バタック雑誌 Etnik

バタック雑誌の編集部訪問の2つ目。今回はEtnik。編集部はWahid Hasyim通り。
編集長のボブ・フタバラットさんは、コンパス紙の記者を30年近く務め、引退して友人たちとEtnikを創刊した。薄暗い事務所の隅でデスクに向かい、短くなったタバコを吸いながらバタック人について熱く語るボブさんは、テレビドラマで見るような叩き上げの新聞記者というイメージ。ボブさんはカロ・バタック人。


「バタック雑誌が珍しくて・・・」と言うと、ここでもバタック雑誌はたくさんあると言って、Bonaという雑誌を見せてくれた。1995年発行で第6巻だったので、1980年代末には創刊されていたことになる。
ボブさんは、退職して今後のことを考えたとき、新聞記者として身につけた才能を活かそうと思って雑誌発行を考えたという。でも今の時代に雑誌はたくさんあるので他の雑誌と差別化しなければならず、自分の特性を活かすということでバタック人のものの考え方を売りにしようと思ったそうだ。都会に出てバタック人の言葉や慣習を忘れてしまったバタック人たちに故郷や祖先の様子を伝えることにもなる。バタック人は全国に400万〜500万人いると見られるので、バタック人を対象とした雑誌は経済的に十分に成り立つという計算もある。現在の発行部数は7200部。


雑誌名はEtnikにした。これだとバタック人らしさは表われないが、これに倣ってジャワ人のEtnikやスンダ人のEtnikなどほかの民族も雑誌を出すようになれば、それらをあわせて幅広い読者を対象にしたEtnikが作れるはずと期待してのこと。ということで、今の段階ではバタック人のことしか書いていないけれど、理念的にはEtnikは「バタック人の雑誌」ではなく「インドネシアの各民族の雑誌」ということになる。
インドネシアでは国民全体のことをバンサbangsa、その部分である各民族のことをスク・バンサsuku bangsaと呼ぶということだけれど、Etnikではバタック人のことをbangso BatakやEtnik Batakと書いている。
Etnikとは華人(中国系住民)のことを指す今風の言い方だと思っていた。これまで長い間、インドネシア華人インドネシアの国籍を持っていてもちゃんとした国民扱いされてこなくて、バンサの一員でないからスク・バンサとしても見られていなかった。最近では華人に対する見方がちょっと変わって、インドネシアの一員であるようなないようなという立場になってきた。とはいってもバンサに認めるほどまでは至っていないのでスク・バンサとは呼べない、だからあいまいにEtnikと呼ぶことでなんとなくインドネシアの一員であるようなないような扱いをしているのかなと思っていた。
バタック人が自分たちのことをEtnikと呼んでいるということは、紛れもないインドネシア国民の一員であるはずのバタック人が自分たちを華人とEtnikとして同格に扱っているということで、これはとても興味深い。スク・バンサとEtnikは、どちらもインドネシアの各民族を指しているようだけれど、両者の発想には大きな違いがある。スク・バンサだとどうしてもバンサの一部という意味になるので、母集団としてのインドネシア国民があることが前提となる。これに対してEtnikは母集団を前提としないないので、単独での民族をイメージしてもいいし、逆に世界に広がる民族をイメージすることもできる。
(ただし、バタック人が「紛れもないインドネシア国民の一員である」というのは、もしかしたらちょっと違うかもしれない。バタック雑誌などを見ていると、バタック人にはバタック人がインドネシア国民扱いされていないという思いがあるように強く感じられる。バタック人の意識としては、バタック人はインドネシア国民であるようなないようなという扱いを受けている存在なのかもしれない。)


もう一方のbangsoは、見たとおり、インドネシア語のbangsaにあたるバタック語の単語だそうだ。心情的にはバタック人をbangsaと呼びたい、でもbangsaと言えばインドネシア全体のことなのでさすがにbangsa Batakとは言いづらい、だから限りなくbangsaに近いbangsoを使っているということらしい。
バンサというのは国民でもあり民族でもありというところがあって、バンサと認められるということは「独立した」民族として認められるということでもある。バタック人をバンサと呼ぶのは、インドネシアの各民族のなかでも民族の旗と歌を持っているのはバタック人だけで、旗と歌があればバンサと呼べるからということらしい。ちなみにバタック人の民族の歌とは「O tano Batak」という歌だそうで、バタック人が集まる機会には誰ともなくこの歌を歌おうと言い出し、この歌が始まるとその場にいる人はみんな起立し、涙を流しながら歌うんだとか。
バタック人どうしでもサブエスニックが違うと互いに言葉が通じないそうだけれど、この歌はどのサブエスニックの言葉で歌っているのかと聞いたところ、いや、お互いに通じないわけじゃあなくて、口調が違うんで違和感があるだけで言葉は同じなんだよ、私はカロ・バタックだから口調は厳しいけれど心は優しいんだ・・・と、違う話にされてしまった。
バタック人の中でもカロ・バタックは勢力が強くて、「カロの連中はカロのことをバタック全体のことみたいに言っている」という批判もあるんだとか。
バタック人のサブエスニックの関係について、Etnikでは「マンデイリンはバタック人か」とか「トバ湖はバタック湖に改称すべきか」なんていう記事も載せている。ただしボブさんによれば、これは一種のガス抜きのようなものらしい。記事の前半部分は各サブエスニックがよく言う不満を代弁しているけれど、でも最後に「やっぱりわれらバタック人」とまとめてあるのが肝らしい。


旗と歌があるとバンサになるというのはボブさんだけが言っていることではなくて、インドネシアではかなり一般的な認識のようだ。あとでジャワ人とスンダ人の知人にこの話をしたら、「バタック人が民族の旗と歌を持ってる? それじゃあバタック人は独立した民族ってことになるじゃないか」という反応が返ってきた。
そんなはずはない、制度的なものではなくて文化的な慣習なんだろうということで納得した様子だったが、インドネシア人にとって旗と歌はそんなに大事だったのか。そういえば、アチェの和平交渉の過程でアチェが旗を持つことを認めるとか認めないとか言っていたけれど、あれも独立交渉の一環だったということになる。
隣のマレーシアでは州ごとに旗も歌もあって、公立学校では毎週朝礼で国旗と州旗を掲げて国歌と州歌を歌っているのを見ていたので、旗と歌がそれほど大事という印象を持っていなかった。(マレーシアの場合、州の旗や歌は各州のスルタンの旗や歌というイメージが強いので話がねじれてくるんだけれど。ジョホール州の州歌の最後の一節は「アッラーよスルタンに平安を与え給え」だった。)


バタック人の歌を聞いてみたいと言ったら、どこででも売っているわけではないそうで、Saharjo通りの「Toba Tabo」というバタック料理のレストランを教えてくれた。北スマトラの田舎のバタック料理店をイメージしながら帰りに立ち寄ってみたら、これがまたずいぶん立派なレストランで、2006年にオープンしたばかりの初の本格的バタック料理のレストランとしてジャカルタでは日本人にも知られている場所なんだそうだ。バタック雑誌と音楽CDを売っていたので民族歌のCDを買う。ちなみにこのCDの歌手はフィキ・シアニパルという人で、その筋ではとてもとても有名な歌手らしい。すぐ近くにスタジオを持っていて、毎週土曜日の夜にはToba Taboのステージで歌っているそうだ。機会があれば食事に行ってみたい。


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