すばる

朝、用事があって空港へ。ところが高速が大渋滞。しまいには高速の入り口からの合流口を逆走して高速を降りる車が続出したけれど、でも下の道は下の道で大渋滞で、結局空港まで3時間半かかった。道路整理の警官に渋滞の理由を尋ねたら「高速道路の工事のため」だって。平日の朝からやめてほしい。


インドネシアの雑誌ではないが、集英社『すばる』の5月号にアチェの小説が載っているという情報をいただいた。「スルタンの杖」。書いたのはアチェ在住のインドネシア人女性。アチェ反政府運動に参加したとして投獄され、刑務所にいるときに津波に遭って亡くなった女性活動家の話。実在の人物がモデルになっている。
すばる - 集英社


「スルタンの杖」にはアチェ研究者による解説「「犠牲者の物語」を乗り越えて」がついている。そのなかで目を引くのは、津波被災から3年たったアチェで、犠牲者の遺族たちが遺体を集合埋葬地から掘り返して村の共同墓地に埋めなおしているという話だ。「集団埋葬地は遺体を埋葬し供養する場所としての墓地にはなっていない」「ここで1人1人の死は家族や友人の死ではなく、津波被災という大きなできごとを象徴し、記念するものとなっている」。だから遺体を掘り返し、埋葬しなおして「個人としての死」を取り戻そうとしているという。1000日経ったから一区切りついて遺体を掘り返してもよくなったのだろうか。いずれにしろ執念というほかない。


ちょうど今読んでいる桐野夏生『白蛇教異端審問』にも、ニューヨークのグラウンド・ゼロを題材に、多くの人が亡くなった現場について考える文章が記されている。「グラウンド・ゼロは墓場ではない」「死者とは全く関係のない者でさえも、死者たちの苦しみや恐怖を受け取れる場所なのである」とある。
同じことを言っているようだけれど、視点がちょっと違う。『白蛇教・・・』は犠牲者と直接関係ない人が追悼する話だからだ。家族・友人でなくても犠牲者を追悼できる。それができるのが「現場」で、追悼に必要なのが「想像力」。では、いったい何をどう想像するのか。そのヒントになるのが「「犠牲者の物語」を乗り越えて」だろう。