「スールー王国軍」のサバ州侵入事件(3) サバ州の外国人問題とマレーシアの総選挙

マレーシア側からこの出来事を見たとき、不思議なのはどうしてこれほどまで大規模な軍事作戦を取らなければならなかったかということだ。その背景には、4月には行われると見られている次回総選挙で与党連合がかなり厳しい戦いを強いられそうで、勝利の鍵を握るのがサバ州からの支持であるという連邦政府あるいは半島部の事情と、1963年の独立以来、出身地を問わずに多様な人びとから成る社会を作ろうとしてきたサバ州で、1980年代以降に人口バランスが大きく変化しており、それへの対応を求めてきた(しかし連邦政府は十分な対応をとろうとしてこなかった)というサバ州の事情がある。

これも長いのでポイントを挙げておく。
・マレーシアは連邦国家で、連邦(クアラルンプール)と州(サバ)にはそれぞれ別の事情がある。
・今回の事件に特定の黒幕がいるわけではないだろうが、連邦政府サバ州の政治家、サバ州の人々など、それぞれが自分たちが置かれた状況をよくしようとして今回の事件を利用した。
連邦政府の中核政党であるUMNOは、強力な野党が出てきたため、今年4月にも行われる総選挙でかなり厳しい戦いを強いられる見通し。
・半島部では与野党の勢力は拮抗しているので、政権を維持するにはサバ州有権者の支持を掴む必要がある。
・これまで50年間、クアラルンプールは「辺境」サバ州を放置してきたが、ここにきてサバ州で自分たちの存在をアピールしなければならなくなった。
・そのためには、サバ州の長年の懸案である国境警備と外国人問題に毅然とした態度で臨むことが効果的。
サバ州に目を向けると、1963年にマレーシア結成に加わった理由の1つは、外部からの侵略から守ってもらうという期待だった。
・経済開発のために1980年代に外国人労働者を大量に入れ、サバ州の人口が急増した。しかも政府高官が正規の手続きを踏まずに外国人にマレーシアの市民権を与えたため、有権者の人口構成も大きく変わってしまった。
・もともとサバ州は世界各地のさまざまな民族やその混血者たちがかなり自由に暮らしていた社会だったが、1980年代以降には「マレー人」ムスリムの割合が大きくなってバランスが崩れてきた。
・そのため、サバ州は、外国人への市民権付与について正式に調査することと、国境警備と治安維持をきちんと行うことについて、連邦政府に要求してきた。
連邦政府はその要求を長く無視してきたが、総選挙に備えて外国人の市民権付与に関する調査委員会を設置した。残るは国境警備と治安維持にも取り組んでいるというアピールをしたいと思っていたところに今回の事件が起きた。

(1)マレーシア連邦政府の事情

マレーシアでは5年に一度の総選挙で連邦政府の政権党を決めているが、1957年の独立以来、50年以上も同じUMNOという政党が首相を出し続けてきた。「独立の父」アブドゥル・ラーマン首相も、長期政権のマハティール首相も、現在のナジブ首相も、いずれもUMNOの党首としてマレーシアの首相を務めてきた。

50年以上続いた与党連合の統治

UMNOは単独で政権を担ってきたわけではなく、他の複数の政党と連立して与党連合を組織し、その中心にUMNOがおさまることで政権を担当してきた。この与党連合が50年以上も政権を担当し続けてきた秘訣は、与党連合の政策に不満を持つグループが政党を結成して勢力を伸ばしてくると、それを与党連合に取り込んでオール与党体制にして、与党連合内で資源の配分を調整してきたことにある。現在の与党連合は国民戦線(BN)という名前で、UMNOのように主に半島部を基盤とする政党だけでなく、サバ州サラワク州を基盤とする政党も国民戦線に取り込み、安定した政権を運営してきた。
しかし、マハティール首相の後継者と目されていたアヌアル・イブラヒムが路線対立によって1998年にUMNOを除名されたことを契機に、アヌアルを指導者として人民公正党(PKR)が結成されると、国民戦線の統治に不満を抱えていた様々な政党や社会勢力がPKRと連携して、野党連合の人民協約(PR)に発展した。人民協約は基本的に半島部で国民戦線に不満を持つ勢力が集まったもので、サバ州サラワク州では人民協約に合流する動きはなかった。

