「細い目」「グブラ」――現実にないマレーシアを美しく描く

ヤスミン・アフマド監督による「細い目」(Sepet)は日本でもかなり評判になった。私もこの映画がとても好きだ。
ところで、この映画について「マレーシアの多民族社会のリアリティを描いた」という評価を何度か目にした。そう言いたい気持ちはわからなくもない。でも、私は逆に「どこにもないマレーシア」を美しく描いたことこそがこの映画の一番の魅力だと思っている。
「細い目」の続編に当たる「グブラ」(Gubra)も、やはり「どこにもないマレーシア」を描いているという共通点がある。ここでは、「どこにもないマレーシア」という角度から2つの作品を紹介してみたい。
「どこにもないマレーシア」の話をする前に、まず「細い目」や「グブラ」がマレーシア映画(マレー映画)としてはかなり異色の作品であることを確認しておこう。
そのために、少しだけマレーシアの民族の話。

マレーシアは多民族社会だ。半島部マレーシアだけ見ても、主にマレー人、華人(中華系)、インド系の3つの民族がいる。ただし、ここで「民族」というのはマレーシアに特徴的な言い方であることに注意が必要だ。もちろん、民族といったときに一般的にイメージするような文化的な集団という性格も持っている。ただし、民族ごとに政党・母語教育・母語新聞・文化団体などを持つことが認められているという意味で、文化的な枠組というよりも社会経済的な枠組としての性格を強く持っていると考えた方がいい。
半島部マレーシアの住民は、基本的に、マレー人、華人、インド人の3つの民族のいずれかに属している。そして、やや乱暴に言えば、民族が違えば母語も宗教も生活習慣も価値観も異なる。もっと乱暴に言えば、異なる民族どうしの社会的なつながりは最低限のものでしかなく、民族が違えば食べるものも違うために同じ食堂に入ることもないし、民族を超えた恋愛や結婚は社会的に認められない。これがマレーシアの「常識」だ。
もちろん、現実には民族の境界が必ずしも明確に区切られているわけではないし、民族の違いを超えた交流もあり、そして民族の違いを超えた恋愛や結婚もないわけではない。ただし、マレーシア社会の保守層、特にマレー人社会の保守層から見れば、それらは異例の事態であって、存在しても見るべきでないし、見えても語るべきでないということになる。

さて、このようなマレーシアでは、映画を含む芸能でも民族別の原理が適用される。ごく少数の例外を除いて、一方でマレー人しか出ない映画ばかり作られ、他方でインド人しか出ない映画や華人しか出ない映画ばかり作られてきた。異民族の人物が登場することがあったとしても、ストーリーにほとんど影響を与えない端役でしかない。そう考えると、異なる民族がストーリー上の重要な意味をもって登場する「細い目」や「グブラ」は、(マレーシア映画ではじめてというわけではないが)かなり珍しい部類に入ると言ってよい。(ただし、異民族間の恋愛を題にしたマレーシア映画はこれがはじめてというわけではない。「アナック・サラワク」や「スピニング・ガシン」などがある。機会があれば改めて紹介したい。)
話を戻すと、「細い目」が「マレーシアの多民族社会の様子をリアルに描いている」と評価する人がいるのはこのような背景による。確かに、多民族社会でありながら1つの民族しか出てこない映画ばかりしかないことを考えれば、「細い目」に対する「多民族社会をリアルに描いた」という評価にも頷ける部分がある。
でも、そのことを了解した上で、「多民族社会をリアルに描いた」と見るだけでは、「細い目」の一番の肝の部分を見逃してしまうことになるだろうと思う。「細い目」は、そして「グブラ」は、(消極的な意味でなく)「いまここにある現実のマレーシア」ではない「存在しないマレーシア」を描いている。だからこそ、人々はそこに「もしかしたら実現可能かもしれないもう1つのマレーシア」を見出し、この映画に惹かれるのだ、と思う。


具体的な例として、ここでは2つ挙げることにする。
1つめは、人々の上下関係や権力関係に関する描写だ。
「細い目」では、男と女、主人と使用人など、マレーシア社会で「常識」とされる権力関係の「逆転」が随所に見られる。ここで注意すべきなのは、ただひっくり返しているだけでなく、マレー人社会の保守層にとっては「見ないもの」「語らないもの」でありながらも現実には存在するものから、現実にありそうもないことまで、いろいろな程度の「ないもの」がまざって登場するということだ。

