舞台『Nadirah』

フェスティバル/トーキョーのアジアシリーズ vol.3のマレーシア特集で、インスタントカフェ・シアターカンパニーによる舞台『NADIRAH』を観た。シャリファ・アマニが出演している舞台だということもあるけれど、何と言ってもヤスミンの短編『Funeral』のリー夫人を演じたジョー・クカタスのあの英語を生で聞くことができたのがとてもよかった。あの『美しい洗濯機』のパトリック・テオが目の前で動いている姿を見られたのもよかった。パトリックと言えば、自分が20年前に『Star』に載った記事を持ってきて見せてくれた人がいたんだと感激して何度も話してくれた。みなさんの愛情の注ぎ方の年季の入り方と徹底の仕方に改めて敬服。


さて、とてもよかったので忘れないうちにメモしておこう。
ただし、作品としてはよかったけれど、はじめに残念だった点から。残念だったのは日本語字幕。ユスフ・イスラムがユスフ・イスマイルになっていたとかa copy of bibleが「聖書のコピー」になっていたとかいう単純なミスはともかく、内容理解の助けになるはずの字幕が内容理解の妨げになっていたんじゃないかというのが残念だったところ。字幕を作った人は正確な逐語訳を心がけたんだろうという意図はよくわかるけれど、内容を大づかみにしてまとめるでもなく、一般の日本人観客には不要であろうカタカナ表現もそのまま字幕に載せていたため、とにかく字数が多く、おそらく読んでいるだけで精一杯で、肝心の舞台の様子に目を向ける余裕がなかったのではないか。映画の字幕だと1秒に3〜4字に収めるために専門家たちがいろいろ表現の工夫をしているので、この舞台だってそれと同じようにできたはず。
それに加えて、後半になると文脈を十分に理解しないで機械的に訳しているような字幕がいくつか出てきて、頭の中で筋を整理しているうちに話が進んでいってしまい、そのあたりで字幕を追って内容を理解するのを諦めた人がけっこう出てきたんじゃないかと思う。そうなると、「細かい話はよくわからなかったけれどどの国も(どの民族も)いろいろ問題があって悩んでいるんだなと思った」というような感想ばかり出てくることになる。もちろんどんな感想が出てきてもそのこと自体は何も悪くなくて、そこが問題なのではなく、スタッフやキャストが伝えようとしたことをちゃんと伝えるために最善が尽くされているかということ。わざわざ手間隙をかけて公演する意味は、おおざっぱな理解をしてもらうことじゃなくて、個別の事情を知ってもらうことにあるはずで、もう一手間かければよかっただろうにと思う。
残念ついでに、この作品がヤスミン作品を意識して作られているということを踏まえて残念だったのは、サヒラがロバートに食事を出したときに、サヒラはルンダンとしか言っていないのに字幕では牛のルンダンとされていたこと。マレーシア・シンガポール華人には(特に仏教徒には)牛肉を食べない人が多い。ヤスミン作品のジェイソンとその父親もそうで、『グブラ』ではジェイソンの父親が入院先で「飯がまずい」と文句を言い、同室の患者を看病していたマレー人女性がルンダンをおすそ分けすると言ってくれると、一般にルンダンといえば牛肉料理なので、ジェイソンの父親が「わしは牛肉は食わんぞ」と言ったところ、実際には鶏肉のルンダンだった、というよく知られた場面がある。『ナディラ』でルンダンが出てきたとき、この「牛肉かと思ったら鶏肉だった」という話になるのかなとチラッと思ったけれど、ロバートはキリスト教なので牛肉も食べるということなのか、牛肉か鶏肉かといったやり取りはなかった。でも、牛肉と断っていないんだから、わざわざ牛肉と書かなければよかったのにと思う。
これは自戒を込めてだけど、文化交流の出来は字幕翻訳や同時通訳などを含めたいろいろな意味での「翻訳」の良し悪しに大きく左右されるので、グローバル化とか国際化とか言うのであれば、「翻訳」の専門性のことはきちんと評価して、翻訳の仕事に適切な対価を支払って、よい翻訳をちゃんと確保するように努力すべきだと思う。


