「マンデー・モーニング・グローリー」――「テロリズム」に至る道

マレーシア映画「マンデー・モーニング・グローリー」(Monday Morning Glory)の舞台は東南アジアの某国。ナイトクラブで199人の死者を出した爆弾事件の実行犯たちを逮捕した警察は、国内外のメディアや人権団体を招き、実行犯たちが拠点とする村で犯行に至る過程の実地検分を行う。警察による実地検分のシーンと実行犯たちの犯行計画のシーンが交互に示され、警察による説明と実際の進行が食い違いを見せながらも1つの物語に収斂していく。
この映画が作られたのはマレーシアで、出演しているのもほとんどがマレーシア人だ。だからこの物語もマレーシアを舞台にした話かと思わせるが、そうではない。映画の中ではどこの国の話か明示されていないが、このためにかえって「ある国」の話であることを示している。ナイトクラブでの犯行の前に教会などで小規模な爆弾事件を起こしていたり、オーストラリアからの捜査の援助があったり、さらには実行犯たちの名前などから、インドネシアの爆弾事件が念頭に置かれていることは明らかだ。
首謀者のコソボは、「アメリカは敵だ、アメリカの同盟者はみな敵だ」と訴え続ける。ただしコソボの手下である爆弾の実行犯たちは、「終わったらカラオケに行こう」と言ってみたり(カラオケはアメリカではなく日本のものだけれど、彼らにとってみればナイトクラブと同じく「非イスラム的」な存在だ)、ハンバーガーが食べたいけれどマクドナルドとバーガーキングのどちらがいいかと議論してみたりと、教条主義的に反米の態度をとっているわけではないと描かれている。だからこそ、ごく普通の人でも実行犯になりうるということでもある。インドネシアの事件をマレーシアで描いたのは、インドネシアの事件だからマレーシアには関係ないとは言っていられないということなのかもしれない。
実地検分の途中で記者たちがいろいろ質問するのだが、このやり取りがとても興味深い。警官への質問では、警官がうまくはぐらかしているのが実にマレーシアらしい。他方、実行犯たちに対する質問では、女性の記者たちの質問が鋭く、答える側がたじたじになっているのが印象的だ。


この映画は、どちらかと言えば、実行犯側ではなく警察側に立って作られている。実地検分は警察の思惑通りに進む。警察に対する不信感が示唆されるシーンもあることはあるが、最終的に実行犯がメディアの前で悔い改めることによって、ストーリー上は警察の全面勝利で終わると言ってよい。
ただし、ラストシーンにちょっとした仕掛けがしてある。

(以下、引用部分はラストシーンに関する記述あり)
この映画では、警察による実地検分のシーンと犯行計画段階のシーンが交互に差し挟まれている。そのため、最後の警察発表のあとで映される村のシーンは犯行の決行前のシーンなのか、それとも警察発表の後のシーンなのかわからない。これを犯行の決行前と見るか決行後と見るかでラストシーンの受け取り方が変わってくる。決行後だとすると、不気味な余韻を残す終わり方だ。

最初に犯行を計画・実行した人々にとっての理由がどうであったとしても、反抗を実行すれば被害者のまわりに恨みの感情が生まれ、また、捜査・逮捕の過程で犯人の周囲の人々にも恨みの感情が残る。きっかけは何であれ、いったん恨みの感情が始まってしまったらそれを受け継ぐ者が生まれてしまう。警察による実行犯の逮捕は必ずしも全面的な解決ではないということになる。それこそが本当の「テロリズムに至る道」なのだ。ではどうすればいいのか。ここからが本当の問いかけだが、「マンデー・モーニング・グローリー」はこれ以上答えてくれない。


冒頭の2人が会話しているシーンで、映像のつながりが悪くてシーンが途切れ途切れになっているところがある。発言をいくつかカットしたためにぶつ切りのようになってしまったのか、それとも単なる技術的な問題なのかがやや気になった。
(この記事は「malam−マレーシア映画」の2007年7月15日付けの記事からこの場に引っ越したものです。)