ラジオから始まったタレンタイム

いよいよ明後日に公開が迫った映画「タレンタイム」に関連して、実際にシンガポールとマラヤ(マレーシア)で行われていたタレンタイムの話を少々。映画の「タレンタイム」の話はほとんど出てこない。
タレンタイムは、1949年2月にシンガポールの英語ラジオ放送局のラジオ・マラヤが始めたタレント発掘コンテスト番組だった。命名者はこの番組の司会で有名になって「ミスター・タレンタイム」と呼ばれるキングズレー・モランド。応募資格はシンガポール市民のアマチュア・アーティストで、隔週金曜日に予選を行って、その様子が月曜日にラジオで放送された。予選を6回行って、その入賞者を集めて決勝を行った。
すると、「タレンタイム」を商標登録していなかったこともあって、ラジオ・マラヤ以外のいろいろな団体がそれぞれタレンタイムを行うようになった。タミル語のタレンタイムや中国語のタレンタイムもあり、シンガポールだけでなく半島部マレーシアの各地でもタレンタイムが行われるようになって、1954年にはマラヤとシンガポールの各地のタレンタイム優勝者が集まる全国規模のタレンタイムも行われるようになった。(優勝者の副賞は日本への往復航空券だった。)
1950年代後半にはシンガポール自治政府がロック音楽を規制していくけれど、1961年11月のクリフ・リチャードのコンサートをきっかけにシンガポールで空前のバンドブームが起こって、10代の少年少女がみんなタレンタイム出場を目指すようになる。たくさんのバンドが作られ、なかでもThe CrescendosやThe Questsが特に人気があった。
1963年にシンガポールでテレビ放送が始まると、タレンタイムの決勝がテレビで放映されるようになってさらに人気が高まった。1965年のシンガポールの独立後は、バンド演奏の主なお客だった外国軍が撤退したことや、フィリピンから本格的なミュージシャンたちが来るようになったことから、地元バンドはやや低調になっていく。それでも1960年代から70年代にかけての時期は、シンガポールと半島部マレーシアの各地で、かなりの数の学校や教会やスポーツ団体がタレンタイムを行っていた。
そしてテレビ番組としての「タレンタイム」は2001年をもって終了となる。
映画「タレンタイム」ではイポーのアンダーソン高校を舞台にタレンタイムが行われるのだけれど、なぜか「第7回」とされている。その理由ははっきりしなくて、ヤスミン監督も「7って不思議な感じがする数字でしょ?」とわかるようなわからないような返事をしている程度だ。だから「第7回」にはそれ以上の深い意味はないのだろうけれど、あえてそこに意味を見出そうとするならば、1949年にシンガポールで始まったタレンタイムがテレビからラジオに舞台を移した後に2001年に幕を閉じたけれど、もしその後もタレンタイムが続いていたとしたら、ヤスミン監督が「タレンタイム」を撮っていた頃には7回目になっていたんじゃないかなと思ったりする。
タレンタイムは、最近ではすっかり忘れられているけれど、1950年代から70年代ぐらいまでに中学・高校時代を過ごしていたぐらいの世代だと、誰でも友達の友達がタレンタイムに出たことがあるというぐらいの身近な存在だった。よく知られたミュージシャンのディック・リーも、15歳のときに初出場したタレンタイムで2位になり、その後もさまざまなタレンタイムに挑戦したけれど一度も優勝することはなかった。もっとも、これは私のひいき目かもしれないけれど、タレンタイムでは優勝した人よりも優勝を逃した人たちの方がその後も長く活躍しているように思う。1位になるか2位になるかの違いはとても大きいけれど、でも最終的にどちらが選ばれるかは時の運のようなところもある。優勝するとすぐにショーやラジオ・テレビに呼ばれるのに対して、優勝を逃した人はどこが悪かったのかをあれこれ考えて次の機会にチャレンジするもので、そのあたりに長く活躍した理由の1つがあるかもしれないという気がする。タレンタイムに限らずコンテストは1位を目指すべきものだと思うけれど、その上で、1位になれなかった人を作るところにコンテストの意義があるのかもしれない。