英語社会シンガポール

週末、滞在許可などの都合で隣の島に行ってきた。5年ぶりぐらいに学生時代の友人に会った。
彼女は両親とも日本人だけれど、小さいころからヨーロッパで育ち、高校か大学のときに日本に移ってきた。東南アジア研究を志して日本の大学院に進んだけれど、日本の研究スタイルがあわないと言って日本を飛び出し、オーストラリアの大学院で研究を続けていた。その後、オーストラリアで博士号を取り、いまではシンガポールで研究者として働いているそうだ。


久しぶりに会うと昔話になる。共通の話題と言えば日本での学生生活しかない。彼女は日本の大学生活や研究方法にさらに批判的になっていた。(以下、「研究」とはいわゆる文系の研究の話。)


英語圏(彼女はそれをアングロサクソンと呼んでいた)の世界では、研究であれなんであれ、世界中から集まるのでとにかくたくさんある。そのなかでいい物だけ選び、そのいいところだけ身に着けて、それよりも少しよいものを創り出す。その競争。
研究は、中身のすばらしさではなくて、どれだけ参照されるかで価値が決まる。日本の研究者は英語で発信していないので、自分たちでは優れていると思っていても、何も書いていないのと同じで世界では誰からも相手にされない。
いくら一芸に秀でていると自分で思っても、無名の研究者の論文なんて誰にも読まれないし参照もされない。参照されるのはハーバードなど名前の通った大学の研究者だけ。ハーバードにも大したことない研究者はいるだろうけれど、学会誌に論文を投稿して掲載してもらうには審査の段階で有名どころの名前を入れるようにとコメントが来る。だから有名どころは参照しなければならない。
それと別に、まだ名前があまり知られていないけれど旬の研究テーマや研究者をおさえる必要があり、そのための研究動向チェックは欠かせない。もちろん英語で出てきたものだけが対象。旬の研究は新しいので書いている人もよくわかっていなかったりするため、全部理解する必要はない。わからない部分はばっさり捨てて、わかる部分だけ取り入れて、引用している形をちゃんと作って、そして英語圏の論文作法にのっとった形で論文を仕上げて発表する。
これを繰り返してキャリアをアップさせていって、いずれ名前の通った大学に常勤の職を得る。そうなれば自分が書いたものがほぼ自動的に人々に参照されるようになる。それが目標。


研究を他の単純労働とは違う何か特別なことだと思ってはいけない。ある対象を調査研究するとは、そのためのテスト項目がいくつかあって、項目ごとにテストしてその反応を見て、それを組み合わせて対象を理解すること。テスト項目のセットは学問分野ごとに決まっているので、それを身に着けるのが学問の最初の訓練。それができたら実際に対象を分析して結果を論文として書く。英語の論文は表現の形式がほとんど決まっているので悩まずに書ける。


彼女の言うことは決して間違っていないと思う。でも、今あるテスト項目はこれまでに特定の社会の事情をもとに組み立てられてきたものなんだろうから、それで把握できることは多いとしても、その社会やその時代には想定されていなかった事態には対応できないかもしれないのではないかが気になる。
もしかしたら、その方法では取りこぼしがけっこうあるのしれない。その取りこぼしが取るに足りない部分ならいいかもしれないけれど、もしかしたら取りこぼしの部分の方が重要ということがあるかもしれない。だから、テスト項目を一通り身につける努力はするとして、そのうえでそれを積極的に裏切るような行き方もあるんじゃないかと思ってみたりする。
でも、彼女によれば、それは研究者の世界をよくわかっていないから言えることで、今ある測定装置で測定不可能なものは存在しないのも同じという。調べようがないし、書きようがない、だから評価されようがない。研究者として生き残っていくには世の中のトレンドに乗り遅れてはまずくて、トレンドにみんなでいっせいに取り掛かる必要があり、そのときに研究者の個性などを主張していたら邪魔でしかない、それは研究ではなく趣味としてやればいい、ということらしい。
「これからは東南アジアではなくて中国」という彼女は、今の契約が切れたら中国研究に切り替えようと思っているらしい。わかりやすい。ディテールはちょっと違うけれど、方向性としては5年前に聞いた話と基本的に変わっていない。


