タレンタイム(Talentime)

ヤスミン・アフマド監督の最新作。とてもよかった。これまでのヤスミン映画に出てきた場所や道具や人物やエピソードをいったんバラバラにして組み立て直したような映画。(悪い意味でではなく)マレーシア色を薄くして、マレーシアのことをよく知らなくても理解できるようにした映画とも言えるかも。だから、マレーシアになじみがない人にも、マレーシアのことを紹介するという意図抜きに映画として勧められる。
本当は女子生徒(メルー)役にシャリファ・アマニを使いたかったけれどもスケジュールがあわなくて別の人にしたそうだが、別の人にしてよかったのかも。成長したモクシンくんとオーキッドの出会いも見たかったけど。


まずは登場人物と背景を簡単に。名前のカタカナ表記が難しい。
オーキッド・シリーズでお手伝いさん役だったアディバが学校の先生。名前はそのままアディバ先生。生徒の中から音楽の才能を見つけるオーディション企画のようなTalentimeを担当することになり、アディバ先生を慕うアヌアール先生に手伝ってもらってTalentimeの準備を進める。予選で絞られた7人の生徒がTalentime当日まで練習することになり、参加者をオートバイで送り迎えする担当の生徒も決められ、そのため出会いが生まれる。
Talentimeの候補は7人だけれど、劇中で登場するのは3人。
マレー人男子生徒ハフィズ。Talentimeで演奏する楽器はギター。お母さんは脳腫瘍の末期で入院中。
ハフィズが来るまで全校トップの優等生だった華人男子生徒カーホウ(綴りはKahoe、漢字だと家豪)。Talentimeでの楽器は二胡
女子生徒メルー。Talentimeでの楽器はピアノ。家庭の民族性はちょっと複雑だけれど、基本的にマレー人ムスリム
そしてメルーをオートバイで送り迎えする担当になったインド人の男子生徒マヘシュ。ヒンドゥー教徒。母親とお姉さんと暮らしている。父親を亡くしてからはおじさんが家族の世話をしてくれていたが、おじさんは自分の結婚式の当日にある事件に巻き込まれて死んでしまう。
Talentime当日に向けて準備が進められる一方で、メルーとマヘシュの恋物語、そしてハフィズとカーホウのライバル関係が進んでいく。それとあわせてハフィズ、メルー、マヘシュの家族の物語も語られる。生徒たちがそれぞれ抱えきれないほどの大きな苦しみを受けながらTalentimeの当日を迎える。


民族は違っても、宗教は違っても、そして言葉が違っても心を通じ合わせていく。
世の中にはいろいろな言葉を使う人がいる。話す人じゃなくて使う人。携帯電話のメール機能ができてコミュニケーションが便利になった。
目に見えないものがあるし、耳で聞こえないものもある。でも見えなかったり聞こえなかったりするものが重要な働きをして人を動かすことがある。


マレー人と華人の関係が描かれていた「細い目」や「グブラ」と違って、「Talentime」ではマレー人とインド人の関係が描かれる。「あの映画はマレーシアの(特にインド人の)現実の姿を表わしているのか?」という質問があちこちでされるんだろうか。
マレーシアのすべての人を過去現在未来にわたって調べない限り、何かを「マレーシアにない」と言うことはできない。でも、映画のシーンを観たほとんどのマレーシア人が「そんな話はない」と言うだろうという程度の意味で「ない」と言えるのものある。
念のために書いておくと、現実のマレーシアにないことを描いているからこの映画は作品として水準が低い、と言うつもりはない。(そんなこと当たり前だと思うかもしれないけれど、でもマレーシアでは「現実と違う」という形での映画批判が多い。)そうではなく、ヤスミン作品は、今のマレーシアにはないかもしれないけれどあってもおかしくないマレーシアの姿を描いており、「もう1つのマレーシア」を美しく描くことで「ない話」をある日「ある話」にする力を秘めている。
イギリス人女性を母親に持つマレー人はいてもおかしくないけれど、その家で「今日の食事は点心よ」と言って箸を使って食べて湯のみでお茶を飲んでいるのは、ないわけではないだろうけれど「ない話」の部類だろう。
その家のお手伝いさんをめぐる話は、マレー人側からも華人側からも、マレーシアの常識としては「ない話」。
そして、カーホウが先生と話をするときにポケットに手を突っ込んだままで話をしているのも「ない話」。
では、この映画はマレーシアの話ではないのか。ある意味でそう。これについてのヤスミンの謎かけが、学校で国歌が流れている最中にマヘシュが1人だけ歩き去るシーン。現実のマレーシアでは、学校で国歌斉唱が行われたら生徒はその場に立ち止まり、国歌が終わるまで立っていなければならない。他の生徒たちがみんな立ち止まるなか、1人だけ生徒が動いていたことは後で理由づけされるけれど、それはそれとして、この映画はマレーシアの土地や人物などを使っているけれども今ある国家としてのマレーシアではなくてもう1つのマレーシアなのだと示すヤスミンの遊び心入りの謎かけなんじゃないだろうかと考えてみたい。


