マレーシア映画『インターチェンジ』

2016年後半のマレーシア映画(一部シンガポール映画も)には見ごたえがあるものが多かったので忘れないうちにいくつかメモ。日本でも映画祭などで公開されるかもしれなと思うとどこまで書いていいか迷ったりもするけれど、基本的に物語の核心部分も含めて書くことにする。


1つ目は『インターチェンジ』(Interchange)。監督は『ブノハン』のデイン・サイード。芸術性が高く、かつ他にない物語性を持った作品しか撮らず、「観て考えさせるのが目的」という監督。
西洋人が100年前にボルネオの奥地にカメラを持ち込み、現地の人々の写真を撮った。写真に撮られたことで人々の魂がガラス乾板に捉えられてしまい、それを解放するという物語。現代のクアラルンプール?で奇妙な連続殺人事件が起こり、警察がその捜査を進める一方で、ボルネオの内陸民に伝わる伝承と今日のクアラルンプールが交錯する。(舞台は「メトロポリス警察」があり通貨単位が「ドル」なので架空の場所かもしれず、クアラルンプールではないのかも。)
物語の結末で魂たちが解き放たれたように、この映画にはさまざまな層の物語が織り込まれているので、映画を観た後であれこれ考えるのがまた楽しい。どんな物語を読み込むのかは人それぞれ。100年前の写真撮影に象徴される現地住民へのまなざしに始まって冒頭で人々が動画を撮っている意味を考えるとかいろいろあるだろうけど、私が特に興味を持ったのはサバ人をマレーシア映画のメインストリームに持ってきたこと。
アダムはサバ人という設定で、サバのマレー語を話す。独特の語順もイントネーションも語尾も、どこからどう聞いても完璧にサバ人のマレー語。もうそれだけでサバ関係者には必見の作品。
それはともかく、マンは半島のマレー語を話すし、警官(つまりお上)なので、マンとアダムの関係は半島部マレーシアとサバの関係を示唆している。アダムの部屋に勝手に入ってきたマンにアダムが「鍵を返せよ」と言っているのは、サバ州が持っていた出入境管理の権限を連邦政府が取り上げたことを思い出させるし、マンがアダムに「大学に行かせてやっただろ」と言うのも、選挙のたびに連邦政府の与党政治家が「私たちはサバに大学を設置して教育の機会を与えた」と恩着せがましく言っていることと重なる。物語上は写真が撮られた100年前に焦点が当てられているけれど、「私たちの種族は50年前に滅びた」というセリフは1963年にサバがマレーシアの一部に編入されたことを思い出させる。これらは物語とはまったく関係ないけれど、繋いでいくと別のメッセージが浮かび上がってくる。その延長で考えると、捉えられた魂を解放するのがサイチョウだというのはけっこう大胆なメッセージだったりする。でも、繰り返すけどこれは物語の本筋とまったく関係ない話。
マレー語の話に戻ると、この作品のマレー語は大きく3種類あって(ボルネオ内陸民の言葉はマレー語ではないので別)、マンが話すのは半島部のマレー語、アダムが話すのはサバのマレー語、そしてブリアンとサニが話すのはちょっと独特なマレー語。この2人が話しているのもサバのマレー語という設定なのかもしれないけれど、アダムほどの出来ではない。もしかして地域性を排除したマレー・インドネシア世界の言葉ということ?
でも、とても残念なのは、半島部マレーシアの多くの人はサバのマレー語を聞いたことがなくて、自分たちが聞きなれないけど理解できるマレー語風の言葉はインドネシア語だと思うので、『Interchange』は登場人物がマレー語とインドネシア語を混ぜて話すので違和感がある、なんていうレビューを書いたりする。わざわざサバのマレー語にしたのに半島部のマレー人にそのことが伝わっていないとは、デイン・サイードは報われない。