「スールー王国軍」のサバ州侵入事件(2) スールー王国とサバ領有権問題

スールー王国のスルタンの末裔とは何者で、サバ領有権の主張とはどのような内容なのかをまとめておこう。
長くなったのでポイントをいくつか挙げると、
・スールーのスルタンはサバが自分たちの土地だと主張しているが、そもそもかつてスールーのスルタンがサバ全域に支配を及ばせていたわけではなく、間接的(名目的)な支配権しかなかった。
1878年オーストリア・ハンガリー帝国の香港領事とスールーのスルタンの間でサバの権利に関する契約が結ばれた。これが「割譲」だったか「租借」だったかで解釈が分かれている。
・サバの権利を引き継いだイギリス北ボルネオ会社は「割譲」と解釈し、その代金を分割払いでスールーのスルタンに毎年払っていた。1963年にサバがイギリスから独立してマレーシアの一州になったため、今ではマレーシア政府がスールーのスルタンの末裔に毎年5300リンギを割譲の代金として支払っている。
スールー王国はフィリピンの一部になったために王国としては存在しなくなったが、サバがマレーシアの一州になることに反対したフィリピン政府が1962年に「サバはもともとスールー王国の領土だった」と突然スールー王国の話を持ち出し、サバ領有権を主張した。
・「割譲」か「租借」かとは別に、その土地の領有権と統治権は別の問題。サバの住民は1962年と1963年に2回の調査を行ってマレーシアの一州として独立することを選び、今日に至っている。
・実は「スールーのスルタン」を名乗っている人は何人もいる。今回のサバ侵入を支持した人はそのうちの1人。
・スールーのスルタンたちは、現在のミンダナオ社会では政治的にも経済的にもほとんど影響力がない。
・長年続いていたミンダナオ紛争がフィリピン政府とMILFの間で和平合意に達し、これからミンダナオの自治政府をどう作っていくかという交渉がはじまったところ。スールーのスルタン一族はMILFとは別のグループなので、和平交渉や自治政府の話に加えてもらっていない。
・そこで、自分たちの存在も忘れないでほしい、とマニラにアピールしたかったのではないか。したがって、ミンダナオ和平を壊したいのではなく、当事者の1人として加わりたかったのではないか。
・ただし、「軍」を名乗ったり武装したりと、やり方が稚拙だったことは否めない。そのため、様々な思惑を持った利害関係者が絡んできて、銃撃戦と大規模な掃討作戦という最悪の展開になってしまったのではないか。
(要約なのにずいぶん長くなってしまいましたが、以下の話はだいたいこんな感じです。)

(1)スールー王国とサバ領有権

サバ州が1つの行政単位となるのは1881年、イギリスの北ボルネオ会社によってこの土地が統治されたためだった。(当時は「北ボルネオ」と呼ばれ、1963年にイギリスから独立してマレーシアの一州になったときに「サバ」に名称を変えた。そのため1963年までは「北ボルネオ」と呼ぶべきだが、ここでは1963年以前も「サバ」と呼ぶことにする。)

ブルネイとスールーの二重統治

1881年より前、サバはブルネイとスールーの2つのスルタンが統治する二重の統治領だった。ただし、二重の統治と言ってもサバ全域に2人のスルタンの支配が及んでいたというわけではない。
当時、この地域の支配は川ごとに行われていた。熱帯雨林には危険な野生動物や病気が多く、人々は沿岸部や川沿いに住んでいた。内陸部では川が主な交通路だったため、河口を押さえておけば人の動きも物流も押さえることができる。そのため、川ごとの支配と言っても、実際には影響力はせいぜい河口や周囲の沿岸部にしか及んでいなかった。
川ごとに支配者がいたが、それを名目上支配しているのがスルタンで、その意味でサバはスルタンの統治下にあったけれど、スルタンが直接統治しているわけでも、その統治が北海道とほぼ同じ面積を持つサバ全域に及んでいるわけでもなかった。
また、川ごとの支配者とスルタンの関係は、必ずしもスルタンの方が強いというわけではなく、川ごとの支配者にはスルタンに反抗する人もおり、川ごとの支配者とスルタンの間で争いになることもしばしばあった。そのため、スルタンがその川に対する間接的な支配権を別の人に売ったり譲ったりすることもあった。