あとは内容の話。『ナディラ』がすごい点の1つは、セリフにどんな言葉を使うかがとても細かく計算されていて、それを5人の役者たちが演じ遂げていること。
マレーシアの映画や劇で注意すべきポイントの1つに人称がある。マレー語では、教科書的に言えば「わたし」はsaya、「あなた」はawakとなるけれど、もう少し親しくなると自分のことはaku、相手のことはkauとか言ったりする。そして相手のことをsayangと呼ぶようになると、映画的には恋人どうしか夫婦どうしになったということ。
『ナディラ』も人称にとても気を遣っている。ナディラの母サヒラと友人ロバートの会話で、自分をgua、相手をluと呼んでいる。これはプラナカンのマレー語の特徴的な言い方で、「ナディラにプラナカンのマレー語で話すと嫌がるからguaとかluとかは使っていない」とサヒラが言うことで観客にも説明している。
となれば、互いに相手を憎からず思っている様子のナディラとファルクがどう呼び合っているかに関心が向く。ナディラはファルクと話すとき、マレー語で話していても自分のことはI、相手のことはyouと言っている。sayaとawakだとよそよそしすぎるけれど、akuとkauと言うほど近さでもないので、半分照れ隠しみたいにしてマレー語でも人称だけは英語にしているということかなと思う。
それに対してファルクは、ナディラに対して一貫してsayaとawakを使っている。よそよそしさ全開。しかも、sayaの発音は最後のaの音をくぐもらせるこてこてのマレー語。インドネシア語とマレー語はもともと同じ言葉なので共通の単語も多いし同じように発音する人も多いけれど、あえてマレーシア・シンガポールのマレー人の発音をしている。
しかも、恋人じゃないとしてもけっこう親しい友人をawakと呼ぶなんで、日本語で友達のことを「あなた」と呼ぶようなもので、かなり違和感がある。これは、マレー人の地位向上を目指すファルクはマレー語を話すときに教科書的な言葉遣いをするよう自分に課しているということなのだろう。そう思って聞いていると、他の登場人物はマレーシアやシンガポールでよく見られるように1つの文の中に英語とマレー語の単語を混ぜて話しているけれど、ファルクだけは、英語の文とマレー語の文を交互に話すことはあっても、マレー語の文に英語の単語を入れることはなかった。(もしかしたら聞き逃したセリフがあったかもしれないけど、意識して聞いていた範囲では全部そうだったはず。)
ファルクついでに言えば、ファルクはロバートと話すときは英語しか使っていない。ロバートはプラナカン華人という設定だそうなのでマレー語は話せるし、実際にサヒラとの会話でマレー語を話しているけれど、ファルクはロバートがプラナカンであることを知らずに華人だと思っていて、だから英語で話しているということなのだろう。
もとに戻って、ファルクがマレー語のセリフを話すときは英語の単語を入れず、しかもこてこてのマレー語を話しているというのがなんともおもしろい。というのも、今回の日本公演でファルクを演じたイディル・プトラは『UFOを探して』のイジャム役などを演じているマレーシア人の役者だが、『ブノハン』のデイン・サイド監督の最新作『Interchange』での共演をきっかけにインドネシア人のプリシア・ナスティオン(『聖なる踊子』ほか)と結婚していて、クアラルンプールとジャカルタの2つの家を行ったり来たりの暮らしだそうだけれど、ふだん話す言葉はもうすっかりインドネシア語で、シャリファ・アマニたちマレーシアの映画仲間たちにいつもからかわれている。そのイディルがマレーシア・シンガポールのマレー語を話しているというのがなんとも妙なめぐり合わせ。