そんな彼女にとって、シンガポールは暮らしやすいという。英語には2つの性格があるためらしい。
1つは上で書いたような、世界共通語としての性格。英語の世界に入れば世界中から届く情報を入手できるし、その情報をたどっていけば世界中の仕事の機会にアクセスすることができる。別の表現をすれば、モノだけでなく人材や情報を含めて、世界中から買い物できるし、世界中で売り出すことができる。
もう1つは、アングロサクソンの言葉としての性格。(念のために書いておくと、アングロサクソンというのは俗っぽく言えば白人のことで、でも白人種にもいろいろいるから正確に言うにはアングロサクソンということになるらしい。以下ではわかりやすく「英語白人」としておこう。)
英語白人の世界に行くと、英語白人がそれ以外の人々の優位に立つという暗黙の(あるいは明示的な)了解が厳然と存在するらしい。彼女は子どものころから英語白人の世界で暮らしていたために英語白人とほぼ同じように英語を操ることができるのだけれど、でもどんなに上手に英語を操っても日本人なので英語白人と同列に扱ってもらえず、イギリスやオーストラリアで暮らしているとそれを日々感じさせられるのがストレスだという。


シンガポールは、英語圏でありならが英語白人の優位というストレスを感じずに済む世界中でほぼ唯一の場所なんだそうだ。英語の持つ世界共通語と英語白人の母語という2つの性格を切り離して、世界共通語としての性格のみ活かすことに成功したのがシンガポールということになるだろうか。
そう考えると、シンガポールの成功で強調すべきなのは、英語を共通語にしたこと以上に、英語白人の優位を認めなかったことと言うべきかもしれない。そのための仕掛けがアジア人としてのアイデンティティだの中華文化だの儒教文化だのだったということだろうか。
世界に通用するために英語は身につけたいけれど、中華民族としての出自がある以上、遺伝子情報に組み込まれているどうにもできない理由で中華文化への郷愁があり、そのために中華文化儒教文化などを忘れないように努力している、という受け身の理由からではなく、世界に積極的に打って出るために英語とあわせて中華文化を取り入れようとしたということになる。そうだとしたら、リー・クワンユーなどシンガポールの建国者たちの賢さは想像をはるかに超えるものだったということなのかもしれない。


せっかくだから夕食でも食べようということになったが、週末のためかどこもとても混んでいて、並ばずに入れた唯一の店が回転寿司だった。うまいものがたくさんあるシンガポールに来て回転寿司というのもどうかとは思ったけれど、混んでいればまあしかたない。
カウンターに座って寿司を握るのを見ていると、寿司握りマシーンがあった。上からご飯を入れると定量の寿司飯がベルトに流れてくる。便利なものがあるなあと思って見ていると、板前さんがその寿司飯をひょいひょいと2つずつ取って、手のひらの上で井桁のように次々と積み上げて運んでいった。寿司飯を井桁に積み上げて持っていくかねえ、と思ったのだけれど、手にはビニール手袋がかぶせてあって衛生面では問題ないし、もちろん味にも何の影響もないので文句の言いようがない。
さらに運んでいった先でネタを載せて寿司にする段になって、あれもこれもといろんなものを寿司ネタにしていたので驚いた。まるで、口に入るものなら何でも寿司飯とくっつけて見せるといわんばかりだ。エビフライなどの揚げ物程度ならともかく、寿司にバナナを載せてチョコレートをかけたバナナチョコ寿司が出てくるまであと一歩のところまできている感じがする。
寿司には寿司道っていうものがあるとまでは言わないけれど、どうも見ていて違和感がある。でも、お客も店員も誰も気にしていない。効率社会のシンガポールでは、合理的でない慣行はどんどん簡略化されていく。寿司には生魚片しか載せないという慣行はさっさと捨てられたようだ。そうやって人々の選択をくぐり抜けたものだけが残っていく。
そんなところで「寿司らしさ」なんて言っていたら、そんな店には日本人か日本通しか入らず、よほど高い値段に設定しないと経営が成り立たない。逆に、可能な限り合理化することでより多くの人々が受け入れられるようになる。シンガポールではすでに寿司が大衆食化している。より多くの人に受け入れてほしければこだわりを捨てろというのを目の当たりにした思いだった。
こうやって寿司が世界に広まっていくのも悪いことではないかもしれないと思った。そうすることで選択の幅が広がり、より多くの人が寿司にふれることができる。何よりも、食事といえばパンしか食べず、ご飯党の私と一緒に入れる店がなくて5年前に苦労した思いがある彼女が寿司屋なら入ってもいいと言う。
気がつくと、この店にも順番待ちの客が並びはじめた。彼らに席を譲るために店を出て、また5年後に会おうと言って彼女と別れ、通り道に日本食専門店があったので、寿司を食べて帰った。
久しぶりの日本食だからか、うまい寿司を食べてほっとした。でも、やっぱりシンガポールに来たら、海南チキンライスやワンタンメンやカレーラクサなどシンガポールのうまいものが食べたかった。