不眠症、毒などの意味がある。『象と海』とも重なる部分があるので、ウー監督の他の作品も観ながら考えてみたい。