「ムアラフ−改心」 ブライアンは改宗したのか?

東京国際映画祭で「ムアラフ−改心」(Muallaf)を観てきた。話の筋はわかりやすかったけれど、いろいろな要素が入っていて消化不良気味のところがあって、整理しようと帰りの新幹線であれこれ書いているうちに長くなったのでとりあえずここまでの部分をメモ代わりにここに書いておく。整理して短くまとめればいいんだけど、たぶん改めて整理する時間がとれずにこのままになるんだと思う。
ここと別にマレーシア映画の話を何度か書いて、そのままながいこと放置している場所があって、内容からいうとそこに書くとつながりがいいんだろうけれど、でも今回はかなり深読みしているのでこちらで。


以下、あらすじをあちこちに含んだ感想なので、映画未鑑賞の方はご注意を。
あと2つ注意を。まず、「ムアラフ」は、「細い目Sepet」「グブラGubra」「ムクシンMukhsin」などのオーキッドが出てくる一連のヤスミン・アフマド監督作品とは物語上の関係がなく、オーキッドものと重ねて見るのは映画としてはおかしい(この話と直接関係ないけれど、監督名のカタカナ表記はヤスミン・アハマドよりもヤスミン・アフマドの方が適切だと思う)。でも、ヤスミン監督は自分が体験したことをあれこれ映画に反映させているらしいので、ヤスミン作品に出てくる女性はヤスミン監督の化身みたいなところがある。ということは、ヤスミン作品はどれも監督を通じてヤスミン・ワールドとしてつながりがあるということになる。ということで、以下では物語としては別のオーキッド・シリーズも取り混ぜて紹介するので、オーキッド・シリーズ未鑑賞の方もご注意を。
もう1つ。オーキッド・シリーズと取り混ぜてみたりと、以下の紹介ではかなり深読みをしています。純粋に「ムアラフ」を単独の映画作品として楽しみたい人や、映画は映画として楽しみたい人にはお遊びが過ぎると感じられるかもしれません。「ムアラフ」は「ムアラフ」としてまじめに考えたい人は、ここから先は読まないことをお勧めします。

家庭/家族を求めて

「ムアラフ−改心」の一番のテーマは、映画の最初と最後に出てきた「going home」。ハウスhouseではなくホームhome。ホームはどこにあるのか、そしてそれがホームであるには何が必要なのかという話。それを支えているのが宗教的要素。
宗教的要素は、ときにホームらしさを与える働きをする。ロハニ姉妹が生活していたおばさんの家は、建物だけという意味ではホームではなくハウスだった。でもそれがロハニ姉妹にとってホームだったのは、お母さんの形見の宗教書がたくさんあったから。
その一方で、宗教的要素は人を本来のホームから遠ざける働きもする。ブライアンが家から離れることになったのは、子どものころに受けた精神的痛手が宗教をもって語られたから。
ということで、宗教的要素も入っているけれど、メインテーマはhome。
もちろん、もともと改宗者を指すムアラフというタイトルをつけているぐらいだから、宗教的要素はこの映画の下敷きになっている。「Gubra」でも試みられていたけれど、いろいろな宗教や宗教以外の教えを英語訳にしてあれこれ混ぜて並べることで、宗教が違っても教えの部分はかなり共通していることを示してくれる。
(きちんと宗教について学ぶには適切な先生が必要だし、英語訳だけじゃなくて原語を理解することも必要だと映画の中で言うことも忘れていない。)
ただし、宗教の話をメインにするとエンターテインメントにはならないから、宗教要素はできるだけ薄めてしまって、それをただの背景と見ても物語の筋が追えるようにして、それと違うテーマをメインに据えた。それが「going home」。だから、宗教がテーマの重そうな映画だと思うとちょっと違う。