川ごとにスルタンから支配権を買う

1881年に設立されるイギリス北ボルネオ会社は、イギリスが軍事力に任せて支配したというわけではない。スルタンたちが手を焼いていた川を、オーストリア・ハンガリー帝国の香港領事だったフォン・オフェルベク(フォン・オーバーベック)がイギリスのデント商会の資金援助を受けてスルタンらから買い取り、転売して儲けようとした。ところが誰も買ってくれなかったために北ボルネオ会社を作り、サバの統治をせざるを得なくなった。
ブルネイのスルタンからは1878年に川を何本分か買ったが、もともと川ごとの支配者はスルタンの言いなりになっていなかったため、名目上の支配者がイギリス人になったとしてもイギリス人の言うことを聞くとは限らない。鉄砲の力を借りて言うことを聞かせようとしても、北ボルネオ会社が支配権を持たない隣の川に逃げられてしまえばそれ以上追えない。そのため、北ボルネオ会社は約20年かけてブルネイのスルタンから川を1本1本買っていき、現在のサバ州の領域を北ボルネオ会社の統治領域としていった。

「割譲」か「租借」か

スールーのスルタンからは1878年に川ごとではなく一括してサバを買い取った。このとき契約書に書かれていたのは「パジャック」という言葉で、この契約を引き継いだ北ボルネオ会社側は「パジャック」を「割譲」と解釈し、スールーのスルタンは「租借」と解釈したところがサバ領有権問題の始まりとなった。この契約では北ボルネオ会社はスルタンに毎年5000海峡ドルを払うことになっており、北ボルネオ会社は購入代金を分割で払っていると解釈したのに対し、スールーのスルタンは借料を毎年受け取っていると解釈した。(後に5300海峡ドルに値上げした。)

フィリピン政府のサバ領有権主張

1946年、日本占領下での荒廃から自力で復興するのは困難だと考えた北ボルネオ会社はサバの権利をイギリスに渡し、サバはサラワクとともにイギリスの植民地となった。
1950年代に入り、サバがイギリスからの独立を考えるようになって、単独で独立するのか、近隣のサラワクやブルネイと一緒にボルネオ連合として独立するのか、イギリス領つながりでマラヤ連邦と一緒に独立するのかが検討され始めた。それらの案の1つとして、1957年にイギリスから独立したマラヤ連邦と一緒にマレーシアという新連邦を作ることが提案されると、インドネシアとフィリピンはこの構想に反対した。
スールー王国は、フィリピン諸島の植民地支配者がスペインからアメリカになったときにフィリピンの一部に組み込まれ、フィリピン政府としては王国の存在を正式に認めなくなっていたが、マレーシア構想に反対するためにフィリピン政府がスールー王国の話を持ち出し、「サバはスールー王国のスルタンの領土だ、スールー王国は現在フィリピンの一部だ、したがってサバはフィリピンの領土だ」と主張した。これがフィリピンによるサバ領有権の主張の始まりとなった。

領有権と統治権は別もの

ここで確認しておくべきことは、領有権と統治権は別ものだということだ。
サバの領有権に関しては、1878年の「パジャック」が割譲なのか租借なのかが問題となる。北ボルネオ会社がスールーのスルタンに毎年払っていたのが購入代金の分割払いなのか毎年の賃借料なのかという問題とも関わってくる。私自身は、あれは割譲であって、毎年の支払いは購入代金の分割払いだという解釈を受け入れている。でも、仮に「パジャック」を租借だと解釈して、スールー王国のスルタンに毎年払われていたのが賃借料だと解釈したとしても、そのこととサバの統治権は切り離して考えるべきだ。

