「タレンタイム」のDVD

setiabudi2009-12-26

マレーシアではヤスミンの「タレンタイム」のDVDが売られ始めている。DVD屋さんの店先で「タレンタイム」がかかっていたりする。
さっそく買ってみたが、半分騙された気持ちになった。今売られているものには字幕が一切ない。「language: Bahasa Malaysia」と書いてあるけれど、これは音声のこと。「タレンタイム」の台詞がマレー語だというのもかなり騙しっぽいけれど、それはまあおくとして、字幕について何も書いていないということは字幕がないということ。「タレンタイム」は英語・マレー語のほかに広東語もタミル語もあるし、身振り手振りの会話もある。しかもそれらがみな重要な部分を構成しているので、ある言葉がわからなくても話がわかるというわけではない。字幕なしで話の筋が全部わかる人はいったい世の中にどれだけいるのだろうか。マレーシアの多言語状況を反映したヤスミン作品にはこんなところに落とし穴があったとは。
とはいうものの、マレーシアの人たちはそれほど文句を言っていないようだ。それで思い出したのは、私がマレーシアの家庭で居候していたときにテレビドラマを見ていたときのこと。私の居候先の人々は字幕をあまり熱心に追っていなかった。そもそもマレーシアのテレビドラマは字幕がスカスカで字幕を読んでも内容があまりわからないということもあるけれど、それに加えて、字幕を読むよりは絵を見て物語を自分なりに想像して、それを一緒に見ている人たちとおしゃべりしながら修正しつつ共有していくという見方をしていたからだろう。映画館でも話の内容を確認しながら観ている人がけっこういる。もちろん、作り手の意図によらず受け手がどう感じるかが大切だと考えれば、字幕を気にせずに絵を見て物語を想像するというのは実に正しい態度ということになる。


「タレンタイム」の話題が出たついでに、アミル・ムハンマドの「Yasmin Ahmad's Films」の内容を1つ紹介。この人もかなり深読みをする人のようで、読んでいると触発されてこちらも深読みしたくなる。
どうして「7」なのかという謎は「どの世界でも7は不思議な魔力を持っている」とあっさり片付けられてしまったのでちょっと拍子抜けだけれど、興味深いのは「タレンタイム」のポスターの図柄の解釈。全体的に暗いしみんなの顔は笑ってないしで、どうしてあんな陰気で売れなさそうなポスターにしたのかをあれこれ考えたアミル・ムハンマドは、右に赤い衣装のマヘシュを置き、その左に他の登場人物が半円を描くように配置されている様子はマヘシュのおじさんの葬式のシーンと同じだと看破した。だからタレンタイムには死が忍び込んでいると読みを進めていく。
これはこれで見事な深読みで、顔が笑っていないことも含めてかなり説得力がある。でも、マヘシュが弔われるということか? 私は敢えてちょっと違う読み方をしてみたい。
右に大きなマヘシュ、左に円弧を描く登場人物たちとくれば、これが示しているのはマレーシアの国旗にある月と星ではないか。マヘシュは星で、他の人々は月だ。
月と言えば、「タレンタイム」の舞台に上りたくないというメルーを妹が「それを決めるのは自分じゃないでしょ」と説得したシーンの直後に満月が出ていたではないか。太陽や星はそれ自体で光り輝いているのでまわりを照らす役だけれど、月はそれ自体が光るのではないので照らされて輝く存在だ。私たちは自分自身で輝いているのではなく輝かされているのだから、輝かせてくれる人がいる限りは舞台に立つべきだというメッセージになる。これと重ねて、いろいろな登場人物が輝く物語だと考えてはどうだろうか。
改めて「タレンタイム」のポスターを見てみると、マヘシュを取り囲むように、華人、インド人、マレー人、そしてプラナカンの若者たちが並んでいる。(でも確かにみんなの顔がこわばっているのは気になるのだけれど。)
さらに言えば、マレーシアの国旗の図柄と重なっているのは、ヤスミンが今のマレーシアとは違うもう1つのマレーシアを描こうとしているためだ。そのためにヤスミンが使ったのが国歌と国旗だった。国歌については以前書いたように、「国歌に対して直立不動でなくてもいいもう1つのマレーシア」への入り口なのではないか。
タレンタイム(Talentime) - ジャカルタ深読み日記
では、そのような「もう1つのマレーシア」での国歌は何かというと、「タレンタイム」で繰り返し演奏される「月の光」がそれ。マレーシア国歌は「ヌガラク」(我が国)だけれど、これはマレー民謡の「トゥラン・ブラン」(月の光)をもとにしていることは知らない人がいないほど。(話はそれるけれど、マレーシアは「文化の盗っ人」だと訴えるインドネシアが、「トゥラン・ブラン」はもともとインドネシアの民謡で、マレーシアはそれを盗んで国歌にしたと訴えるできごとがあった。)
聞いた人たちが問答無用で直立不動の態度を取らされる「月の光」ではなく、つい聴き入ってしまうような「月の光」を国歌とする「もう1つのマレーシア」ということなのではないだろうか。