バタック雑誌 Tatap

バタック雑誌のバックナンバーをもらうついでに話を聞いてみようと編集部を訪ねてみた。
まずはTatap。編集部はPulo Gebang Permaiという住宅地にあった。看板は出ていないけれど、Darma Mahardika Instituteという人材養成の事務所があって、そこでTatapも発行している。

編集長のジャンセン・シナモさんはもともと人材養成を仕事にしている人で、アメリカでの仕事の経験もあるので英語を流暢に話す。執務室の雰囲気といい物腰といい、いかにもハリウッド映画に出てきそうな成功したビジネスマンという感じ。ジャンセンさんはパクパク・バタック人。以下、ジャンセンさんと他のスタッフの話。


「バタック人向けの雑誌は珍しいですね」と言ってみたら、ホラスだのボナ何とかだのタピアンだのたくさんあると言われた。どれも地方の政治家が資金を出して政治活動として発行しているものが多くて、純粋な雑誌とは言えないとのこと。スハルト時代が終わって改革と地方分権の時代になると、安易に政治家になろうとする人が増えた。バタック人は6つのサブエスニックに分かれているが、政治的野心がある人が支持獲得のためサブエスニック感情を利用して対立を煽ったりした。その結果、バタック人どうしが対立し、しかも政治的対立だけでは済まずに社会生活上の関係が断たれる事態も生じている。そこで、われわれはみなバタック人だという意識を持たせるためにこの雑誌を創刊した。創刊したのは2007年8月17日。
政治目的の他のバタック雑誌との差別化をはかるため、「教養のあるバタック人のための雑誌」と銘打って、値段も2万5000ルピアと高めに設定した(他のバタック雑誌は5000〜1万5000ルピア)。隔月刊で、発行部数は5000部。


毎号特集を組んで、各分野で活躍しているバタック人を紹介している。創刊号からこれまでは、教育者、政治家、弁護士、音楽家を特集した。次号は科学者。
アメリカに不法移民として渡り、トラックの運転手として働き始めて、やがてトラックを所有するようになり、少しずつトラックの台数が増えて、今では大きな運送会社の社長になって一族をアメリカに呼び寄せたバタック人青年の話がある。英語と勤労倫理さえ身に付けていれば、今の時代は誰にでも成功の可能性がある。

これまでのバタック雑誌はサブエスニックごとに発行されており、バタック人全体を対象にした雑誌としてはこれが最初。
サブエスニックが違うと互いに言葉が通じないし、異なるサブエスニック語が話せるバタック人もほとんどいないので、バタック人どうしだとインドネシア語で話をすることになる。だからインドネシア語で出した。
スマトラに住むバタック人は、自分の生まれた村からほとんど出ないで一生を終える人もまだ多く、違うサブエスニックに出会わない人もいる。メダンやジャカルタなどの町に出ても、住居も教会もサブエスニックごとにつくるのでやはりバタック人全体での交流はほとんどない。町に出たバタック人には他のサブエスニックやバタック人以外と結婚する人もいなくはないけれど、そうすると今度は子どもがバタック語やバタック文化を知らずに育つ。
インドネシア語で発行しているもう1つの理由は、バタック人によるバタック人の再定義を他のインドネシア人に伝えたいから。Tatapというのは「ビジョン」「眼差し」という意味。将来に臨むためのビジョンをバタック人で共有するという意味と、バタック人による自分たちの再定義を他のインドネシア人に伝えて、それを通じてインドネシア国民の一員としてのバタック人の役割を再認識するという意味でつけた。


聞いた話は以上。バタック人意識を高めようとしているけれど、それによってインドネシア国民から離脱するとかいう話ではまったくない。インドネシア独立記念日に創刊したり、雑誌の色調を紅白でインドネシア国旗をイメージさせたりと、自分たちをインドネシア国民の一員と認めてほしいという思いが随所に滲み出ている。
では誰に向かって呼びかけているのか。バタック人意識を高めるといっても、北スマトラの田舎に住んでいるバタック人たちには今さらバタック人意識を持たせるも何もない。とすれば、都会に出て各分野で成功を遂げた著名人が対象ということになる。つまり、一般の読者ではなくて、誌面に掲載された人々が本来の対象だ。彼らにバタック人意識を持ってもらうというのは、バタック語を話せとかバタック人の慣習を守れとかいうことではなく、「バタックつながり」で関係を作って互いに協力しましょうということなのだろう。Tatapで「誰がバタック人か」が問題になっていないのも、バタック人全体のために何か活動する(つまりバタック人だと申し出れば便宜が図ってもらえる)という方向の話をしていないからなのだろう。