サバの住民の意向調査

では、サバに住む人々はどのように考えたのか。1961年にマレーシア結成が提案され、その2年後にマレーシアが結成されることになるが、その間にサバの人々が独立をどのように考えているかについての調査が2回行われた。1回目は1962年に行われたコボルド調査団による調査で、結論だけ言うならばマレーシア結成に賛成という結論が出た。ただし、この調査団はイギリスとマラヤ連邦がスポンサーだったので、穿った見方をすれば中立性を欠くという批判があるかもしれない。そこで、1963年に国連が調査を行い、その結果、サバの住民はマレーシア結成に賛成という調査結果が出た。これを受けて1963年にマレーシアが結成され、サバはマレーシアの一州となった。
余談になるが、マラヤ連邦がイギリスから独立したのは1957年8月31日で、それにあわせてマレーシア結成も1963年8月31日にする予定だった。しかし、国連調査団の調査結果を待ったためにマレーシア結成は1963年9月16日にずれ込んだ。同じ国なのに地域によって独立記念日が食い違い、サバにとって独立記念日は9月16日なのに、今でもマレーシアの独立記念日は半島部にあわせて8月31日なので、サバの人々からすれば、半島部の人々は自分たちをマレーシアの一員として対等に扱っていないという不満のもとになっている。そのことは別の問題だが、このような問題があることも、裏返して見れば、サバの人々の意向を調査した上でサバがマレーシア結成に加わったことの表れだと言える。(独立後にサバがマレーシアの一員として満足しているかどうかという問題はあり、過去にサバのマレーシアからの離脱を主張した人もいるが、そのこととフィリピン政府やスールーのスルタンによるサバ領有権主張とは関係ない話だ。)
1963年のマレーシア結成によって、サバはマレーシアの13州の1つであるサバ州となった。スールーのスルタンへの支払い額は北ボルネオ会社の時代に5000海峡ドルから5300海峡ドルに値上げされていたため、マレーシア政府はそれを引き継いで、1963年以降、スールーのスルタンの資産相続人に毎年5300リンギを支払っている。もちろん、「租借料」としてではなく「購入費」としてだ。

(2)スールー王国とミンダナオ紛争

今回の事件の関係者であるスールー王国のスルタンとはどのような人なのか。
まず確認しておきたいことは、スールー王国のスルタンを名乗っている人は1人ではなく、比較的よく知られている人だけでも数人いるし、実際にはもっとたくさんいるということだ。そして、彼らはいずれも家柄はとてもよいが、今日のフィリピンでは政治的にも経済的にもほとんど影響力がないということだ。

スールーのスルタンはたくさんいる

スールー王国は15世紀から続いているが、サバを北ボルネオ会社に「パジャック」したのは第29代スルタンのジャマルル・アラム(統治1862-1881)だった。第30代スルタンはその息子のバダルッディン2世(1881-1884)、第31代スルタンはその弟のジャマルル・キラム2世(1884-1936)で、第32代スルタンはその弟のムワリル・ワシト2世が就くことになっていたが、即位直前に亡くなった。この後、複数の家系から自称スルタンが立てられ、複数のスルタンが競合することになる。ちょうど第二次世界大戦の時期と重なり、日本軍が認めるスルタンやアメリカ側につくスルタン、サバのスルック人と繋がるスルタンなど、それぞれ外の世界と結びついてスルタンを名乗っていた。
1950年にはイスマイル・キラム1世(1950-1974)が第33代スルタンとなったが、その死後、弟のプンジュンガン・キラムと息子のムハクッタ・キラムがそれぞれスルタンを名乗り、この2つの家系でそれぞれスルタン位が継がれていく。
ムハクッタ・キラム(1974-1986)の家系では、ムハクッタ・キラムが1986年に亡くなると、息子のムズル・ライ・タン・キラムがラジャムダとなった。ラジャムダとは皇太子の意味だが、メディアによっては副王と訳しているところもある。
他方、プンジュンガン・キラム(1980-1983)の家系では、息子のジャマルル・キラム3世(1983-1990)などを経て、その弟のイスマエル・キラム2世が1999年よりスルタンとなって現在に至る。

