「タイガー・ファクトリー」

東京国際映画祭でマレーシア映画「タイガー・ファクトリー」と「インハレーション」を観た。
ウー・ミンジン監督は頭が切れる。前作の「海辺の物語」もそうだけれど、まるで観客にパズルを仕掛けているようだ。いくつかの断片を少しずつ見せていって、観客に何となく物語の全体像を想像させておいて、物語が進むにつれてそれをひっくり返していって最後に全体が別の像を結ぶような仕掛けになっている。ストーリーが進むにつれて、頭の中で物語をどんどん更新・修正していくことになる。
それに加えて、マレーシアの社会事情などの背景説明はとても禁欲的に押さえられており、作り手の意図を観客に伝えないようにしているかのようだ。しかも、「マレーシアはマレー人、華人、インド人」といった教科書に載っているような社会事情ではなく、クアラルンプールや近郊で働くミャンマー人が増えているというこの数年で見られるようになった最新事情を織り込んでいるので、マレーシアに馴染みがある人でも何年かマレーシアから距離を置いていると背景がわかりにくかったりする。
パズルを解く楽しみと別に、もう少し背景情報を提示しておいてもらって、頭を使わずに物語を楽しむという楽しみ方もできるかもしれない。


「タイガー・ファクトリー」では、登場人物どうしが協力しているように見えて裏切ったり、裏切ったように見えて協力したりと、関係がどんどん変わっていくため、展開の先が読めないという緊張感を最後まで与えてくれる。その騙し騙されの登場人物たちをまとめ上げているのが、それぞれの行為につけられた金額だ。お金に換算してしまえば倫理も道徳も抜きにして並べて交換することが可能になる。だから、どこからどこにいくら動いたかを見れば話がわかる仕掛けになっている。
その意味で1つ残念だったのは、台詞では金額を言っていたけれど字幕では金額が書かれていなかったところがあること。もちろん、字幕は台詞を忠実に訳せばいいというものではなく、脚本を創造的に破壊するのが字幕の仕事だろうし、しかも字幕には厳しい文字数の制限があることもわかっているけれど、それでも、例えばカンを警察から釈放するのに1800リンギかかるという情報はこの物語を理解する上で要となる部分なので、そこが字幕で表現されていなかったのはちょっと残念だった。