ホームとしての乗り物

「ムアラフ」がhomeの話であることが最もよく表れているのは、乗り物、特にブライアンにとっての車の話だろう。
ブライアンがロハニ姉妹を車に乗せて病院に行ったとき、自転車にも抜かれるほど車をゆっくり走らせていた。
マレーシア映画の住人にとって、乗り物とは自分の行動範囲を規定するものだ。
話は脇道にそれるけれど、ロハニがオートバイを持っていて、それが故障がちなのは、ロハニは妹を連れ出すことぐらいはできるけれど、妹と一緒に外の世界に自由に出てはいけないということ。ブライアンがオートバイの修理を手伝うのは(ロハニのネズミ顔がかわいかった)、ロハニが行動できなくなったときにそれを手助けしてあげる存在ということでもある。
ブライアンにとって、車はただの移動手段ではない。ブライアンは、学校の同僚の先生から「車に誰も乗せようとしない」と言われているように他人を車に乗せないけれど、でも乗っているのは家族向けのステーションワゴン。しかも、ブライアンが乗っていた車はPで始まるペナン州ナンバー(ロハナのオートバイはAで始まるのでイポーがあるペラ州のナンバー)。
ということは、ブライアンの車は、家族を乗せるためにいつも準備してあって、そしてペナンとつながっているものでもある。家から逃げ出したみたいに描かれているけれど、心の中ではペナンの家がずっとホームであり続けている。
ロハニ姉妹を乗せた時にゆっくりゆっくり走らせたのは、それを車として機能させなかったということ。家族としてではなく他人として乗せている。だから車として走らせなかった。
ついでだけど、このシーンの字幕がちょっと気になった。どうしてそんなにゆっくり走ってるのと尋ねられたブライアンが「save petrol」(ガソリン代の節約になるし)と答えた場面で、「ゆっくり走るとパトロールにもなるから」みたいな字幕がついていた気がする。もちろん字幕はいろんな制限のなかで意訳したり工夫したりするのはよくわかってるんだけど、ここはガソリン代の話のままにしておいた方が、昨今の燃油代の値上がりとつながっておもしろかったかも。(字幕は気持ち半分程度で見ていたので、もしかしたら見間違いだったかもしれない。)
念のために書いておくと、字幕はとてもうまいなあと思って見ていた。短い字数でぴたっとはまっている。ついでに言うと、タイトルのMuallafを「改宗」としないで「改心」と訳した人はすごい。これが「改宗」だったら映画のイメージがかなり違っていたはず。(だけどBunkamuraのスタッフは「ムアラフの改心」とか言ってたぞ。ムアラフは人の名前じゃないっちゅうのに。)

