映画「Talentime」その3

選挙翌日の地元新聞の1面トップの見出しは「現状維持」。確かに議席数だけ見れば与野党の数は変わっていないけれど、半島部の2つの選挙区にあれだけ資源を投入した与党が2つとも落としたのを「現状維持」と呼ぶのはどうなんだろうか。
別の新聞には、「与党勝利」と大々的に書いてあり、その下に小さく小さく「他の2つの選挙区では野党が勝利」と書いてあるものも。


さて、しつこく「Talentime」の続き。
「Talentime」に関するレビューが出始めた。
物語自体はかなり肯定的に評価しているけれど、「現実のマレー人の様子を反映しているのか」と問いかける。マレー人ムスリムのあるべき姿から逸脱していると示唆している。例えばこんな感じに。父親が娘と近すぎ、娘に理解を示しすぎる。教師が生徒と親しすぎる。食事の前に詩を詠む。ヤスミン映画でマレー人らしいのは、女の子たちがちょっと古風のマレー人の名前を持っていることと、マレー人の服装を身につけていることだけ。見かけはマレー人の格好でも中身は西洋人のようだ。
これは「細い目」や「グブラ」からずっとなされてきたヤスミン作品への批判とまるっきり同じトーン。ヤスミン自身は承知の上であえてやっているのだろうけれど、でもこういった批判がヤスミン作品を「観る価値がない」とする評価につながっていくし、さらに最近の若者たちが混成文化の波にのまれて自分の文化を失いつつある悪い例であるとされて、学校での民族教育や規律を強めるべきという議論と結び付けられることになる。たとえば、学校で理数系の授業を英語で行うことへの反対だとか、ジャウィ文字教育の導入だとか、規律担当教師による生徒への鞭打ちの復活だとかが語られているなかにこの映画への評価が置かれることになる。
何度でも繰り返すけれど、私はヤスミン作品の魅力について、今ここにない「もう1つのマレーシア」を美しく説得的に描き、「もう1つのマレーシア」が実現しても不思議ではないことを気付かせてくれるところにあると思っている。でも、マレーシア人のヤスミン・ファンは「多数派でないけれど現実にあるんだ」と言うし、ヤスミン自身も「自分の家族がそうだったように現実に存在する」と言ったりしている。


それはともかく、レビューで「Talentime」のタイトルについて考察しているのはなるほどと思った。真ん中に小さめの赤いNがあって、その両脇がTaleとTime、つまり物語と時になっているというもの。だとするとタイトルは「Tale-n-Time」と書いた方がいいのかもしれない。と思っていたら、「TaneNtime」と書いている人がいた。それはともかく、「Talentime」は時の要素がある物語、つまり大人のマレーシア人にとって70年代や80年代の子どもだったころを思い出させるということらしい。

マレー人のハフィズ、華人のカーホウ、インド人のマヘシュ、いずれも他の人と摩擦を起こす原因が「親に尽くしたいため」だという興味深い指摘もあった。でもカーホウの意地っ張りな態度とハフィズのまじめさを一緒に並べていいものかはちょっと疑問。

マレーシアのレビューでは、ヤスミン作品を「ラブン」「細い目」「グブラ」「ムクシン」、そして「Talentime」と書いているものがけっこうある。「ムアラフ」はマレーシアではなかったことになっているんだろうか。