2012年9月頃、スルタンを名乗る人が増えた

2012年9月、ながくラジャムダを名乗っていたムズル・ライ・タン・キラムが第35代スルタンに即位したと発表した。これを受ける形で、1999年からスルタンを名乗っていたイスマエル・キラム2世の家族が同年11月に集まり、イスマエル・キラム2世が引き続きスルタンであること、ただし対外関係では1983年にスルタンを退いていた兄のジャマルル・キラム3世がスルタンを務めることが確認された。これによりこの家族からは同時に2人のスルタンが出たことになる。このジャマルル・キラム3世が、マニラにいて今回の「スールー王国軍」をサバ州に派遣したとされている「スールー王国のスルタン」だ。また、その弟のアジムッディン・キラムは、ラジャムダとして武装集団を率いてサバ州に侵入した。

スールー王国軍」関係者の名前

なお、今回「スールー王国軍」を指揮してサバ州に侵入した人物の名前は、ソースによって綴りが違っている。Agbimuddin Kiram、Azimuddin Kiram、Azimuddie Kiramの3つがある。もともとフィリピンに近い人が書いている文章ではAgbimuddin Kiramという名前が出てくることが多く、もともとマレーシアに近い人が書いている文章ではAzimuddin KiramやAzimuddie Kiramとなっていることが多い。
フィリピン国内では関係する文書などが参照できるだろうから、フィリピン側の名前は書かれた資料に基づいた綴りで、もともとアラビア文字で書かれていた名前をローマ字に転写したときにAgbimuddinにしたのかなと思うし、マレーシア側では書かれた書類はなく関係者への電話などで取材や調査したのだろうから、耳で聞いてそのまま書いたのがAzimuddinまたはAzimuddieなのかなと思う。そうだとすれば、Agbimuddinと書いてアジムッディンと読むのがよいのかも。
それから、マニラにいて「スールー王国軍」をサバ州に派遣した人物のことを、フィリピンに近い人たちは「キラム3世」と呼んでいるようだ。でも、「ジャマルル・キラム3世」と呼ぶべきだろう。ジャマルル・キラム3世というのは、ジャマルル・キラム2世とジャマルル・キラム1世がいるため。ジャマルル・キラム3世の弟はイスマエル・キラム2世で、したがってイスマエル・キラム1世もいる。
「7代目市川」とだけ言ったら團十郎だか海老蔵だか染五郎だかわからないのと同じこと。それだったら「ジャマルル・キラム」とだけ呼べばまだいいのにと思う。

スールーのスルタンはまだたくさんいる

話をスールーのスルタンに戻そう。「スールーのスルタン」を名乗っている人は上で挙げた人たちだけではない。例えば、ジャマルル・キラム2世の孫のロディノドもスルタンを名乗っており、マレーシア政府はロディノドをサバの購入費を毎年支払うべきスルタンの資産継承人と認めている。

サバ出身の自称スルタン

また、これまで紹介してきたスルタンたちはいずれもフィリピンで生まれ育っているが、サバ州で生まれ育ったモハマド・アクジャンが2011年2月、スールーの第33代スルタンに即位したと発表した。このことはマレーシア政府にとって重大問題となった。マレーシアでは、イギリスの直轄植民地だったサバなどのいくつかの州を除き、それぞれの州にスルタンがいる。スルタンは世襲で各州のイスラム教の擁護者であり、スルタンの互選で国王が選ばれる。マレーシア国外でスールーのスルタンを名乗る人がたくさんいても特に問題ないが、マレーシア国民がマレーシアにとどまったままスルタンを名乗ることはマレーシアの国体に対する重大な挑戦であり、マレーシア政府としては看過できないことだった。そのためマレーシア政府はモハマド・アクジャンを逮捕し、モハマド・アクジャンは後にスルタン即位を否定した。
ここで挙げたものだけ見ても、「スールーのスルタン」を名乗っている人は現在4人いることになる。しかしこれはほんの一部でしかない。これ以外にも何人も「スールーのスルタン」が何人もいる。マレーシア政府はスールーのスルタンの資産継承者に毎年5300リンギを支払っているが、一説によるとその金額を9人の自称スルタンで分け合っているという。

