インドネシアの「細い目」

華人・陰暦正月がらみで最近手に入れた雑誌を2つ紹介。


『Pusaka Keris』は東南アジアの島嶼部で伝統的に使われている短剣クリスの専門誌。何月号か表示がないけれど、店頭に並んでいたのは2月頃で、第10号となっている。創刊して1年足らずのようだ。
雑誌のスローガンに「Khazanah Budaya Nusantara」とあるので、ヌサンタラ(島嶼部東南アジア)の在地文化ということでクリスを扱っている雑誌と考えていいだろう。そうだとすると、華人文化とは対極にあるような印象を持っていた。
ところがところが、第10号は「陰暦特別号」で、特集は「クリスに見る中華」。どの記事も、いちおうクリスに関連付けてはいるけれど、でもどれもこれも中華と華人。表紙まで赤い。
有名どころの鄭和の話のほか、柄に獅子が掘り込まれているクリスだとか、ワリソンゴの目は細かったとか、「クリスと中華」で思いつく限りの記事を何でも並べてみたという印象を与えるほど。


陰暦正月にジャカルタのモールの従業員が中国服を着たりするのは商業主義だからわかるとして、クリスは東南アジアの在地文化で、それが中華との関わりとか言っているなんてどこまで節操がないのかと驚く。
でも、この雑誌に出ている広告をよく見ると、クリスに混じって観音像や仏像もあったりする。誌面で紹介されているクリス蒐集家たちも、顔つきからして中華系のような人がけっこういるようだ。
もしかして華人が深く絡んでいる雑誌だろうか。そうだとすると、華人などの移民系住民に対抗するために在地文化のクリスを持ち出してきたというわけではなくて、実は華人が骨董品趣味の一分野としてクリスを扱っているということなのかもしれない。
インドネシア語による初期の新聞や文学も華人が担っていたというし、そう考えると、華人インドネシア社会への入り込み方はかなり奥が深いし、逆に華人をうまく取り込んでいるインドネシア社会も実に奥が深いと改めて思った。


もう1つの雑誌は『MataAir』。スローガンは「Jernih berbagi rahmat」ということで、これは明らかにムスリム雑誌。
2008年2月発行の第9号は、インドネシア華人ムスリムが特集。目玉記事は「華人イスラム説教師」。でも表紙はなぜか日本語が書かれている提灯。


華人イスラム説教師」の記事見出しに「細い目のイスラム説教師」とあった。上で紹介した『Pusaka Keris』も、ジャワに中国の影響があったという記事で、ジャワのワリソンゴ(九聖人)の目が細かったとか細くなかったとか書いている。「細い目」というのは華人の隠喩として誰もが知っている言い方ということか。
しばらく前に話題を集めたマレーシアの映画『細い目』では、「細い目」(sepet)は華人を揶揄する言い方だった。「細い目のイスラム説教師」という記事見出しをみると、インドネシアでは「細い目」(sipit)とは特に華人を揶揄する意図なく使われているということだろうか。


話はそれるけれど、『MataAir』の投稿欄で、『MataAir』はアラビア語の単語のローマ字表記が間違っているという投稿があった。クルアーンコーラン)はal-Quranではなくal-Qur’anとすべき、などというもの。これに対する編集部の回答がいい。私たちはアラビア語起源の語を「インドネシア化」したいと考えてそのようにした、とのこと。これがブログなら迷わず拍手を送るところ。
日本でも、しばらく前まで「イスラム教」と言っていたのを「イスラーム」と言うようになってきた。アラビア語の原語に忠実に発音するということで「イスラム」を「イスラーム」にして、しかもイスラム教はそれ自体が教えであるとか、イスラム教では宗教とそれ以外を分けられないのでキリスト教や仏教などとは違って「〜教」とするのは適切ではないとかいう理由で「教」をとり、「イスラーム」とするらしい。「イスラム教」と書くと「イスラームですね」と直されることがしばしばある。
信者の方々がそう主張するのはよくわかるし、その意見は尊重すべきだろうと思う。でも分析の概念としてどうするかは別の問題ではないかとも思う。それに、アラビア語でアラブの民に啓示が下されたにしても、今ではアラブ人以外にもイスラム教徒はたくさんいる。世界に10億人いると言われるイスラム教徒のうち、言語別に分けると一番多いのはマレー・インドネシア語の約2億人という話もある。
中東やアラブ世界のことを語るときに「イスラーム」とすることに反対するつもりはまったくないし、東南アジアについても「イスラーム」とすべきだと考える人がいればそれはその人の考えだと思うけれど、私は少なくともマレーシアやインドネシアについて語るときは「イスラーム」ではなく「イスラム教」を使うように心がけている。
第一に、マレー・インドネシア語に長母音はない。だから、イスラムイスラームの区別はつかない。日本人がカタカナを当てるときにどうするかの問題。イスラムにすべきともイスラームにすべきともならないはず。
第二に、マレーシアやインドネシアでは、(たとえイスラム教にやや特別の地位を与えているにしても)イスラム教はキリスト教や仏教などいくつかある宗教の1つとして捉えられている。地方ごとのイスラム教関連局である「Majlis Agama Islam ***」(***は地名)にAgama(宗教)という言葉が入っているのもそのことの表われ。
イスラム教をキリスト教や仏教やヒンドゥ教などと同じ立場である宗教の1つとして位置づけようとしてきたマレーシアやインドネシアの経験を尊重するためにも、東南アジアについて書くときには「イスラム教」と書くように心がけている。
他の人が「イスラーム」と書くことに反対はまったくない。一冊の本のなかで統一をはかるために「イスラーム」に揃えさえてくださいと編集者から言われたりすると、場合によっては受け入れることもある。でも、イスラームイスラム教は多様なんだから、一冊の本の中で表記が複数あってもいいっていう考えがあってもいいんじゃないかなと思う。