ウマット(ウンマ)・ティオンホア

「さよならスハルト」の垂幕

スラウェシとジョグジャカルタを行き来している日本人と出会った。
ジョグジャカルタで旧暦正月を大々的にお祝いしているのでびっくりしたというと、マカッサルではずいぶん前からもっと盛大に祝っているとのこと。1998年の陰暦正月にはマカッサル市内に「華人街」と漢字で書かれた門が作られ、華人も非華人も旧暦正月を祝うようになってもう10年になるのだとか。


新聞を読んでいたら、インドネシア華人のことをumat etnis Tionghoaと書いている記事を見つけた。etnis Tionghoaは「中華民族」というような意味。それはいいとして、このumatが悩ましい。
インドネシアでは、ジャワやミナンやブギスやアチェなどいろいろな人がいるけれど、みんなが運命共同体としてインドネシア国家の担い手という自覚を持ったという意味を込めて、全部まとめてバンサbangsaと呼ぶ。ジャワやミナンなどは「バンサの部分」という意味でスク・バンサsuku bangsaということになる。バンサを国民、スク・バンサを民族と訳すとわかりやすい。(でも、インドネシアという一体感を求めた気持ちを尊重してバンサを民族と訳す人もいる。)
ただし、華人は植民地時代にオランダ人の手先のような立場にいたこともあって、これまでジャワやミナンなどなどによるインドネシア国家の運命共同体の一員として認められてこなかった。そのため、華人はバンサには含められず、したがってスク・バンサでもなかった。これがスハルト体制期のインドネシアの基本的な理解だった。
1998年のスハルト体制崩壊後は、華人への差別待遇を解消すべきとの動きがあって、同じ国民として華人を除け者にしないという雰囲気が高まってきた。
では、華人インドネシアのバンサの一員として認められたのか。華人の呼び方からその答えをうかがうことができる。華人をスクと呼ぶとすればバンサの一員と認めたことになる。他方、バンサの一員としては認めがたいけれど、でも存在を認知するべきと思う人たちが考え出したのがetnisという言い方。スクと違ってバンサの一員という意味はなく、中立的に「民族」という意味で使える。
そういうわけで、華人をどう呼ぶかに注目している。と、前置きが長くなったけれど、今日見つけたのはumatだった。


umatはアラビア語ウンマに由来する言葉で、もともと宗教共同体という意味だそうだが、イスラム教の伝来とともにもたらされた言葉なので、一般にはムスリム共同体という意味で理解されている。マレーシアではumatと言えばもっぱらムスリム共同体のことを指す。
(umatをカタカナで書くならウマットとかウマッとかになるのだろうけれど、ウンマもぎりぎり許容範囲だろう。アラビア語ウンマとの関係をイメージしやすいようにウンマとするべきか、アラビア語ウンマとは性格が違うことを明確にするためにウンマとは違うウマットにするべきか悩むところ。ここではumatのままにしておくことにお許しを。)
さて、インドネシアでは、umatはイスラム教だけでなくキリスト教など他の宗教の信徒たちに対しても使う。Umat Islamだけでなくumat Kristenとも言う。ちょっと違うけれど、人類全体を対象にしたumat manusia(人類のumat)というのもある。
そうかと思っていたらumat etnis Tionghuaがきた。もしかしたら華人は宗教共同体のようなものとしてイメージされているのかもしれないけれど、もしそうでないとしたら、umatは宗教共同体だけではなく民族集団にも使えるということになる。
そう思って探してみたら、umat Indonesiaとかumat Acehなんていうのも出てきた。なんらかの宗教の信徒をイメージしているかもしれないので個別に文脈を見ていく必要があるけれど、ここでは可能性を語るということで話を大きく膨らませてみよう。


umatはバンサとの比較で実に興味深い。
バンサどうしの境界ははっきりしている。一群の日本民族と一群のインドネシア民族を合わせたらそこに民族は2つあるのと同じこと。このように、「1+1=2」になるのがバンサの世界。
これに対して、umat Acehとumat Indonesiaが同時に存在するように、「1+1=1」になりうるのがumatの世界。民族に似ているところはあるけれど、複数のumatが合わさって新しい1つのumatになりうるところが大きく違っている。
20世紀最大の問題と言われ続けた民族問題は地球上からまだまだなくならない様子だけれど、その原因の1つは多くの地域で民族がバンサと同じく「1+1=2」で捉えられているからではないか。これを根本的に変えて、バンサではなくumatのように捉えることができないか。もしそれができれば、今ある民族問題の多くが解決に向かうのではないだろうか。
インドネシアがバンサ原理にかえてumat原理を自分たちのものとして十分に発展させ、そしてそれを世界に積極的に売り込むことで、やがて世界中にumat式の民族概念が定着することを期待するのは決して荒唐無稽な夢物語ではないはずだと思う。