2008年総選挙の結果

2008年の総選挙で、人民協約が大躍進し、国民戦線は「大敗」した。連邦議会(国会)の222議席は与党連合が140議席、野党連合が82議席となった。これだけだと与党連合の緊張感はあまりわからないかもしれない。でも、マレーシアは連邦国家で、半島部、サバ州サラワク州ではそれぞれ異なる政党が活動しており、この3つの「邦」が連なったものがマレーシアという連邦なので、選挙結果は半島部、サバ州サラワク州で分けて見なければわからない。
2008年の総選挙の結果を半島部、サバ州サラワク州に分けると、与野党議席数は、
半島部 85対80
サラワク州 30対1
サバ州 25対1
となる。

与野党間のくら替えの敷居は低い

半島部ではかろうじて5議席差で与党連合が勝ったが、わずか3議席移っただけで与野党が逆転するぎりぎりの過半数でしかない。サバ州サラワク州では与党連合が圧勝しているかに見えるが、サバ州サラワク州の政党は半島部の与党連合の政党とは直接の繋がりがない地元政党がほとんどで、これまで連邦政府ではUMNOが政権党の中心だったからUMNOがいる国民戦線に参加していたのであって、もし連邦政府でPKRが政権党になるならPKRがいる人民協約にくら替えしてもほとんど問題ないと考えている。国民戦線と人民協約では政策が違うからそう簡単にくら替えできないと思うかもしれないが、国民戦線と人民協約の政策はもっぱら半島部をどうするかに目が向けられており、やや乱暴な言い方をするならば、サバ州サラワク州は勝手にやっていてくれるならそれでいい、というのが実際のところだ。だからくら替えの敷居はとても低い。

次回総選挙のためサバ州の支持が必要

前回総選挙は2008年3月8日に行われた。そこで選ばれた議員が初登庁したのが4月28日だったため、今年の4月27日で5年の任期が切れる。マレーシアではこれまで5年の任期満了により総選挙となることはなく、与党連合がタイミングを見計らって4年目の途中あたりで解散・総選挙を行ってきたが、今回は与党連合側がなかなか準備が進まず、この時期になっても解散に踏み切れないでいる。
与党連合は、半島部でもサバ州でもサラワク州でも選挙対策を行っているが、半島部での国民戦線と人民協約の対立は根深いものがあり、よほどのことがないとほぼ互角という状況は変わりそうにない。そうだとすると、サバ州サラワク州での支持を集めて野党連合へのくら替えを防がなければならない。そのためには、サバ州サラワク州の人々にとって深刻な課題に答える必要がある。2013年の総選挙を直前にして、連邦政府はこれまでサバ州が30年近くも要求してきた問題に対してようやく対応せざるを得なくなった。国境警備と外国人問題だ。

(2)サバ州の内政の課題:安全保障と経済開発に挟まれた外国人問題

サバ州の内政の課題を、独立した1963年から時代を追って見ていきたい。なお、連邦制をとるマレーシアではサバ州には独自の州議会と州政府があり、サバ州有権者によって選挙で選ばれているが、興味深いことに、独立後の最初の選挙が行われた1967年以来、サバ州有権者はどの政権党も2期9年で替えてきた。それに従えば、今回の選挙が「替えどき」ということになる。

1963年 共産主義インドネシアの拡張主義への脅威

1963年9月、サバはイギリスから独立してマレーシアの一州になった。このとき、サバは単独で独立するか、サラワクなどボルネオ連邦として独立するかなどの選択肢があったが、マレーシアという枠組みで独立することを選んだ大きな理由は安全保障だった。当時、北からは中国からベトナムへと共産主義化の動きがあり、南からはニューギニア島の西パプアを併合したインドネシアの拡張主義があり、サバは単独で独立したらいずれ共産主義勢力かインドネシアのどちらかに呑みこまれてしまうと思われた。それを防ぐにはマレーシアに参加して、連邦政府に守ってもらうしかない。これがマレーシアへの参加に踏み切った大きな理由だった。

