ヤスミン監督の「チョコレート」(15マレーシア)

断食に入ったアチェを離れて近郊の大きめの町へ。これまでインターネット接続が限定的だったけれど、接続環境が良くなり、ようやく待望の「15マレーシア」を観ることができた。
「15マレーシア」について詳しいことは省略。マレーシアの15本の短編が1ヵ月かけてウェブ上で公開されていく。最後が9月16日というのはマレーシア結成の日にちなんでいる? だとすると最初が8月17日というのはインドネシア独立宣言の日だと考えるのは考えすぎ?
それはともかく、ヤスミン監督の遺作となった「チョコレート」。わずか3分の短編で、これにあれこれ解説を付けるのは野暮かもしれないけれど、でも作品を観て制作者の意図を超えてでもみんなであれこれ議論することがヤスミン監督の意に沿っていると思うので、思うところを書いておきたい。例のように私の深読みであって根拠は全くない。物語の最後まで明らかにするので、観る前に内容を知りたくないという人は以下を読まないようご注意を。
なお、「15マレーシア」の短編はいずれも4言語の字幕が付いていて選べるようになっている。また、メイキングも公開されている。「チョコレート」のメイキングでは、ヤスミン監督が動いている姿を見ることができることに加えて、撮影の合間のシャリファ・アマニがとてもかわいらしく、本篇とあわせてこちらも必見。


登場人物の名前がどう設定されているかわからないので、華人青年をカーホウ、マレー人少女をシャリファと呼ぶ。
はじめはカーホウと母親の会話。母親が怒っている。奨学金もとってあれこれ準備したのに息子のカーホウがそれを受けるのを渋っているためらしい。「外国」とは言っていないが、「ここはあの連中の土地だから私たちはよそに行かないと成功しない」と言っているところを見ると、マレー人が優遇されるマレーシアで自分たち華人は成功できないから外国に留学するようにと息子に勧めているということだろう。しかしカーホウは「ここには友だちがいるから」などとあまり乗り気でない。「俺がいなくなったら母さんはあの男とうまくやるつもりなんだろ。あの男は母さんのカネ目当てなんだ、騙されてるんだよ」などと反論するカーホウ。そこに雑貨屋のお客が来る。
やってきたお客はマレー人の少女シャリファ。「電池ください」と言われて哺乳瓶を出すカーホウ。シャリファは単三電池4本を2リンギで買って、さらにチョコレートを買おうとするけれど、チョコは20センなのに手持ちの残りは15センしかない。奥から母親に呼ばれているカーホウは「足りないなら買うなよ」と言い、シャリファも「ごめんなさい」と電池だけ買って帰っていく。テーブルにチョコを叩きつけるように置いて奥に入るカーホウ。物語はそれだけ。


