「海の道」その2

昨日の続きでフィリピン映画の「海の道」。
もう少し詳しく内容をメモ。自分のメモ書きとして結末を含めてあらすじを書いているので、未見の方はご注意を。


舞台はタウィタウィのボンガオ。
アザーンが聞こえる。
兄と妹。兄ジャヒドはトランスフォーマーのTシャツを着ている。Q&Aで監督が語ったことによれば、監督は子どものころ日本のロボットアニメのボルテスVのファンだったそうで、主題歌を今でも覚えて歌っていた。ボルテスVは1970年代のフィリピンであまりに流行りすぎ、子どもに悪影響があるためと時のマルコス大統領が放送中止を命じたという逸話も残っている。
監督が披露してくれた「たとえ嵐が吹こうとも/たとえ大波荒れるとも/漕ぎ出そう戦いの海へ/飛び込もう戦いの渦へ」という主題歌は「海の道」にそのままつながっている気もする。
妹の名前はわからなかったが、映画祭公式ガイドによればダインらしい。ダインはお腹がすいている。隣に居合わせたヘルナンドがお菓子をくれて会話が始まる。ヘルナンドとダインはタガログ語で話しているが、ジャヒドはタガログ語がわからないのでダインが1つ1つ通訳してあげている。後の展開から考えて、ジャヒドとダインが話しているのはバジャウ語。村の子どもたちから「バジャウのよそ者」と追い払われるが、ヘルナンドはダインたちを疎ましがったりはしない。
(後に船の上でヘルナンドの「姪」の顔色が悪いとダインが言ったとき、ジャヒドはヘルナンドに「妹が失礼なことを」と謝っている。これは何語?)
ヘルナンドは姪のリディアを連れている。本当に姪なのかはわからない。4人はいずれもサバ行きの船を待っているところらしい。何をしにサバに行くのかと問われ、「金儲けに」と言いきっているのがさっぱりしている。


ヘルナンドは民家へ。その前に鏡で自分の顔をじっと見る。もしかしてまさか娘たちをサバに売ることに対する良心の呵責? まさかね。
家に入ったところにメッカのカアバ神殿を描いた絵がかかっており、イスラム教徒の家だとわかる。ヘルナンドは「アッサラーム・アライクム」とイスラム式の挨拶をする。ヘルナンドはタガログ語を話すけれどイスラム教徒なのかと一瞬思うが、「先週甥の洗礼式に出た」というのでキリスト教徒なのだろう。フィリピンではキリスト教徒でもイスラム式の挨拶をするのか。
洗礼で先週来られなかったため、娘たちが心変りしてサバに行きたくないと言う。娘はロシータとノエミ。バシランの出身。パスポートは自分で取ってきた。「あ、そう」というヘルナンドがパスポートを3つ持っていたのは、もし2人がパスポートを持っていなければ自分が入手したパスポートを持たせるつもりだったのだろう。
2人はサバに行くつもりで村から出てきたけれど、1週間待っている間に気が変わっていきたくなくなったという。ヘルナンドはいろいろな理由をつけて2人をサバに行かせようとする。娘をサバに連れていくとかなりの金が手に入るらしい。そのために元手もかかっており、ここで手放したら儲けがなくなるどころか赤字になりかねない。
「サバに行けばサイドビジネスもできるぞ、君は英語の家庭教師をしていたそうじゃないか、サバでも英語を教えたらいい」とか言っている。そりゃあ英語を教えられれば副業の可能性もあるけれど、それは正規の手続きでサバに入国した場合の話。違法入国して英語の家庭教師も何もない。もちろんヘルナンドはそんなことはよくわかっている。
ヘルナンドの説得は続く。田舎に帰ってどうするのか。両親のようにイモとトウモロコシを売る貧しい暮らしに戻るのか。村の男と結婚して、子どもだけはたくさん作って、しかも政府軍と過激派の紛争があって、そんな村に戻りたいのか。そこまで言われると、このまま村に帰ってもなあという気持ちになる。でもロシータとノエミは決意を固くしてサバに行かないことにした。それならかかった費用を返せと言われる。1人に1000ペソ使った。所持金は100ペソで、村に帰るのに50ペソかかる。携帯電話も指輪も取り上げられたけれど、それでも2人はサバに行かなかった。
娘2人を泊めていた家のおばさんが「私だって損する」と言っているのは、おばさんも一役買っているということ。
一方で、ヘルナンドの「姪」リディアは、サバに何度も行き慣れていてサバ行きの船を待っているメルセデスに目を奪われる。金のネックレスやイヤリングをたくさんつけ、ルイヴィトンのバッグを持っているメルセデスは、これみんなサバで買ったの、買っただけでじゃなくもらったものもあるの、という。サバって言ったってセンポルナあたりから上陸して、タワウに行くかサンダカンに行くかだろう、どこにルイヴィトンなんてあるんだよ、もしかしてコタキナバルの1ボルネオで買ったのかよ、しかもそんなのくれる人がいるわけないだろ、なんて思いながら聞いている。でも、そんな私の心の声はリディアには届かない。「サバは美しいところ、楽しいところ」なんて言ってて、それ自体は正しいんだけど、でもここで想像されているような意味での大金持ちになれるという楽園じゃあないんだけどね。メルセデスはビサヤ語を話すけれど、ここにはどうしているのだろうか。何か密輸しているにしては荷物が軽そうだし。