1963-67年 木材生産業の州有化の試み

マレーシアの一州となり、国防と治安の問題で頭を悩ませることはなくなったサバ州は、州内の経済発展に乗り出した。
1963年には、マラヤ連邦に倣ってサバ州の主要3民族を代表する3つの政党が与党連合を組織し、独立に伴って州政府を担当した。州首相はドナルド・ステファンで、ニュージーランド人とカダザン人の混血者である父親と、イギリス人とおそらく日本人の混血者である母親を持ち、半分白人のような外貌を持ったキリスト教徒だった。ステファンは、州内の木材資源を利用した経済開発を構想し、木材生産業を州有化しようとしたが、木材業者たちの反発を受けて失脚した。

1967-76年 ミンダナオ支援とサバ分離独立示唆

1967年の選挙で州首相になったムスタファ・ハルンはスルック人のイスラム教徒だ。スルックというのはマレーシア側の言い方で、フィリピン側だとタウスグとなり、これはスールー王国の支配層の民族名で、ムスタファもスールー王国のスルタンの1人の親類だった。
ムスタファはサバ州が半島部と文化的に対等になる必要があると考え、教育を英語からマレー語に切り替えたり、内陸部の先住諸族をイスラム教に改宗させたりする「マレー化」を進めた。サバ州沖で採れる石油ロイヤルティの州の取り分を5%とするという連邦政府の提案に反対してサバをマレーシアから離脱させる可能性を示唆したり、木材生産業を公営化してそこから得られた資金をもとにミンダナオのモロ民族解放戦線を公然と支援したりしたため、連邦政府の頭を悩ませた。1976年の選挙では連邦政府の支援を受けたブルジャヤ党に敗北した。

1976-85年 外国人を積極的に受け入れた経済開発

1976年に州政権についたブルジャヤ党は、インド・パキスタン系とマレー人の混血者と言われるイスラム教徒のハリス・サレーが代表を務め、連邦政府のマハティール首相の支援のもと、フィリピンやインドネシアから外国人労働者を積極的に受け入れてサバ州の経済開発を進めた。
フィリピンやインドネシアから労働者を入れただけでなく、国民登録局の担当官と手を結んで、マレーシアの身分証明書を発行する手続きに裏から入れたため、多くの人がマレーシアの身分証明書を持つことになった。この身分証明証は不正な手続きで得られたものだが、手続き自体は正規の手続きに従っているため、身分証明証自体は正規のものとなる。
こうしてマレーシア国民としての身分を手に入れた人々の多くは「マレー人」を名乗るようになり、身分証明証が手に入らなかった人々は「外国人」としてサバ州に滞在することになった。このため、サバ州では1980年代以降に人口が急増し、特に「マレー人」と「外国人」が大きく増えた。

1985-94年 「サバ人のサバ」を掲げて連邦政府と対立

フィリピンやインドネシアからの移民人口が急激に増え、しかもその多くがマレーシア国民としての身分を手に入れ、有権者の人口構成が大きく変化していることに対して、主に内陸部に住む非ムスリムの先住諸族(カダザンドゥスン人やムルト人)や主に町に住む華人の間で危機感が高まり、1985年の選挙ではサバ団結党(PBS)が政権に就いた。
党首のパイリン・キティガンはカダザンドゥスン人のキリスト教徒で、「サバ人のサバ」を掲げ、連邦政府に対してサバ州の経済開発や国境警備、外国人急増問題の解決を連邦政府に要求した。パイリンの弟であるジェフリー・キティガンは、サバ州の先住諸族出身者で初のハーバード大の博士号取得者で、大学で学んだことをサバ州の現実に照らして柔軟に解決策を探し、実際に試みようとした。ジェフリーは、外国人問題の調査・解決や石油ロイヤルティの見直しなどを要求し、連邦政府がこの要求に応えないとサバのマレーシアからの離脱の可能性を検討したため、連邦政府治安維持法で逮捕・勾留された。
パイリン州首相のもと、ドンポクやヨン・テックリーなどの州大臣が連邦政府に対して強い態度で臨んだが、これによってPBS政権と連邦政府の対立はますます高まり、連邦政府の中核であるUMNOは1991年にサバ州に進出して直接統治に乗り出した。