これをどう考えるかは、どうしてカーホウが哺乳瓶を出したのかと、シャリファがチョコを買えなかったことをどう考えるかが鍵になる。
簡単に状況を整理しておこう。舞台はマレーシア。カーホウと母親は華人。マレーシアではマレー人優先政策があり、神学でも就職でも華人は条件が悪い。マレーシア華人は、人によって程度は違うものの、そのことに誰もが不満を持っている。カーホウも母親も、華人としてはマレー人への不満がある。ただし、個人としては別の感情を持つこともある。この短編では、カーホウの民族としてのマレー人への思いと個人としてのシャリファへの思いが絶妙に絡み合っている。
カーホウがシャリファに最初に「電池ください」と言われたとき、シャリファの顔を見つめながら哺乳瓶を出した。顔を見つめながらだったのは、こんなかわいい子がいたんだと驚いて見とれていたためだろう。これは「細い目」のジェイソンがオーキッドに見とれたのと同じ。ヤスミン・ワールドの「いい男」は「かわいい女」に見とれるものだ。でも電池ではなく哺乳瓶を出したのは、マレー人に対する不満があるため、ちょっと突っかかって相手の様子を見ようという思いがあったため。「お前たちマレー人は政府によって赤ちゃん扱いされているじゃないか、お前たちマレー人が必要なのは哺乳瓶だろう」という意味だろう。
シャリファは「それ哺乳瓶よ」と軽くあしらって電池を買い、チョコレートも買おうとするけれど、5セン足りない。これは、華人もマレー人も5セン10センで苦労している人もいるんだという意味もあるだろうけれど、先の哺乳瓶とのつながりで言えば、重要なのは「マレー人におまけしてあげるかどうか」だろう。民族のことを考えなければ、カーホウはかわいいシャリファに5センまけてあげたかもしれない。「細い目」でジェイソンがオーキッドに映画のVCDをあげたように、ヤスミン・ワールドでは男の子はかわいい女の子にまけてあげるものだ。でもカーホウは「足りないんなら買うなよ」としか言わなかった。「マレー人だからといって、力が足りなくても下駄をはかせてあげるわけにはいかないぞ」と言ってみたということだ。奥で母親が呼んでいたのでゆっくり話ができなかったということもあるけれど、日ごろからマレー人への不満を抱いていたため、そのように言って相手の様子を見ようという気持ちもあったのだろう。
これに対してシャリファが文句を言ったり「5センまけて」とお願いしたりしてきたら、カーホウはきっと(「タレンタイム」でカーホウがハフィズに言ったように)「お前たちマレー人はいつもそうやって他人からの施しをあてにしているんだろう」と文句を言ったに違いない。そして、シャリファのことをかわいいと思った気持も消えてしまったことだろう。
でもシャリファは「ごめんなさい」と引き下がり、電池だけ買って、「ありがとう」とお礼を言って帰って行った。力が及ばないことを指摘されれば素直に認めて、他人と同じ条件で扱われることを受け入れた。そんなシャリファを見て、カーホウは改めて彼女をマレー人としてではなく個人として見るようになった(つまり惚れてしまった)のだろう。
最後にカーホウがチョコレートをカウンターに叩きつけるように置くのは、5センくらいまけてあげればよかったかなという後悔の念ではなくて(それも一部にはあるかもしれないけれど)、外国に留学はしない、この国でやっていく、そのことを母さんにちゃんと伝えるぞ、という決意の表れだろう。カーホウとシャリファのやり取りはすれ違っているように見えるけれど、自分の力が及ばなくても安易に他人の助けを求めないというマレー人側の態度と、ここから逃げ出さないでこの国で生きていくという華人側の態度がちゃんとかみ合っている。これがヤスミン監督が最後に残したメッセージなのだろう。


あとは深読みついでに思ったことをあれこれと。
1つめ。このあと2人はどうなるのか。それこそ野暮な話だが、期待を込めて想像してみる。カーホウと母親の店は付近に住む人たちを相手に営む雑貨屋。シャリファは高校の制服を着ているので高校生。なのに電池を買って15センしか残らないということは、これからさらにバスに乗って家に帰るわけではなく、たぶん近所に住んでいる。カーホウは奨学金の話をしているので高校が終わったばかりだとすると、カーホウの方がちょっと年上だけれど、どちらも10代の後半。近所に住んでいる同じ年代の2人なのだから、きっとまた会う機会があって、「マレー人と華人」ではない関係が作られていくのだろう。
2つめ。舞台が雑貨屋であることについて。都市化が進む最近ではちょっと事情が変わってきているが、一昔前までは、民族ごとに食事した入り買い物したりする店が違うマレーシアでは異なる民族どうしが出会う機会は限られていた。町ではいろいろな人が集まる市場がそれにあたる。「細い目」のジェイソンとオーキッドが出会ったのも市場だった。村では雑貨屋がその代わりになる。村で唯一の雑貨屋に華人がいて、そこにマレー人が買いに来るという出会い方。
3つめ。カーホウと母親が(方言ではなく)華語で話していることについて。実際には撮影上の都合などの理由があったのかもしれないけれど、ここではそれについては考えない。家庭内で華語を使っていることをそのまま現実だと受け止めるとどういうことが考えられるか。
マレーシア華人がみんな華語を話せるわけではない。多くの場合、華人は家庭では広東語や福建語などの方言を使う。「細い目」のジェイソンも父親も、家では広東語を話していた。華語を使うのは新聞を読んだり学校で勉強したりするなど文字を読み書きするとき。それなのにカーホウの母親は息子にわざわざ華語で話しかけている。これは華語教育をしっかり受けさせたいという母親の強い意思の表れ。シンガポール華人にはこういう親は多いけれど、マレーシア華人ではまだ少数派だ。母親だけでなくカーホウも華語で話しているので、漢字の読み書きがしっかりできる子どもに育ったということだ。そうだとすると、母親が準備した留学先は、おそらく英語圏ではなく台湾なのだろう。
4つめ。なぜチョコレートなのか。よくわからないが、チョコレートはヤスミン作品に何回か出てくる。「細い目」では肌の色が褐色である人たち(マレー人を含む東南アジアの人びと)として。「ムクシン」ではミルク(白)と混ぜるとおいしくなる食べ物として。だから、自分たちは東南アジアに住む褐色の肌を持つ人々であり、いろいろな色(人)が混ざっているからこそ素晴らしい存在であるのだという意味が込められているのかもしれない。