改宗と家族

「ムアラフ」でロハニとブライアンの恋愛がテーマなのかはかなり疑わしいけれど、でも終盤でブライアンはロハニをデートに誘って、そのあたりからドラマが大きく展開する。
決戦は金曜日。場所は日本食レストラン。イポーに日本食ってあるのかなと思ったけど、そういえば「Sepet」や「Gubra」の撮影現場だったイポーのグリーンタウン地区で日本食レストランの看板を見かけた記憶がある。
金曜日の夕食に誘われて「デートに誘ってるつもり?」と聞くロハニには夕食の意味がちゃんとわかってる。「妹さん抜きで2人だけじゃダメかな」「ダメよ」っていうやり取りからも、ただの食事では済まないことは明らか。そして、ムスリムである自分とクリスチャンであるブライアンの間でそちら方面に話が進めば、家族を巻き込んだ事態に発展するだろうこともロハニには見えている。
実際、ブライアンは話がそちらの方向に進むことをまじめに検討している。このへんはマレーシアになじみがないとちょっとわかりにくいかもしれないけれど、ブライアンは宗教局でコーランを手に入れて読み始めたり、アラビア語を勉強する学校を探したりしている。「君と一緒に暮らすためにイスラム教に改宗するつもりがある」というメッセージがぷんぷんにおってて、それをふまえて結婚の申し込みをするのが金曜日の夕食ということ。ということで、これ以降、マレーシアの観客はブライアンが改宗するかどうかも気にしながら観ることになる。
マレーシアなので、改宗の方に話が向かったら家族親戚を巻き込んだ大問題になる。念のために書いておくと、マレーシアでは、ムスリムと非ムスリムが結婚するには非ムスリムイスラム教に改宗しなければならない。これは法律。そして、非ムスリムイスラム教に改宗すると、もとの家族・親戚から絶縁される。これは法律ではないけれど、世間の掟のようなもの。(ただし半島部だけの話。サバやサラワクでは同じ家族の中にムスリムとクリスチャンがいることも珍しくない。半島部のムスリムからは非文明的だって見られたりするんだけど。)
家族が改宗に賛成して祝福の中で結婚するなんていうことはまずないので、これが普通のドラマだったら、この後は家族の反対をどう乗り切るかであれこれドラマが展開して、最後は家族が反対して別れ別れになるか、改宗・結婚して家族との縁を切るかという結末になる。
ところが「ムアラフ」では、改宗するかどうかに話をもっていかなかった。家族とどういう関係を結ぶかに焦点が当てられて話が進んでいく。ロハニはブライアンに必ずペナンに帰ってお母さんに会ってくるようにと約束して、そのためブライアンはお母さんに会いに行く。
毎週のように「週末に家に帰ってきなさい、教会に送り迎えしてちょうだい」と電話をかけてくるブライアンのお母さんは、文句を言う形をとりながら、実は子どものころ息子にしてしまったことを謝ってる。だから何度も何度も電話をかけてくる。ブライアンはそっけない返事をするけれど、でも毎回ちゃんと電話に出てるし、電話番号を変えたりもしていないから、許したいという気持ちはある。それに、きっかけはお母さんだったかもしれないけれど、ひどい仕打ちをしたのはお父さんで、そのお父さんはもういない。ただ、子どものころの経験があまりに心を痛める出来事だったので、ブライアンも一言二言で許せるほど自分で納得がいかない。お母さんもそれがわかっているから何度でも電話して謝っている。だからお母さんには何度でも謝らせたらいい。いつか許せるときがくるから。
そうして、ロハニとの約束をきっかけにお母さんに会いに行って、ようやくブライアンはお母さんと仲直りする。お母さんとの関係において、ブライアンは生まれかわる。
ロハニも、妹を取り返すため、でもたぶん本当は亡くなったお母さんを含めてお父さんとの関係を作り直すため、お父さんのところに乗り込んでいく。
病気で倒れたお父さんを看病しなくちゃいけないからと言って、あんなに嫌っていたかに見えるお父さんと和解しちゃうなんてちょっと拍子抜けの気もするけれど、でも、もともとお父さんのことは憎んだりしてなかったということなんだろう。
そりゃあお父さんはムスリムなのにひと前で酒を飲んだりするけど、でも酒に酔ってわけがわからなくなってロハニに乱暴したわけじゃあない。新しいお母さんを迎えたのにロハニたちがいつまでも亡くなったお母さんのことばかり言って、新しいお母さんを家族のなかにきちんと位置付けようとしないから、家族の長として叱らざるを得なかった。だからロハニもお父さんを心から憎んでいるわけではない。
ロハニのお父さんがしたことは、自分が監督すべき場で秩序を乱す存在に対して強制的に秩序に従わせようとしたということ。マレーシア社会ではそのように監督された場がいくつも集まって社会が作られているので、お父さんの態度は、マレーシアの学校ともマレーシア政府の態度とも重なるところがある。それから、映画の中ではここに宗教的な要素を含めて説明していなかったけれど、マレーシア社会の一部である以上、場によっては宗教も同じように秩序維持を強制するように働くこともある。
(もちろん、秩序を守るために腕力で抑えようとすることへの批判は映画でも描かれている。授業中に言うことを聞かないことを理由に生徒を鞭で叩いたシバ先生はクビになって、ダンボールに私物を抱えて学校を去っている。ついでに言うと、マレーシアの学校では生徒への鞭打ち体罰が認められているけれど、鞭打ちしていいのは校長先生か生徒指導の先生だけ、しかも人前で鞭打ちしてはまずくて、校長室か生徒指導室に呼び出して鞭打ちする。もちろん、鞭打ちされた生徒はあまりの痛さに声を上げてしまうので学校中に知られるところにはなるけれど。ただしこれは1980年代半ばの話なので、最近はまた違っているかも。)