  • ジェイソンや友達のキョンは男なのに詩や音楽が好き、オーキッドは女なのに花やラブストーリーが嫌いで武術が好き――これはマレーシアの一般的な「男らしさ」「女らしさ」からは外れるけれど、実際にそういう人がいてもおかしくはない。
  • 写真館でジェイソンとオーキッドが写真を撮っているとき、男と女のポジションを逆にして撮っている――これも男女が逆だけれど、冗談半分で逆の位置で写真をとろうとする人がいても、とても変だとは言えないだろう。ただし「冗談半分」であって、まじめに男女の位置を逆にすることはまずないはず。
  • ジェイソンがオーキッドにどんな食べ物が好きかと聞かれたとき、自分の好みを答えるのではなく、相手の好みに合わせて答えようとして答えがあっちに行ったりこっちに来たりする――一般には女性が男性の顔色をうかがうことが多く、男性が女性の顔色をうかがうことは普通はないことだろうが、ありえないことではない。
  • お手伝いさんのヤムが主人に買い物を頼んだり、ヤムがテレビドラマを見ているときに主人が食材の支度をしていたり――雇い主と使用人の関係が逆転することは、現実にはありえない。

こうしてみると、「ありそうでないもの」から「ありえないもの」まで、さまざまな程度の「ないもの」が並べられていることがわかる。観客は、これらを観ているうちに、どこからどこまでが実際にありそうで、どこからどこまでが実際にはなさそうなのか、しだいに頭の中の区分があいまいになっていく。こうして、マレーシアの「常識」から考えれば「ないはず」のものも、もしかしたらありうるかもしれないと思わせるつくりになっている。


もう1つは、民族間あるいは宗教間の関係について。

  • ジェイソンとオーキッドが最初に出会ったのは市場だった。これは「ありそうなもの」。市場は、今も昔も、異なる民族が出会う場所として最もふさわしい場所の1つだ。
  • 2人がデートのときに食事をするのは決まってファーストフード店だ。これも「ありそうなもの」。マレーシアでは、宗教上の理由などから食堂がほぼ民族別に分かれており、マレー人と華人が外で一緒に食事をするのは大変だ。クアラルンプールのような都会ではショッピングセンターのフードコートに行く手があるけれど、この映画の舞台となったイポーは地方都市なので、異なる民族が食事をするとなればファーストフード店ということなのだろう。
  • 友人のキョンを紹介するとき、ジェイソンは中華系の食堂でオーキッドと待ち合わせている。オーキッドは食堂の入り口で豚肉が売られているのを見てたまげるが、気を取り直して店に入る。これはマレーシアの常識では「ありえない話」だ。(とはいってもそれは半島部マレーシアの話。サバ州だったらおかしくない。)

ここでも、「ありそうな話」と「ありえない話」が入り混じっている。そのため、どこからどこまでが「あるけれど語られない話」で、どこからが「ありえない話」なのかがしだいにあいまいになるしくみになっている。
このように、「細い目」は、「実際にないマレーシア」を美しく描いていて、人々はそこに惹きつけられるのだろうと思う。「細い目」は、観ているうちに、マレーシア社会の現在の「常識」ではありえないはずのことももしかしたら可能かもしれないと思わせてしまう不思議な力を持っている。


ところで、先に挙げた「権力関係」と「民族間・宗教間」の2つは、実は互いに密接に関わっている。そのことを描いたのが、「細い目」の続編の「グブラ」だ。

  • 浮気したアリフをオーキッドが責めるとき、「アリフ」と名前で呼ばずに「おろかなマレー人の男たち」と(複数形で)罵っている。これは、オーキッドが本当に非難を向けているのはアリフ個人ではなく、女性を「肉の塊」としか見ないマレー人男性たちだということを示している。
  • ジェイソンの兄がオーキッドに対し、何世代経ってもマレー人に移民扱いされるマレーシア華人の気持ちを「片想いのようなもの」と表現すると、それに対してオーキッドが「マレー人にもそのことに気づき始めている人々がいる」と答えている。

ここからは、「マレー人男性」というあり方に対する強い批判がうかがえる。これらをつなげるならば、自分たちこそがこの国の主人だと考えるマレー人(特にマレー人男性)たちの権勢欲こそが、民族間・宗教間の障壁を大きくし、人と人との付き合いを妨げているのだと訴えていると読むことができるだろう。
現実のマレーシア社会に民族間・宗教間の障壁という問題があることは事実だ。それを解決するには、まず人と人との、とりわけ家庭内での家族どうしの愛情のあり方を見直すことからはじめるべきだ――これこそが、「細い目」と「グブラ」がマレーシア社会に訴えているメッセージなのだという気がする。
(この記事は「malam−マレーシア映画」の2007年6月18日付けの記事からこの場に引っ越したものです。)