物語の中心部分を占める結婚と改宗について。
はじめに設定の確認。
ナディラの母サヒラ(46歳)はシンガポールのプラナカン華人で、26歳のときにマレーシアのマレー人ムスリムと結婚して自分もイスラム教に改宗した。12年前に離婚して娘ナディラとシンガポールに戻り、ナディラをムスリムとして育ててきた。その娘も大学に入り、20歳になった。元夫は今年50歳。クアラルンプールで再婚して家族と楽しく暮らしている。
ロバート・ゴー(50代)はシンガポールのプラナカン華人で医者。妻を癌で亡くし、医者の自分が助けられなかったことを悔やむとともに、妻が残した聖書を見て信仰に目覚め、天国で妻に再会することを期待して、今では毎週のように教会に通う熱心なキリスト教徒。亡くなった妻との間に子はない。約2年前から患者のサヒラと知り合い、最近になってまじめな交際を考えるようになった。
この2人が結婚を前提とした交際をはじめる。
サヒラからすれば、娘は20歳でもうすぐ独り立ちの年齢になる。自分の体調はあまり思わしくなく、職場のマレーシア人は帰国したので話し相手もいない。だから新しく出会ったロバートと親密になるのはわからない話ではない。
問題はロバートとサヒラが茶飲み友達ではなく結婚して夫婦になろうとしていること。とても大雑把に言うと、シンガポールでは冠婚葬祭でイスラム教徒とそれ以外の人で異なる法律に従うことになっている。イスラム教徒と非イスラム教徒が結婚する場合、非イスラム教徒がイスラム教に改宗/入信すればイスラム教徒どうしになるのでイスラム教徒の法律に従って正式に結婚できる。サヒラが元夫と結婚したときにイスラム教に改宗したのもそのため。ナディラたちは、はじめロバートがイスラム教に改宗してサヒラと結婚すると思って祝福しようとした。でも、ロバートは死後にキリスト教徒の元妻と再会したいのでイスラム教に改宗するつもりはないという。(じゃあ死後にサヒラはどうなるのかという大きな疑問が生じるけれどとりあえず置いておく。)
となると、2人が結婚するには、サヒラがイスラム教から他の宗教に改宗して、非イスラム教の法律のもとで正式に結婚する方法がありうるが、そうするとサヒラとナディラは母子で宗教が違うことになってしまう。ナディラにとってそれは許しがたいし、サヒラも改宗するつもりはない様子だ。
第三の道は、ロバートがキリスト教徒、サヒラがイスラム教徒のまま、民事婚で結婚すること。宗教が違うまま非イスラム教徒の法律で結婚するということで、イスラム教徒の法律では非合法扱いであり、だからナディラとファルクは民事婚だと姦通罪になるといって反対する。
マズナは結婚の問題も宗教の問題も本人の問題だと言う。確かにその通りだが、「本人の問題」だけでは済まないこともある。サヒラとロバートが結婚するのかどうか、するとしたらどのようにするのかは、ナディラにとって(そしておそらくファルクにとっても)深刻な問題になりうる。
マレーシアやシンガポールで多くのマレー人が従っているイスラム教の学派では、結婚とは男女の間で取り結ぶものではなく、女性の父親または後見人が相手の男性と取り結ぶ。だから、ナディラにとって、母親の再婚がイスラム教徒の法律で合法であるかどうかは、誰が自分の後見人となるのかと直結する問題であり、少し飛躍するけれど、自分が結婚できるかどうかと直接関わる大問題ということになる。
ナディラと結婚する可能性を考えているであろうファルクも、マレー人の地位向上などといった理想主義的な理由もなくはないけれど、ナディラと同じ理由で、ナディラがイスラム教徒の法律に照らして合法的な後見人を持って正式に結婚できることを期待している。ファルクは各宗派の違いを調べはじめる。劇中では礼拝の仕方にいろいろな解釈があることを紹介したけれど、それと同時に、ナディラのような境遇に置かれた女性と自分がイスラム教の法律に照らして合法的に結婚するにはどのような可能性があるかについても調べているに違いない。(これは私の勝手な深読みなので念のため。)