1994-2003年 親連邦路線か州独自路線か

1994年の選挙では、UMNOのサバ州支部が中心となって国民戦線サバ州支部を組織し、州政権をPBSから文字通り奪った。半島部の国民戦線に倣って民族別政党が参加する方式を取り、誰が州首相になるかについては、ムスリム(マレー人など)、先住諸族(カダザンドゥスン人など)、華人の主要3民族の輪番制とした。
この時期、PBSを主要野党として、サバ州の人々は親連邦路線でいくか州独自路線でいくかの選択が迫られたと言えるが、この間にもマレー人(イスラム教徒)の数が増え続け、有権者の半数以上がイスラム教徒となったため、2003年に州首相の輪番制をやめてUMNOから州首相を出すことになった。

2003年〜 オール与党体制で開発を進める 残された課題は?

PBS国民戦線に加わってオール与党体制となった国民戦線政権のもと、サバ州では連邦政府の資金をもとに東海岸のアブラヤシ農園の大規模開発などが進められ、その労働力の供給源として外国人の急増問題は放置された。「開発できるところから開発する」という態度により、内陸部の経済開発、東海岸の国境地帯の国境警備・治安維持、フィリピンやインドネシアからの移住者が身分証明証を持っていないために社会にうまく位置づけられず、さらにその子どもたちが無国籍児童となって十分な教育や医療が受けられないなどの問題は置き去りにされたままとなった。
2008年以降、半島部で野党連合が勢力を伸ばしている状況で、野党連合との連携によってこれらの問題の解決の可能性を求めたのが、東海岸のラハダトゥ出身の華人であるヨン・テックリーと、内陸部出身のカダザンドゥスン人であるジェフリー・キティガンの2人で、現在でもこの2人がサバ州の外国人問題の解決などを連邦政府に訴え続けている。

(3)サバ州の外国人問題:何が問題なのか

サバ州の外国人問題とは何か。サバには単一の「サバ民族」がなく、様々な民族がサバ州住民を構成している。前項で一部を紹介した歴代の州首相を見れば、マレー人ムスリムだけでなく、白人とアジア人の混血者、スルック人、インド・パキスタン系の混血者、先住諸族のカダザンドゥスン人のキリスト教徒、華人など、実に様々な民族がいるし、しかもその多くは混血者である。民族性がどうでも、宗教が互いに違っていても、出身地がどこでも、誰でも受け入れて一緒に社会を作って来たのがサバ社会の特徴だ。

班長を決める、名札を付ける

様々な文化背景を持ち、お互いに何を考えているかわからない人々が1つの社会を作るにあたって、どのような工夫を重ねてきたのか。これを学校でたとえるならば、班長を決めること、そして1人1人が名札を付けることだ。
何か問題が起こったときに誰に相談して解決を求めればいいかが重要で、それがお互いにわかっていると安心して付き合える。誰に相談すればいいかがわからない状態の人々を相手にすると、マレーシアの人々はとても心理的緊張を強いられる。だから、1人1人が名札を付けてどの班に所属する誰なのかをお互いに明らかにして、何かあったときにどの班長に相談すれば解決してもらえるかがわかるようにすればいい。

領事館を作る、パスポートを持つ

外国人に置き換えるならば、班長は大使館や領事館、名札はパスポートにあたる。サバ州の人々は、フィリピンやインドネシアから人々が来ること自体は歓迎しているが、1人1人がパスポート(あるいはそれに代わる公的な身分証明証)を持ち、何かあったら解決を求めることができる大使館か領事館がサバ州に作られていないと、個人的な付き合いはともかく、集合的な付き合いとしてはどうやって付き合えばいいのかわからずに戸惑っている。
(領事館が作られて、1人1人の外国人がパスポートを所持するようになりさえすれば犯罪は減るし争いも簡単に解決する、という発想はどこまで現実的かなと思うこともあるが、少なくともサバの人々の間ではそのことをクリアすることが重要だと思われている。サバ社会がもともと穏やかで厳しい争いがほとんどないことをよく表している。)