カーホウのハフィズへのライバル心。「お前たちはできが悪くてもどうせ助けてもらうんだろう」という台詞はマレー人優先政策を皮肉ったもの。これに対して「俺たちはこの土地の先住民だから当然だ」ではなく「自分たちはそんな助けはいらない」と返すハフィズ。カーホウがハフィズに突っかかる理由は、ハフィズが転校してきてから校内トップの座を追われて父親に叱られるため。でも本当は別の理由があったのかも。許されない恋心、かな。でもその裏に、もっと許されない別の対象への恋心があったのかもしれないと想像してみるのは想像のしすぎか。
公式サイトの役者紹介ではハフィズとカーホウがどちらも同じ学校出身で年齢も同じになっている。実生活でもライバルだったことがある?


メルーとマヘシュの恋。インド人ヒンドゥ教徒とマレー人イスラム教徒の民族と宗教を超えた恋愛。マヘシュの母親はもともとムスリム嫌いで、さらにおじさんを亡くしたショックでムスリムが大嫌いになっていた。だからマヘシュとメルーの関係は許すはずがない。
おじさんが亡くなった理由があまり詳しく説明されなかったのでちょっとわかりにくいけれど、カンポン・メダン事件を知っているとわかりやすいかも。マレーシアにはマレー人とインド人の貧困層が隣り合わせで暮らしている地区がいくつかある。日ごろから小さな不満がお互いにたまっていって、自分たちの結婚式の目の前を連中の葬式が通ったので縁起が悪いだとか、車のトラブルを通りがかりの人が手伝ってくれたのにそれを離れたところから見た人が他民族に責められていると勘違いしたとか、儀礼用のテントに足がぶつかったのを足蹴にしたと思って腹を立てたとか、些細なことをきっかけに感情が爆発して、それが仲間を集めた喧嘩に発展してしまい、ときには死者が出たこともある。そんな出来事の1つがカンポン・メダン事件。警察を投入して事態を抑えようとすると、警官がマレー人なのでマレー人が自分たちを抑えつけようとしていると見てさらに不満を煽ることにもなる。対立の背景の1つにはインドネシアからの移民があるとも言われている。インドネシア人が悪者だと言う意味ではなく、インドネシアでの人間関係の作り方とマレーシアでの人間関係の作り方が違っているため。マレーシアのマレー人とインド人はこれまで50年かけてお互いに折り合いをつける関係の作り方を身につけてきたけれど、インドネシア人はそれを知らずに入ってくるので、日常的なやり取りで摩擦が起こる。しかもインド人にはマレー人とインドネシア人の区別がつかないので、人間関係の作り方の違いからくる不満がマレー人に向けられることになる。「グローバル化の時代の移民が国境を越えて格差を再生産する」なんていうお題にまとめられそうな話。
劇中では、マヘシュのおじさんの結婚式の日に隣家では葬式があり、ちょっとしたトラブルがきっかけでおじさんが殺される事件になった。マレーシア人はこれを聞いて事件のことを思い出す。さらに、マヘシュのお母さんは「連中が私たちの寺院を壊したときでも私たちは許したのに・・・」とも言っていて、ヒンドゥー寺院が「違法建築」として取り壊されたり襲撃されたりした事件のことも思い出す仕組みになっている。


ヤスミン映画ファンには、「オートバイの運転に気をつけて」の台詞はどこにどう出てくるか、「グブラ」のアヌアールとヤムの関係がどうなったのか、「細い目」「グブラ」のジェイソンのお母さんがどう登場するか、ヤスミンの盟友ホー・ユーハンがどこに出てくるかなどなどの楽しみもある。


「Talentime」というのは何ともわかりにくいので、日本で公開されるときの邦題がどうなるか楽しみ。念のために書いておくと、talentimeというのはマレー語の単語ではなくてマレーシア製の英単語(マレーシアだけじゃあないかもしれないけど)。ちなみにこの映画の華語タイトルは「ジャスミンの恋」となっていた。ジャスミンなんて出てこないじゃないかと思うけど、女子生徒の名前メルーがマレー語でジャスミンの意味。どうして「ジャスミンの恋」なのかは最後の方で明かされるけれど、中華世界に馴染んだ人にはその説明を聞く前にわかるのかもしれない。