最後にどうなったのか。ナディラはマズナたちとイスラエルに行く。出発の日、タクシーだと空港まで乗り入れると料金が高いから送っていこうかとロバートが言うのが華人はケチだという言い方を下敷きにしているとか、このときサヒラはもうマレー服を着ていないということはともかく、出て行こうとするナディラが最後に思い直した様子でロバートに挨拶する。ロバートの手をとって自分の額につける挨拶で、相手を自分の目上の親族と認める、つまり母親の再婚相手として受け入れるという意味になる。そして、ナディラはロバートたちに「アッサラームアライクム」と呼びかける。「行ってきます」の挨拶ではあるけれど、ロバートはイスラム教を受け入れるつもりがあるのかと間接的に問いかけている。これにロバートがアラビア語で「ワアライクムサラーム」と返事したため、ロバートは既にイスラム教に改宗しているか、そうでなくてもイスラム教に改宗するつもりがあるというメッセージだと考えられ、それを聞いたナディラは安心してイスラエルに旅立つ。ところが、そのすぐ後にロバートはサヒラに「教会に行こう」と誘っている。イスラム教に改宗していないどころか、サヒラにキリスト教への改宗を迫ることはないにしても、自分と一緒に教会に行こうと誘っている。
最後にサヒラは、コンパスで方角を調べて、その方角に向かって礼拝する。劇の冒頭で見たイスラム教徒の礼拝の仕方と大きく異なっている。サヒラの意図は、自分と神との関係で祈ればよいのであって、その形式がどうであるかはあまり重要でないということなのだろう。そしてそれは『ナディラ』の脚本家や演出家の意図とも重なっていることだろう。
ただし、最後の祈りの場面を見たマレーシアやシンガポールムスリムたちには、サヒラがイスラム教から別の宗教に改宗したと考えた人がかなりいたようだ。イスラム教徒である自分たちから見て馴染みのない方法で祈っているため、改宗したと思うのも理解できる。
これは、サヒラの意図が1つの神と自分の間の関係にあってその形式は重要でないと考えたとしても、周りの人たちから見れば、キリスト教徒からもイスラム教徒からも自分と違うと見られるということで、2つの宗教の狭間に落ち込むことになる。そのことを理解した上で、最後の場面は、両方の側から批判されることを積極的に受け入れるという覚悟の現れなのだろうと思う。


あとはトリビア的な話題を少し。
冒頭。ナディラと母サヒラが並んで礼拝して、終わった後に2人でちょっとじゃれあう感じが『ムアラフ』のロハニとロハナを思い出させる。2人が礼拝した絨毯は2枚、左右に並んでいるけれど、舞台に向かってわずかに斜めになっているので、向かって右側の絨毯がわずかに前に出ている。右側で礼拝しているのはナディラ。ナディラが母親を導いて礼拝しているということで、物語の方向性を暗示している。


ヤスミン作品の名場面や名セリフがいくつも出てくることはヤスミン作品のファンならすぐわかるだろうけれど、もしかしたらわかりにくいかもと思うのが2箇所。
ヤスミン監督はセリフに大人向けの表現をけっこうたくさん入れているけど、日本語字幕にするときには字数の関係などがあってそれをそのまま訳しているとは限らなくて、だから日本語字幕だけで見ている人にはもしかしたら同じセリフだと気付かなかったかもしれないものがあった。1つは「アソコが・・・」というセリフ。『細い目』でオーキッドが母親たちと車で出かけようとしたときに忘れ物のハンドバッグを持って追いかけてきたヤムのセリフとほとんど同じ。東京国際映画祭の日本語字幕はたぶん字数の関係でまったく別の表現になっていたはず。もう1つはナディラが生理中なので断食できないと言ったセリフで、これは『細い目』で夕食の準備をしている場面と『タレンタイム』でメルーとマヘシュが夜遅くまで一緒にいるところをメイリン咎められた場面に同じセリフが出てくる。福岡国際映画祭の日本語字幕では理由はぼかして訳されていた。