カンの逮捕と釈放はおおよそ以下のように進んだ。
はじまりは、ピンが死産で代理出産に失敗したというのはウソで、本当は赤ちゃんは生まれて別のところで育てられているという話をカンから聞いたこと。ピンはその話を聞いておばさんのところに怒鳴りこみ、赤ちゃんを産んだ報酬を払うように求める。おばさんは、ピンに情報提供料を払い、その情報を漏らしたのがカンであることを突き止める。
おばさんはカンから金を取り戻そうとする。知り合いの警官にカンを売ることによって。警官は、こいつを捕まえたら仲間が釈放のために何とかするだろうという人を見つけて、何らかの理由をつけて逮捕する。仲間が釈放を求めてくれば、その「手数料」をとればいい。逮捕するための理由となる情報をおばさんから買って、仲間から釈放の手数料をせしめて、その差額が自分の取り分になる。
茶店の裏で警官と商談した場にピンを連れて行ったということは、ピンに対する強姦罪か何かを逮捕の理由にさせたのだろう。はじめおばさんは情報提供料を2500リンギだと言っていた。前回は1500リンギだったのを2500リンギに釣り上げたということは、おばさんはピンに支払う情報提供料を自分の懐を痛めずに出そうとしたのだろう。
警官は1700リンギに値切り、その金額で交渉が成立する。ということは、警官はおばさんに1700リンギ支払い、ピンからの訴えの情報を得て、カンを逮捕するということだ。
ピンはカンの予定がいつ空いているかを聞きだし、その日に一緒に船に乗る。その先に何が待ち受けているか知らないカンは、前回はピンと離れた座席に座っていたけれど、今回はピンの隣に座っている。船が目的地に着くと、ピンはトイレに行くと言って席をはずす。上陸したところでカンが捕まるという手筈になっていて、その場に居合わせないようにするためだ。ピンは、「私のことをあなたの奥さんだと人に思われたい?」と言ってみたカンを売ってしまった。
警官が1700リンギ払ってまでカンを逮捕したのは、もちろん熱烈な愛国心から外国人を逮捕しようとしたためなどではない。カンを逮捕し、釈放してほしければ金を払えとカンの家族や仲間たちに金を出させるためだ。タン・チュイムイ監督の『愛は一切に勝つ』でも捕まった男を釈放するために金が必要だという話が出てくるが、それと仕組みは同じ。
カンの友達がピンを見つけて詰め寄り、「カンをいくらで売った、カンを警察から釈放するのに1800リンギかかるんだ」と怒っている。日本語字幕に書かれていなかったのはこの金額。ミャンマー人を逮捕して釈放するというビジネスで警官の取り分が100リンギになるということは日本語字幕を見ているだけではわからない。
1800リンギはかなりの大金で、カンの仲間たちは工面に苦労している様子だ。そうすると逮捕した警官も困る。もし期限内に釈放手続きを取らなければ、カンは正規の手続きを踏んで起訴されるか不起訴になるかのどちらかになる。どちらにしたところで警官には金は一銭も入らず、情報提供料として支払った1700リンギは回収できなくなる。
そこで、この警官はカンの仲間のミャンマー人を訪ね、営業許可証がないのに商売をしているだろうと言って、見逃してやるから2500リンギ払えと脅す。払わなければ営業停止になるか逮捕されるかのどちらかで、どちらにしても金がかかる。このミャンマー人からすればとんだとばっちりだが、警官に目をつけられたら避ける道はない。
この手の嫌がらせを避けるためには、法律がある限りはそれを守り、法律違反だと相手に言わせる口実を相手に与えないようにする一方で、法律を守っていても権利を侵害しようとする警官や役人たちがいた場合には、法廷闘争も辞さずの構えで毅然として立ち向かうしかない。舐められたら舐められたままにはしない、でもどんなに腹を立てても違法行為はしない、ということだ。これをマレーシア華人たちはこれまで何十年も積み重ねてきた。そのため、マレー人と華人の間では、悪法でも決まりは決まりで、それに従っている限りは権利を犯されないという合意がなんとか成り立っている。はじめは移民だった華人も、先人たちの苦労の積み重ねの結果として、市民権を取り、国籍を取り、これによってこの国から追放されないような立場を手に入れ、そして政党を作って国会と政府に代表を送り込み、法律を決める場に自分たちの声を反映させるところまできた。それに比べると、ミャンマー人や他の外国人ははるかに後れを取っている。その土地に暮らし、働いて稼ぎを得ることが権利として守られているのではなく、そこにもとから住んでいる人の温情によって許されているにすぎない。だから、その温情がいつ取り消されるかもわからない。警官や役人の気まぐれによる不当な要求を呑まざるを得ないのはそのためだ。


外国人の逮捕と釈放で警官が手に入れられるのはたかだか100リンギだ。でも、それを稼ぐには元手が1700リンギ必要だ。自由に動かせる現金をたくさん持っていないと、目の前にビジネスチャンスがあっても手にすることができない。服装や持ち物や乗り物などの見かけは同じだったとしても、潜在的な実力は同じとは限らない。背後に自由に動かせる現金のような支えがあるかどうかで、いざというときの活動範囲が違ってくる。
ピンもメイも日本に行くために金を貯めていた。ピンは担保になるものがないため、自分の手一つで金を稼がなければならなかった。メイは、両親はいてもメイが養わなければならないほど貧しいために担保にはならない。でも、ボーイフレンドのセンが渡航費用の7000リンギを貸してくれた。スポンサーになってくれるボーイフレンドを見つけるのも実力のうちだ。だから家庭に蓄えがなくてもメイは跳ぶことができた。もちろん、跳んだ後の成功が保証されているわけではない。