ジョグジャカルタの防災情報拠点

防災情報拠点

ジャカルタに戻ってきたけれど、書き残したジョグジャカルタの話をもう少し。
東南アジア学会の支援活動の話は前に書いたけれど、それとは別の東南アジア研究者がバントゥル県に防災情報拠点を作っているというので訪問した。この防災情報拠点に基本的に常駐しているという浜元さんに話をうかがった。
京都大学-トピックス 2007年7月25日 尾池総長がインドネシアのジョグジャカルタ近郊での京都大学の支援と村の状況を視察し、記念の植樹をしました


村の中に村人たちが小屋を建てて、そこに防災に関する情報を集めている。付近の地図を掛けたり関連図書を置いて図書室を作ったりしていて、それだけ見れば地図や本があるのが「情報拠点」ということになるけれど、この計画が考えている「情報拠点」とはもっと幅広いものだ。
防災情報拠点を作る過程ではジョグジャカルタ在住の日本人コミュニティからさまざまな形の支援を受け、防災情報拠点ができた後では、ドラえもんの着ぐるみを使った防災教育で知られる京大の学生サークルKIDSがこの村で出張実演したり、京都の修学院小学校が寄贈した絵本をガジャマダ大学の日本語学科の学生や卒業生たちがインドネシア語に翻訳したりと、浜元さんが媒介役になってジャワと日本を縦横に繋いでさまざまな活動を進めてきている。
防災教育 in インドネシア報告書2007 - 京都大学防災教育の会(KIDS) - アットウィキ


以下、浜元さんの話を私なりに理解したこと。
災害対応では被災者のニーズを把握することが重要だけれど、よくある誤解は被災者からきちんと聞き取りすればニーズが適切に把握できるという考え方。つまり、被災者の頭の中にもともと明確なニーズがあるはずで、あとはそれをどうやって言語化して引き出すかという技術の問題ということになる。
でも実際には、被災者たちは、「何が必要ですか」と尋ねる支援者たちの「顔」(身なりや所属団体や出身国などの情報)を見て、この連中ならこの程度のものをくれそうだと考えてニーズを答えているに過ぎない。したがって、「何が必要ですか」式のニーズ調査で出てくるのは支援者の顔色を読んだ答えということになる。米とか油とか現金とかいう答えしか出てこないのは、それならくれるかもしれないけれどそれをくれる程度にしか期待していないという暗黙のメッセージだから。でも、被災者がそう言ったのだから、米や油を届けていればまわりから批判を受けずに済む。こういう支援が繰り返されてきた。
そういう支援ではなくて、支援者側が明確な方針をもって、その方向を被災者に示しながら被災者とのあいだでニーズを作り上げていく方法がある。もちろん、うまくやらないと、支援者が自分たちの論理を押し付けていることにしかならない。だから匙加減がとても重要なので、どの支援者に対してもそうあるべきとは言いにくい。また、支援する側にも、下手に相手側に踏み込んで決定的な失敗だと批判されるよりは、多少批判があろうとも被災者が言うものを素直にかなえておけば表面上は感謝されるし実績も増えるという考え方が出てきても不思議なことではない。
ではどうすればいいのか。研究者の見解はおおむね一致していて、「中長期的に住み込んで対象社会の文化を十分に理解して、そのうえで住民参加型の計画を育て上げること」という感じになる。それは確かにその通り。ただし、それは中長期的に関わる開発計画などの場合。災害対応は緊急に対応する話なので、支援者には「中長期的に・・・」という言葉を聞く時間的余裕すらないこともある。
こういう問題への取り組みとして、災害後に被災者がどのような情報を求め、あるいはどのような情報を発信しているのかを、自分が参加しながら中長期的に観察するというのが「防災情報拠点」ということになる。
災害の形は災害ごとに違うのだけれど、災害対応にはある程度の共通性もある。まずその共通性を知らないことには災害ごとの個性もわかってこない。人文社会科学の分野ではこれまでこの方面での蓄積がほとんどなかった。その意味で、外部社会出身の研究者が常駐する防災情報拠点を村の中に作ったのはとても珍しい試みだと思う。
浜元さん自身は、自分が支援者なのか調査者なのか、あるいは村人なのかと複数のアイデンティティのなかで揺れ動いており、ときどき自分の立ち位置がわからなくなるらしいけれど、外から見ている気楽さで言ってしまえば、どれか1つに決めないでいろいろな顔を持っているところがこの村での彼女の役まわりなのだろうと思う。
これから先の方向性は具体的に決まっているわけではなく、村人たちと相談して決めていくそうだ。これは、この計画にかかわっている人たちが良い意味で「流されていく」ことに身を委ねているからなんだろう。


案内してくれた浜元聡子さんは、もともとスラウェシの女性労働者の研究で京都大学の博士号をとった若手研究者。2006年のジャワ震災を契機にジャワでも調査を行うようになり、ジャワに住んで1年半でジャワ語を操るまでになった。ジャワ震災では職場の支援策に「巻き込まれた」ようなところもあるようだけれど、巻き込まれて流されながらも、いろいろな人を巻き込んで繋いでいくことで、自力で流れを変えていこうとしている人だ。
最近ではさらに研究対象を広げて、インドネシアから日本に派遣される看護士・介護士の実態について調査しているらしい。日本に派遣される前にインドネシア国内で日本語や日本事情に関してどのような事前知識を得ているかなど、ジャワの防災情報拠点の仕事のあいまを縫ってインドネシア各地で大学や病院をまわって調査している。インドネシアからの看護士・介護士の受け入れは日本にとって重要な問題で、実際に受け入れが始まったら受け入れ側にどのような準備や心構えが必要かといったことも考えなければならないのだけれど、スラウェシとジャワの2つの地域を拠点に研究を行っている浜元さんのような人がいれば心強い。