別の「乗客」。偽の宝石を売ったとして村人たちに責められ、警棒を持った2人の男に連れて行かれたおばさん。
同じ頃、ダインは村の子どもたちに「よそ者のバジャウ」と追いまわされる。そのときにダインが「バジャウじゃない、同じイスラム教徒」と言っているのが印象的だ。ダインが追いかけられている脇で2人の少女が歩いている。頭からかぶり物をしていて、いかにも「本当のイスラム教徒はこういうのを指すんだ」と言わんばかり。
ヘルナンドは桟橋から海にコインを投げ、子どもたちに拾わせている。
ようやく船出。船賃は1人2500ペソ。宝石の偽物を売ったと疑いをかけられたおばさんはマレーシアのお金で払っている。いくら払っているか手元がはっきり見えなかったのでわからないが、50リンギ札が数枚と10リンギ札が数枚。2500ペソは現在のレートでタンジュンに換算して180リンギぐらい。かなり高い。
ちなみにこの偽宝石のおばさん、私にはあんまりマレーシア人に見えないんだけれど、もしかしたらマレーシア人という設定かも。でも、タガログ語を煙たがっている場面はあるけれど、言葉の上から特にマレーシア人であることを示すものは見つけられなかった。
そうこうして船が出発する。ちょうどアザーンが聞こえてくる。日が沈むのを待って出発したのか。
あとは、船の上、そしてママヌク島でのエピソード。そしてサバ上陸。
エンディングの歌は勇ましい。「海の神よ/果てしなく続く海よ/母なる国をはなれて/約束の地は彼方に」「勇気を試そうとする/嵐は吹き荒れ/明日に続く我らの進路を変える」「この旅はいつどこで終わるのか/運命をすべて神にゆだねよう」


物語の部分で伝えられているメッセージは「サバは美しいところで働いて成功する機会も大きいところだと言われているけれど、サバに連れて行こうとする人たちはあなたたちを騙して売り飛ばそうとしているのだから気をつけて、騙されないで村に帰って」というようなものになる。サバに上陸した後の話はまったく描かれないのだけれど、それはおくとして、エンディングの歌は「苦しく厳しい旅になったとしても「約束の地」を目指して海を超えていけ」となっている。海を超えていくなと言っているのか、それとも越えて行けと言ってるのか。Q&Aでこれについて質問されたとき、ミンダナオが母の国でサバが約束の地で、だからどんどん海を渡っていこうと言う歌だと答えていた。この部分だけがちぐはぐな印象を与えている。


フィリピン側を描いている部分はとてもリアリティがあるのに、マレーシア領に入ったとたんにマンガっぽくなる。国境警備隊のようなものが24時間体制で国境を見張っていて、密入国しようとしている人を見つけると警告して発砲する。
マレーシアの国境警備は州ではなく連邦の管轄。国境警備がほとんど役に立たないのでなんとかしてくれとサバは30年以上も前からずっと連邦政府に訴えてきた。パンダナン島でマレーシア人が拉致される事件などがあって少しは警備が厳しくなったけれど、でも「海の道」に出てくるような熱心な国境警備なんてないと思う。
入るのが大変というよりも入ってからが大変なんだから、そのあたりも描かれているともっとよかったんじゃないかなと思う。
それにしても、今回の東京国際映画祭ではマレーシアがらみの映画の選択が絶妙で、「海の道」で苦難を乗り越えてマレーシアのサバを目指そう?という話を見た後で、そのマレーシアでは日本に行きたがってしょうがないという「タイガー・ファクトリー」が続いていた。もちろん映画を観て楽しむだけでもとても楽しめるのだけれど、さらに今回であればその土地の移民問題というように関連することがらについての解説が聞ける機会があってもいいなあと思う。


上映後のQ&Aでは、メルセデスが持っていたルイヴィトンのバッグは偽物だと明かされていた。たとえ偽物でも、貧困と差別と戦乱のなかで見れば輝いて見えるし、手に入れられるなら手にいれたくなる。サバも同じこと。決して黄金郷ではないけれど、それでも輝いて見えるから行けるなら行ってみたくなる。そのために支払った金のイヤリングは偽物ではなく本物だった。本物を手放してでも偽物の輝きを手に入れたいと思ってしまう。