政治的・経済的な影響力はほとんどない

スールー王国のスルタンの末裔」と聞くと、その人物が旧スールー王国をすべて引き継いでいる立場にあると誤解しかねないが、まったくそんなことはない。
また、もう1つ重要なことは、これらのスルタンたちは、家柄としてはとても高貴だが、いずれも今日のフィリピン社会において政治的にも経済的にも周縁部に置かれており、社会における影響力はほとんどないということだ。
ミンダナオ紛争の中心的な位置を占めてきたのはモロ・イスラム解放戦線(MILF)で、2012年10月にフィリピン政府とMILFの間で和平の枠組み合意が結ばれ、2016年の自治政府組織に向けて現在交渉が進められている。その交渉のための会議は、マレーシアがホストとなり、クアラルンプールで2月末から行われることになっていた。この和平合意にも自治政府組織のための交渉にも、スールーのスルタンたちは一切関わらせてもらっていない。

ミンダナオ和平への参加が狙い?

2012年9月頃からスールーのスルタンを名乗る人が相次いで出てきたことも、フィリピン政府とMILFの間の和平の過程が進むのに対して、自分たちがそこに参加できていないという危機感があって、ミンダナオの将来を考える上で自分たちも当事者として加えてほしいというアピールという意味が大きかったのではないか。かつて上院議員を務めたこともあるジャマルル・キラム3世を対外的なスルタンとしたのも、マニラ政府に対する交渉を期待したためだと考えられる。
弟のアジムッディン・キラムを指導者として配下の人々をサバ州に送ったのも、フィリピン政府とMILFの和平交渉をホストしているマレーシアに自分たちの存在をアピールするという意図もあったかもしれないが、むしろマニラ政府に目を向けさせることが主な目的だったのではないか。サバ州侵攻に踏み切る前に、ジャマルル・キラム3世はフィリピン政府にスールー王国の関係者の窮状を訴える書状を送っていたが、フィリピン政府側からは反応がなかったという。(今回の事件が起きた後でフィリピン政府が調査したところ、外務省内でほかの書類に紛れて放置されているのが発見されたという。)

「王国軍」「故地への帰還」という言葉のイメージ

しかし、いくつかの予期せぬ状況の積み重ねと、今回の状況を利用しようとするさまざまな人々の思惑が重なって、事態は想像を超えて不幸な方向に大きく展開してしまったのだろう。その原因は、そもそもサバ州に侵入した際に武装していたことがまずかったと思うが、「スールー王国軍」や「スールー王国への故地への帰還」という語り方がされていったことが、事態を不幸な誤算に向けて進めてしまった原因とまでは言わないが、そうする口実を与えてしまったように思われる。
当初、フィリピン政府は帰国せよと呼びかけたが、これに対して「自分たちの土地に滞在しているだけ(なので法を犯していない)」と応答した。この前半部分が取り上げられて「スールー王国の故地への帰還」と語られ、世間はこの問題に領土問題としての関心を向けるようになった。また、フィリピンでは民兵を持っていることは珍しくなく、通常militiaと呼ばれているが、今回の事件ではarmyと呼ばれていた。これが「スールー王国」という言葉と結びついて「スールー王国軍」として語られたことが、マレーシア政府が最終的に大規模な軍事作戦を展開して大きな犠牲を生むことになった遠因の1つとなったのではないか。