ムスリム・ヒーローとしてのチチャマン

観れば明らかだが、「チチャマン」のテーマの1つは「コピーではなくオリジナルを」だ。
そうはいっても、「チチャマン」自体が「スパイダーマン」のコピーじゃないかという人もいるだろう。もちろん、「チチャマン」のアイデアは、「スパイダーマン」や他の映画からいろいろと受け継いでいる。でも、「チチャマン」はそれをただのパロディにするのでなく、アメコミの世界を独自の世界観によって作り変えることに成功している。その意味では、「チチャマン」もやはりオリジナルだと言うべきだろう。
独自の世界観に作り変えている象徴的な例が、アメコミの世界をムスリムイスラム教徒)の世界に塗り替えてしまったことだ。「チチャマン」の世界は、実はムスリムの世界なのだ。
もっとも、戦う前に「お祈りするからちょっと待て」と言ったりするような、戯画化されたムスリム・ヒーローの姿はそこにはない。登場人物は長衣や被り物などムスリムをイメージさせる服装をしているわけでもないし、画面にモスクが出てくるわけでもない。特に意識しなければ、「チチャマン」の登場人物がどれもムスリムだと気づかない人も多いかもしれない。
でも、チチャマンの登場シーンを見ると、「我こそはチチャマンなり」と名乗りをあげる前にまず「アッサラームアライクム」と呼びかけ、しかも呼びかけられた人々はみな「ワアライクムサラーム」と返している。チチャマンも他の登場人物も全員ムスリムであり、ここはムスリムの世界ということだ。
つまり、「チチャマン」は、ヒーローが自身のムスリム性を全面に出しているという意味でムスリム・ヒーローなのではなく、ムスリムたちが普通に暮らしている世界におけるヒーローものという意味でムスリム・ヒーロー映画なのだ。(言うまでもないが、「チチャマン」では悪者も当然ムスリムだ。)
このように、世の中でしばしばイメージされるムスリムの異邦性をまったく取り入れることなく、しかしムスリムであることだけは確認しておくというあり方にも、東南アジアのムスリムであるマレー人らしさの一面が表われていると思う。
ちなみに、「チチャマン」の登場人物のなかで、黒チチャマンはおそらく唯一の非ムスリムだろう。黒チチャマンは、チチャマンのクローンであることを除いて真っ黒で正体不明の存在なのだが、なぜか広東語を話す。マレーシアではマレー人と華人が(少なくとも表面上は)折り合いをつけて暮らしているけれど、多くのマレー人の心の中では、華人とは黒チチャマンのように「何か意味のわからない言葉を話す異邦人」と映っているということの表われなのかもしれない。
もう1つ、ムスリムの世界とは直接関係ないけれどついでに書いておくと、「チチャマン」の舞台である「メトロフルス」という名前は、明らかに「メトロポリス」に由来するけれど、「フルス」とはアラビア語で「お金」という意味らしい。お金が有り余っている「金満都市」というより、何事もお金という「拝金都市」というところだろうか。
映画の冒頭には、各種の税金が値上がりし、人々が税金を払っている場面がある。また、チチャマンにかけられた懸賞金も1万フルスだった。ただし、その後の展開で「お金」に関する話がほとんど出てこなくなったのがちょっと残念だ。


[追記] 2007年8月にシンガポールイスラム系の歌や説法のCDやVCDばかり売っている本屋さんをのぞいてみたところ、それらのイスラム系のCDやVCDにまじって「チチャマン」のVCDが売られていた。イスラム系の本屋さんにとって、「チチャマン」はその店で扱う対象に含まれているのだと改めて認識した。
(この記事は「malam−マレーシア映画」の2007年6月17日付けの記事からこの場に引っ越したものです。)


チチャマンの続編
http://d.hatena.ne.jp/setiabudi/20090113#p1
チチャマン関連記事
http://d.hatena.ne.jp/setiabudi/20080803#p2
http://d.hatena.ne.jp/setiabudi/20080805#p1