もう1つのマレーシア

ヤスミン作品の特徴は、「いま、そこにないマレーシア」を美しく描いていることにある。マレーシア社会の「常識」をひっくり返した「もう1つのマレーシア」を現実のように描いているため、今は存在しないけれど、でもそんなマレーシアがあってもおかしくないだろうなと思わせるのがヤスミン作品。
では、「ムアラフ」は、どの点が「いま、そこにない」「もう1つのマレーシア」なのか。社会における宗教の受け入れ方についてのもう1つのマレーシアを描いているのではないか。
自分が監督している場の秩序維持のため、暴力による強制措置をとる人々。ロハニのお父さん、ブライアンのお父さん、学校のシバ先生。家庭だろうが学校だろうが、イスラム教だろうがキリスト教だろうが違いはない。
そこでは、ブライアンのお父さんがそうだったように、秩序維持や強制措置の裏付けとして宗教が利用されることもある。そして、映画では明確に描かれていないけれど、マレーシアでは社会生活のさまざまな面でそのような秩序維持とそのための暴力的強制が見られるし、そこで宗教が利用されることも少なくない。その結果として、マレーシアでは、宗教とは社会秩序を乱すものを強制的に排除または矯正するための仕組みとして機能させられている面がある。
社会秩序の維持が制度的に行われると、異なる宗教どうし、異なる宗派どうしで秩序のあり方をめぐって対立が起こる。そういう側面もあるけれど、宗教には個人のふるまい方についての教えの部分もあって、「ムアラフ」でさんざん示されたようにその教えの部分ではどの宗教もそれほど変わりはないのだから、宗教のそちらの側面が強くなれば「もう1つのマレーシア」が現れるかもしれない。つまり、それぞれが自分の信じる宗教をもって、その教えにそれぞれ帰依すれば、それぞれが自分の信じる宗教を実践しながら共通の宗教的価値を実践することが可能だということ。そうなれば、異なる宗教どうし、異なる宗派どうしの違いは重要ではなくなるし、もっと具体的にいえば、結婚のために改宗するかしないかも重要ではなくなる。そのように宗教をマレーシア社会に位置づけなおそうとしたのがヤスミン監督の思いなのではないか。
物語の最後では、ロハニとブライアンが再開して、たぶん何らかの形で恋が成就する(といいな。希望を込めて)。じゃあ、ブライアンはイスラム教に改宗するのか。深く考えなければ、そしてマレーシアの宗教事情を知っていれば、ブライアンが改宗して2人が結ばれてハッピーエンドという結末が見えてくるだろう。でも、そうじゃなくて、「改宗するかどうかはどっちでもいい」というのがこの映画の世界での答え(かも。深読みなので念のため)。
ブライアンは改宗したのか。観る人によってどちらの答えもありうる。ということは、異なる宗教どうしの恋愛が、お互いに改宗なしに結ばれてハッピーエンドになる可能性があることを示唆している。マレーシアの映画は、これまで宗教の違いを超えた恋愛を描いたときには、改宗して結婚するか改宗しないで別れるかの二者択一から逃れらてこなかった。もしかしたら、「ムアラフ」の結末は、その二者択一の呪縛から逃れることに成功したマレーシア映画史上初の試みなのかもしれない。もしそうだったとしたら、ヤスミン監督はきっとわかってやってるんだろうなあ。


あとは、メインテーマと直接関係ないところでいくつか思ったことをメモ。

シンディの執念

パブの同僚シンディは、あんまり働かないのにかわいいだけで人気者になっているロハニのことを妬んでいたけれど、いかにもヤクザ風の男たちに血を吐くまで痛めつけられても決してロハニのことは売らなかった。あとで届け物をしてるっていうことはロハニの住所を知らなかったわけじゃないのに。
ボスは現場にいたのに知らないふりして逃げ出した。ということは、売り上げがなくなっても「男たちに持っていかれた」と言えばボスに責められることはない。だから売り上げは全部いただく。さんざん痛めつけられた体の力を振り絞って、その日の売り上げをきっちり封筒に詰めて持って帰る。でも、それを自分よりもっと大変な境遇にあるらしいロハニに全部あげちゃう。封筒にお金を詰めていたときにはすでにそのつもりだったんだろうなと思うと、その執念というか精神の強さには言葉もない。
「死について考えるなんて頭おかしいんじゃないの、私たちは将来のよい暮らしのことを考えるの」と言っていた大学の事務員と天地の差ぐらいある。マレーシアの現実社会ではこの大学事務員みたいな反応をする人がほとんどなんだけど、でも、ここぞというときにはシンディみたいな執念を見せる人がいるのがまたマレーシアのすごいところ(マレーシアだけじゃないけどね)。そして、この精神の強さを宗教のせいだと描かないのがヤスミン監督の肝の据わったところ。

