「チチャマン」――新世紀のムスリム・ヒーロー映画

マレーシアでは2006年、ヒーロー映画「チチャマン」(Cicak-man)が大人気だった。壁をよじ登る特殊な力を持ったヒーローが悪者と戦う物語で、「スパイダーマン」を思い出させるけれど、マレーシアではどの家でも壁や天井にへばりついていたりするチチャ(ヤモリ)がモチーフになっているところがなんともマレーシアらしい。
興行収入は520万リンギで、マレー映画史上第3位の好成績だという。単純に計算すれば、マレーシア国民のおよそ30人に1人が『チチャマン』を見るために劇場に足を運んだことになるだろうか。
「チチャマン」については、Blog in Music Rajaの次の記事に詳しい説明がある。
http://aisa.ne.jp/musicraja/blog/index.php?eid=370

私は映画の技法や業界には疎いので観客として観るだけなのだけれど、「チチャマン」は登場人物1人1人の奇妙奇天烈さが際立っており、しかもストーリーもまとまっていて、それだけで素直に笑ってとても楽しめる映画だ。それに、舞台を架空の国にして、そこにCGで雪まで降らせているのは、マレーシアらしさをなるべく排除して万人受けするようにしようとの工夫だろう。それを楽しむだけでもこの映画を観る価値は十分にある。
だから、素直に笑って楽しむだけでも十分なのだろうけれど、それに加えて、「チチャマン」にどこか「マレーシアらしさ」を感じてしまい、そこに惹かれてこの映画を何度も観たくなる自分に気づいた。なにが「マレーシアらしさ」なのかを伝えるのは難しいが、何とかして言葉で表現しようとするとどうなるかをちょっと考えてみた。


まずはあらすじ。

舞台は架空の国メトロフルス。さまざまな病気のワクチン開発で知られる大企業クローン研究所。経営者のクローン博士は、実は研究員たちにウィルスとワクチンを両方開発させ、ウィルスを撒いてはワクチンを売って巨額の富を築き上げていた。しかもクローン博士は密かに人間のクローン技術の開発を進めており、メトロフルスの大臣たちをクローン人間と入れ替えることでメトロフルスの支配を企んでいた。
ある日、クローン研究所の研究員ハイリは実験用のヤモリを過って飲み込んでしまい、ヤモリの能力を身につける。クローン博士の秘密を偶然知ったために捕らえられた親友たちを救うため、ハイリはチチャマンとなってクローン博士と戦う。

爆発シーンやカーチェイスなど派手なシーンはまったくないため、ハリウッド映画を見慣れた目には物足りなく映るかもしれない。それを予算規模の違いと言ってしまうだけでは、「チチャマン」の呼びかけを受け止め損ねることになるだろう。「チチャマン」からは、予算などの制約を逆手にとって、ハリウッド型とは違う新しいヒーロー像を打ち出そうという作り手の積極的な思いが伝わってくるからだ。そしてそこには、小国であることを自覚したうえで、自分たちにできる方法で世界に貢献する方法を模索してきたマレーシアの姿を重ねて見ることもできるように思える。
「チチャマン」でそれが一番よく表われているのは、周囲に大きな犠牲を払ってでも悪玉を倒し、最後にヒーローとヒロインが結ばれるというハリウッド映画の定番のハッピーエンドを敢えて避けているところだ。

(以下の引用部分は結末に関する記述あり)

ハイリ(チチャマン)はクローン博士との戦いでヒロインのタニアを守るが、タニアとは結ばれない。それどころか、ハイリはクローン博士に捕らえられた親友のデニーを救えず、戦いに巻き込んで死なせてしまう。チチャマンの正体がデニーだと誤解したタニアは、デニーが命をかけて自分を救ってくれたと思い込み、そのデニーを見殺しにしたとハイリを非難する。親友を救えなかったハイリはタニアの誤解を解かず、チチャマンの正体を隠したまま物語が幕を閉じる。
一方、クローン博士はチチャマンの働きで悪事が露見して逮捕されるものの、エンディングのシーンでは、クローン博士の命運はまだ尽きておらず、悪事がさらに続きそうな不気味な余韻を残している。

もし自分に何らかの力が与えられたら、その力の限りで世の中に貢献しようとするだろうが、それによって世の中をすっかりよくするほどの力ではなかった場合、限られた力をどう使ってそれぞれの問題を解決し、世の中をよくすることができるのか。
「チチャマン」の作り手たちがこの問いかけを背負っていることは、「チチャマン」のVCDを買うともれなくついてくるCDに入っている歌の歌詞からもうかがえる。
その根本に揺るぎない正義感を持っていながらも、自分1人の力では正義を実現できないという自覚があるため、世の中からどのように見られているかを常にモニターして、状況に柔軟に対応させて自分の戦略を変えたりもする。まわりの人々に助けを求めるし、クローン博士の野望を阻止するために最終的に警察の手を借りたことにも表われているように、自分ひとりで無理に問題を解決しようとしない。
「チチャマン」は、自分の力と正義に疑いをもたない自信満々のヒーローの映画ではない。全体をコメディ・タッチで描きながらも、世の中の現実を前に苦悩する「自信のないヒーロー」の映画だ。
(念のために補足しておくと、「自信のない」というのは、自分の能力や正義感に自信がないという意味ではない。自分の考える「よりよい社会」のあり方とそれを実現するための方法が、その社会で暮らす人々にも当然受け入れられて常に積極的な支持が得られるという自信が持てないという意味だ。スパイダーマンも悩めるヒーローではあるけれど、悪玉との戦いであたりを壊しまくる点では、やはりチチャマンと違う側にいる。)
「チチャマン」は、すでに隣国のインドネシアシンガポールで公開が決まっているほか、中国など他のアジア諸国でも公開の話があるという。
ちょっと大げさな言い方をすると、「自分が信じる正義を実現するためには悪玉を倒さなければならず、そのためには多少の犠牲が出てもやむをえない」というハリウッド的な勧善懲悪の物語へのアンチテーゼを、世界で多くの人々が求めはじめている、ということなのかもしれない。
なぜチチャマンが「ムスリム」ヒーローなのかという話は次の機会に。


[追記] 2007年7月にジャカルタで聞いてみた限りでは、インドネシアでは「チチャマン」はほとんど知られていなかった。
(この記事は「malam−マレーシア映画」の2007年6月16日付けの記事からこの場に引っ越したものです。)