バタックとTKI

まずはメダンとジャカルタで見つけたバタック関係の本。


Batak Toba di Medan. (Johan Hasselgren, Bina Media Perintis, 2008.)
1912年から1965年までの北スマトラ州メダンにおけるトバ・バタック人アイデンティティの形成を歴史的に跡づけた研究書。2000年に出た「Rural Batak, Kings in Medan」の翻訳。


Konflik Status dan Kekuasaan Orang Batak Toba. (Bungaran Antonius Simanjuntak, Yayasan Obor, 2009.)
トバ・バタック人について。前掲書が扱っている時期以降のバタック教会HKBPの内部対立の様子などがまとめられている。


Bulan Lebam di Tepian Toba. (Sihar Ramses Simatupang, Kakilangit, 2009.)
ジャカルタ生まれ、ジャカルタ育ちの若いタパヌリ・バタック人の目から北スマトラのトバ湖畔のバタック人社会を描いた小説。事情でジャカルタを去らなければならなくなって故郷を訪れると、伝統的な政治構造が時代の要請を受けて変化し始めていた。トバ湖畔にパルプ工場をつくる話が契機になって事件が起こる。


バタックと言えばバタック雑誌。1年半前にはバタック関係の雑誌がいくつか創刊されていたのをこの場で書いたことがある。
バタック雑誌 Tatap - ジャカルタ深読み日記
バタック雑誌 Etnik - ジャカルタ深読み日記
今回は本屋をまわる時間があまりなかったけれど、「Tatap」も「Etnik」も見つからなかった。
「Tatap」の編集部は町から遠くて今回訪問する時間がないので「Etnik」の編集部をのぞいてみると、なんと売れないので今年に入ってから休刊したとのこと。残念。
ついでに近くのイポー料理の店をのぞいてみると、こちらも今年に入って店じまいしてしまったらしい。
ジャカルタのマレーシア料理 - ジャカルタ深読み日記
どうも不吉な話が続くので、それではと思い立って北ジャカルタの「Media TKI」の編集部へ。これはバタック人雑誌ではないけれど、バタック人が1人でがんばって刊行している雑誌。
海外出稼ぎインドネシア人雑誌 Media TKI - ジャカルタ深読み日記
Media TKI (続き) - ジャカルタ深読み日記
町の本屋では見かけなかった。しかも別のTKI雑誌が創刊されたのでどうなったか少し気になっていた。
雑誌「Indonesia Terkini」 - ジャカルタ深読み日記


「Media TKI」の編集部を訪ねると、ちょっと疲れ気味のアグストニ編集長がいつものように歓待してくれた。雑誌の発行は先月号まで続けてきたけれど、今月号は印刷の段階でストップをかけていて、もう潮時かなと思っていたところだったらしい。
この雑誌はTKIのよい面も悪い面もそのまま書いているため、広告を取ろうとしても企業からあまりいい顔をされないらしい。しかも本屋が売り場に並べてくれず、送った雑誌をそっくりそのまま返品してくるため、財政的に行き詰ったことに加えて精神的にも弱気になってしまったらしい。どうやらライバル誌に売り場を奪われてしまったようだ。
編集長はもともと弁護士で、TKI問題を担当する過程でTKIが今のインドネシア社会にとって重要な課題であると思い、雑誌の創刊を思いたった人物だった。TKIの多くはジャワ人なので、ジャワ人がTKI問題の解決をと先導するならわからなくもない。でもアグストニさんはバタック人。それなのに「インドネシア全体の問題だから」と取り組んでいるのが何とも泣かせる。
アグストニさんは「正しいことを」という動機で動く人なので、どうすれば雑誌が売れるかに工夫するのではなく、ストレートに中身で勝負しようとする。そのせいもあって煙たがる方面もあるのだろう。
「カネも手間もかかるし、やめたところで自分の生活にはまったく困らない」という言い方と、「インドネシアにTKI問題がある限りは雑誌の発行を続けたいという気持ちもある」という言い方は、どちらも本音なのだろう。別のところで同じような思いを抱く経験があり、その気持ちはよくわかる。
話を聞いている途中で「いつでもやめる用意はできている」から「そのうちにやめるかもしれない」という口調に変わったので、もう少し続けるかもしれない。この雑誌がやっていることは意義が大変大きいのでできれば続けてほしいとは思うが、いったん休刊して充電期間を設けるという手もあるのだろう。いずれにしろ、今のインドネシア社会を変えるにはTKI問題に働きかけるのが肝心であり、そのために雑誌を創刊して世に働きかけることをほぼ独力で3年も続けてきたことはしっかりと記しておこう。


せっかくだからと、創刊されたばかりのTKI雑誌「Indonesia Terkini」の編集部も訪ねてみた。
もともとの誌名はTren Kini Indonesia(インドネシア最新トレンド)にしたかったらしい。頭文字を略すとTKIで、これは「海外出稼ぎインドネシア人労働者」の頭文字TKIと同じ。TKI向けの雑誌なのであえてそうしたのだけれど、読者からは雑誌を手に取るたびに自分がTKIだと思い知らされるのでいやな気がするという反応が多かったらしい。
この編集部はもともと建築デザインの雑誌を出していて、経営が安定してきたので別の雑誌を出そうと思い、売れそうな分野をリサーチしてTKIの雑誌にしたらしい。その意味では特にTKI問題について主張があるわけではなく、もしこれが成功して3つ目の雑誌を出すとしたら建築ともTKIとも関係ないものにするだろうとのこと。


「Indonesia Terkini」と「Media TKI」は対照的だ。「Media TKI」は、知識人が世直しの意志をもって人々を啓蒙しようとして雑誌を発行しているが、「Indonesia Terkini」は売れてカネになる分野としてTKIが選ばれている。「Media TKI」の方に肩入れしたくなるが、「Indonesia Terkini」は売れるような工夫もいろいろされているので、おそらく「Media TKI」よりもずっと成功するだろう。そうすることによってTKI問題が社会に広く知られるようになるだろうから、「Media TKI」から「Indonesia Terkini」への切り替わりはインドネシアでTKI問題が扱われていく上でおそらく必要な過程なのだろう。
植民地時代のナショナリズム運動を思い浮かべる。はじめのうちは一握りの知識人たちが社会を啓蒙しようとして文筆活動を行い、後に多くの人々が関心を向けるようになるといろいろな勢力が参入してきてさまざまな形で運動が展開していき、そうなると最初に理念を唱えていた知識人はどこか隅に追いやられてしまうということが各地で繰り返されてきた。ナショナリズム運動だけでなく現在の社会運動も同じような進み方をするということだろう。
そうであれば、初期に文筆活動で道をつけた先導者たちの意義は大衆的な社会運動となった後の段階とは別に評価されるべきだろう。新聞や雑誌を発行して世に問題を問いかけた人たちの営みに対して、「発行部数は何部だったのか」「どれだけの人に影響を与えたのか」という質問が出ることがあるが、多くの人に直接影響を与えたかどうかではなく、人類社会がそのことがらを課題だと考えるようになった大きな一歩だという評価もあり得るはずだ。改めて、「Media TKI」の刊行はインドネシアの今と将来にとって大いに意義があることだと思う。