ヤスミン追悼上映会のナムロン特集

ヤスミン・アフマド監督追悼の上映会を今年も開くことになった。諸事情で平日の開催になってしまったため、参加できる人が限られてしまうことと、今年のテーマと密接に関係しているナムロンの都合があわずに来ていただけなかったのが残念。
http://www.cias.kyoto-u.ac.jp/~yama/film/event.html#namron2012


今年で3回目になるヤスミン追悼の上映会は、ヤスミンが残したものがどのように受け継がれ、どのように形を変えて広がっているのかを映画を通じて考えてみたいというのが全体のテーマ。ヤスミン作品に登場した人たちで自身でも映画製作している人に焦点を当てて、去年はシャリファ・アマニをお招きした。今年の焦点はナムロン。『グブラ』のビラル(礼拝所の管理人)役でファンを集め、日本で公開された作品ではタン・チュイムイの『夏のない年』にも登場した。
今回はナムロンの『喧嘩』と『父さん、なぜバナナの木を伐らないの』の2つの短編を観ることにした。どちらも共通の素材が使われているのだけれど、実はそれが『グブラ』のビラルが出てくるストーリーと重なるところが多い。いくつかの設定もそうだし、セリフもそう。『グブラ』を作るときにはナムロンのアドバイスも入っていたそうだけれど、小さな部分ではなくて大きな部分でナムロンの考え方が反映されていたのかもしれない。ということで、『グブラ』をより理解するにはぜひ『喧嘩』と『父さん・・・』を観るのがよいだろうなと思う。
ナムロンは演劇の人。『喧嘩』では、ある学校で生徒どうしの喧嘩を解決するために演劇部を作り、その顧問としてナムロンを招くところから始まる。ナムロンの型破りなスタイルに校長や他の教員たちが批判的な状態で、物語の最後に演劇部が何とか舞台に立つところまでこぎつける。その劇中劇の始まりに舞台に立って向上を述べるナムロンを見ていると、『タレンタイム』の物語の最後にアディバ先生が舞台に立ってタレンタイムの始まりを告げた場面と重なって見えてくる。『タレンタイム』とはずいぶんテイストが違うけれど、『喧嘩』はナムロン版の「タレンタイム」と言えるかもしれない。
『喧嘩』ではマレー人生徒と華人生徒が対立しあって喧嘩するのだけれど、その間に挟まれていじめられているインド人(ひ弱な役なんだけれどカラダはしっかりしてる)もいたりする。学校内のいじめへのマレーシア流の対応を考えることものできるかも。


『グブラ』の字幕はマレーシア映画文化研究会のメンバーの協力でうまく形になった。映画のプロとしては、セリフ1秒に4文字までとか、絵を見てわかるものにはなるべく字幕を入れないようにするとか、多少意訳や省略をしても意味が通るようにするとか、そういった縛りがあるのだろうけれど、まあ研究目的ということで、そういった縛りにはあまり厳しくとらわれないことにした。
そのかわりに気にしたことがいくつかある。例えば、相手への呼びかけの言葉をなるべく入れること。名前で呼ぶのか別の言い方をするのか、同じ人に呼び掛けていても状況が変わると呼びかけ方が違ってくることもある。もう1つは、「約束」という言葉は省略したり別の言葉に置き換えたりしないこと。「約束」は『グブラ』のテーマの1つなので、誰がどの場面で「約束」と言っているかがわかるようにした。
それから、一般には「がやがや」とか「ざわざわ」とか聞こえていればいいセリフについても、聞き取れる範囲で字幕にしてみた。そのため、字幕がけっこう顔を出して自己主張している面があるのだけれど、これもまあ研究目的ということで理解していただき、映画祭用に作られた日本語字幕とあわせて楽しんでいただければと思う。