ブライアンの被り物

「もう1つのマレーシア」に関連して、ブライアンの性癖について。
観た人によっては、ちょっと変態ちっくだったブライアンがロハニたちのものを頭に被っていくシーンで、最後の1枚を被らなかったのは自分の意思で踏みとどまったのだという見方もあったらしい。でも、そうするとブライアンは最後の1枚を被らなかったことで「病気が治った」ということになってしまう。あれは病気だったのか、そして、それはもう治ったのか。
物語上はそれ以上の描写がないので「病気が治った」と言っても間違いではないんだろうけれど、でもあえて深読みしてみたい。
ブライアンは、関心がある相手に対して、その人が身につけているものを頭に被ることで関係が結べると感じる性分だ。つまり、ブライアンにとって、頭に被るというのは挨拶みたいなもの。ほかの人たちにとっての握手と同じ。
最後の方で、修道士が教会に来た人たちと握手しているシーンがあるけど、あれは、この社会では握手が挨拶だとみなされていることを示している。でも、犬に舐められた手のままで握手しようとしたお茶目なホー・ユーハンが差し出した手にロハニのお父さんが握手するのを嫌がったように、ときと場合によってはそれが挨拶でなくなることもある(まあ、ムスリムは犬に触らないっていうことはあるけれど、それも含めて状況によるっていうこと)。
余計な話だけど、もしかして、日本食レストランに行って、誰かに紹介されて、握手しようと手を差し出したら相手は頭を下げてきたので挨拶がかみ合わない、なんていうシーンもあってもよかったかも。
それはともかく、何が挨拶になって何が嫌がられるかは社会文化的な環境などによる。そう考えると、ムアラフの映画のなかの世界は、相手の持ち物を被ることが挨拶になっているブライアンにとって、それを被られたらいやだなと見ている人が思いそうなものについては被らないという分別を持ちながらも、でも相変わらず被りたいものを被り続けられる世界なんじゃないかな。そうであってほしい。そういう「もう1つのマレーシア」なのかもしれない。

ヤスミンの物語

ロハニ役のシャリファ・アマニは、ロハニを見てオーキッドが見えてくるようだったら自分は役者として失敗だと言っているらしい。でも、ヤスミン監督の作品に出ている以上、ヤスミン監督の化身としての役割を逃れることはできない。だからどうしてもオーキッドと重ねて見られてしまう。
ということで、「ムアラフ」をヤスミン・ワールドとして観たときに気になったこと。
妹がオートバイに乗るときにヘルメットをちゃんとかぶってないのを注意するロハナ。これは言うまでもなく、かつて「Sepet」で愛する人がオートバイの事故にあったから。
ロハニの髪の毛。亡くなったお母さんの形見がわりに長髪のままにしておきたかったというのが映画内の解釈だろうけれど、ヤスミン・ワールド的解釈としては、「Mukhsin」で初恋の相手であるムクシンに「ずっと髪を切らないで」とお願いされたから。それなのに、その大事な髪を切られてしまった。
妹ロハナのテコンドー教室。ロハナ自身は腕力で決着をつけることが嫌いだと言ってるのに、しかも月謝も払えないのに、どうしてロハニはロハナにテコンドーを習わせているのか。「Sepet」でジェイソンの本名がブルース・リーからとったと聞かされたオーキッドが、ジェイソンの思い出の1つとして武術を大事にしているため。オーキッドが武術を習ったことは物語では直接描かれていないけれど、「Gubra」ではキックボクシングを習った成果をジェイソンのお兄さんの前で披露している。「ムアラフ」でも、おそらくロハニに何か武術をやらせたかったけれど、仕事があるので妹に習わせたということなのかも。
おばさんの家にあったロハニが男と写っている写真。ブライアンが写真を見つけて動揺して、そのため自分の気持ちがさらにはっきりしていくということなんだろうけれど、あの写真の男がジェイソンだったら、そして写真について尋ねられたロハニが気のきいた説明をしてくれても楽しかったかも。関係ないけど、ムアラフのポスターはジェイソンがデザインしてジミー(Sepetのヤクザのボス)が撮影したんだとか。ジミーってカメラマンだったのか。
http://yasminthestoryteller.blogspot.com/2007/10/poster.html
「ムアラフ」の意味。もともとの意味は新しくイスラム教徒になるかならないかで信仰心が十分に確立されていない人ということで「改宗者」だけれど、それにとらわれずに拡大解釈すると、「精神的な意味での生まれかわり」ということになるんじゃないか。肉体的な生まれかわりじゃなくて、たとえば両親との関係において生まれかわることとか。
生まれかわりと言えば、「Sepet」でジェイソンから生まれかわりを信じるかと尋ねられて、オーキッドに「そんなものは信じない」と答えさせてしまったヤスミン監督。ヤスミン・ワールドには形を変えて生まれかわりが何度も登場するけれど、それはジェイソンが言ったことを否定してしまったことを気にしているからではないか。生まれかわりのいろんな形を試してみて、自分に受け入れ可能な生まれかわりを見つけ出そうとヤスミン監督が努力しているのかなあと思う。