フィリピンは領事館が置けない

サバ州が外国人問題の解決といったとき、主要な問題は、(1)1980年代以降にサバ州の人口が急激に増加し、しかもマレーシア国民が急増しているのはなぜなのかを調査すること、(2)フィリピンやインドネシアの政府に働きかけて、サバ州にそれぞれの領事館を置いてもらうとともに、サバに来るときには1人1人がパスポートを持ってくるようにすることの2点だ。
フィリピン政府はサバに領事館を置いていない。サバ領有権の主張を取り下げていないためだ。このため、サバ州ではフィリピン人は何か問題があっても交渉の窓口がない人々だと見られてしまう。このことがサバ州の人々のフィリピン人に対するイメージを必要以上に悪くする原因の1つとなっている。

インドネシア人はパスポートを取りにくい

インドネシアは領事館を置いたのでその点では一歩進んだと言えるが、サバ州にいるインドネシア人にはパスポートを持たない人が多い。
マレーシア政府は、パスポートを持たない外国人にいったん帰国してもらい、パスポートをとって正規の手続きで入国してもらおうとして時おり作戦を展開している。しかし、インドネシア人の場合は、いったん国外に出てもジャワ島の出身地まで戻るのが大変だし、戻ってもいくつもの役所を回らなければならずパスポートを取るのが大変なので、結局パスポートを取らずにサバ州に戻ってくるということが繰り返されている。
マレーシア政府はこの問題を解決するため、マレーシアとインドネシアの国境付近にインドネシアのパスポート発給に必要な関連部署を集めた行政サービスセンターを作り、一か所でパスポートがとれるような仕組みをインドネシア政府と協力して作ろうとしており、これによって問題解決に進むことが期待されている。

強制送還ではなく適切な手続きを求めている

マレーシアはときどき外国人労働者の身分証を調査して、適切な身分証を持っていない人を国外にいったん出すことをしているが、それを「強制送還」という言葉で語っていたずらに対立を煽るのはいかがかと思う。前項で書いたように、適切な手続きを経て再入国することを期待しており、そのための制度作りに協力してもいる。
「昔から国境なんて関係なく行ったり来たりしていたんだ」という声があるのもわかるが、朝起きて国境の向こうの市場に行って朝食の買い物をして、夕方また国境の向こうの向こうの親戚の家に遊びに行って、というちょっとした移動の話ではなく、サバ州社会の一員として長くとどまって働くなり勉強するなりの関わり方をするのであれば、正規の手続きをとって自分が何者か、そして自分の身元保証人は誰なのかを明らかにすることぐらいしてはどうかと思う。

入れ替わりが激しい社会を作る工夫

パスポートなんて国が勝手に決めたものだ、昔からそんなものはなくても人々はうまくやって来た、という人がいるかもしれないが、それはコミュニティのメンバーが比較的固定されていて、今日経験したことが半年後も1年後もだいたい忘れずにメンバーによって覚えられているようなコミュニティだからこそ通用する話だ。国境を越えて様々な人々が行き来して、今日集まったメンバーが明日になったら半分入れ替わっていたというようなコミュニティでは、流動性の高さを維持したまま秩序をぐちゃぐちゃにしないためには、1人1人が自分が誰で、自分に何かあったときに誰に連絡すればいいかをお互いに提示し合うという方法が有効だ。これが、グローバル化の時代に入る前から多民族状況に曝されていたマレーシア(特にサバ)で発展してきた工夫であり、サバ州の一員になりたいのであれば、パスポートなり他の公的な身分証なりで自分の身許を示すべきではないかと思う。

外国人への身分証明証発給の調査委員会がようやく設置された

もう1つの問題は、1980年代以降にサバ州の人口が急増し、しかもマレーシアの身分証明証を持つ人が増えたのはなぜかということだが、これについて調査委員会を組織してほしいというサバ州の要求をずっと無視してきた連邦政府は、来る総選挙でサバ州有権者の支持を得なければならないという状況でついに重い腰を上げ、2012年6月に外国人問題の王立調査委員会(RCI)を設置した。現在、調査委員会のヒアリングが進められており、調査内容の一部が新聞などで報じられ、外国人への身分証明証発給が政府高官を含めて行われていたことなどが明らかにされつつある。これでサバ州有権者は与党連合にかなり好意的になった。