「霧−Sanctuary」――救済としての老人ホーム

マレーシア映画「霧−Sanctuary」は、いろいろな説明が映画の中で明確に語られず、どことなく掴みどころがない。どこか1つに焦点を当てて捉えようとすると全体が崩れてしまう感じがする。全体の印象を大づかみにすれば、マレー人夫婦の老後を描いた「ラブン」の華人版に対応するものと言えるだろうか。あるいは、この映画のシンガポール版(または金持ち華人版)が「シンガポール・ドリーミング」(美満人生/Singapore Dreaming)だと言えるかもしれない。
まずはあらすじ。

ライとシーの若い2人。ライは定職につかず、ビリヤード場で賭けをして過ごしている。シーはコピー屋に勤め、来る日も来る日もコピーをして変化のない日々を過ごしている。(ビリヤード場もコピー屋もマレーシアの地方都市でよく見かけるものだ。)
この2人は姉と弟のようでもあり、恋人どうしのようでもある。たぶん後者なのだろうがはっきりしない。ライは母親を亡くしており、ライの父親は最近飛び降り自殺した。ライは父親が生前に仕立屋に注文していたスーツを受け取り、父親が飛び降り自殺したホテルの部屋に泊まってみる。シーはライに定職に就くように求め、ライは実際に働き出すが、仕事との相性が悪く、ライはいくつかの仕事を転々とする。
これと並行して老人ホームの話が進む。シーは老人ホームにおじいさんを訪ね、家で自分たちと一緒に暮らそうと言うが、おじいさんはパートナーであるゴーの世話をしなければならないからと孫の頼みを断る。ゴーは寝たきりで余命がほとんどないおばあさん。この老人ホームはキリスト教系の施設で、初老の牧師が常駐している。ゴーが天に召されると教会で葬儀が行われた。

この映画の主題を1つ挙げるとすると、物欲、特に家がほしいという思いではないか。一戸建てがほしくても経済的な余裕がなければ集合住宅しか手に入らない。そして、一戸建てのかわりに集合住宅で我慢するのは生きているあいだだけではない。
この「物欲の世界」から抜け出そうとしたライのお父さんが飛び降り自殺したのはホテルの部屋の窓からだった。ホテルの部屋も、集合住宅のように同じ部屋がいくつも並び、部屋番号だけで区別される味気ない場所として描かれている。人生の最後の瞬間まで集合住宅から逃れられなかった。
さらに、死んだ後も一戸建てか集合住宅かの違いは続く。華人の墓地は1つ1つが家のように大きな敷地を持ち、そこに夫婦で入る作りになっているが、それが買えない場合、墓地の一角にある共同の礼拝場所に、まるで集合住宅のように骨壷が並べられる。ライの両親には墓石はなく、骨壷が集合住宅のように並べられているだけのところに安置されている。一戸建てか集合住宅かという選択は死後も続くのだ。
他方、老人ホームでの生活は味気ないように思われ、シーは一緒に暮らそうとおじいさんに声をかけるが、おじいさんは老人ホームから出ようとしない。パートナーのゴーの世話をするためというが、ゴーが亡くなった後もシーの家に行こうとはしないのではないか。
老人ホームで、シーのおじいさんは毎日犬の散歩をして楽しそうに過ごしている。別のおじいさんは、骨と皮だけの体になっても新聞を読んで自分なりに暮らしている。おばあさんたちはおしゃべりをして、おじいさんたちは夜遅くまでテレビで映画を見て、それぞれ日々を過ごしている。外から見ると味気ない生活に見えても、当人たちはそれなりに楽しく意義のある生活を送っている。それに、老人ホームの外にそれよりすばらしい暮らしがあるわけでもない。(ライとシーの2人はどうなったのか。これもまた明確には描かれないが、ラストでは、若い2人に暗い結末が待っているようにも見える。)
一戸建てを買う経済的余裕がない華人家庭では、集合住宅からなかなか逃れられない。現世だけでなく、死後の世界でも同じように集合住宅に入ることになる。まるで輪廻だ。そして、その呪縛から解脱した人たちが集まる場所として、この映画の中ではキリスト教系の老人ホームが描かれている。輪廻からの解脱という仏教的な発想を支えているのがキリスト教の施設というのが興味深い。
そういえば「霧−Sanctuary」は韓国の釜山国際映画祭でSpecial Mentionを受賞したというが、キリスト教系の老人ホームがうまく運営されている様子が好評だったということなのかもしれない。


少し気になるところ。
まずは登場人物の関係に関連することがら。ライの両親は華人墓地に埋葬されており、ライとシーは華人風に線香をあげていた。他方、シーのおじいさんのパートナーであるゴーはキリスト教の教会で埋葬された。では、ライのお父さんとシーのおじいさんはどういう関係なのか。
これは、ライとシーの関係にもかかわっている。シーが病院に行くシーンではシーがライのことを「弟」と言っているが、その後のシーンを見ると実際にはきょうだいではないような気もする。もしきょうだいなら、ライのお父さんとシーのおじいさんが実の親子である可能性がある。そうだとすると、その2人の間では死者の弔い方が華人式とキリスト教式と異なることになり、そのためトラブルが生じる可能性がある。(もっとも、「霧−Sanctuary」ではこの点について明示も暗示もされていない。)
もう1つはタイトル。華語では「霧」、英語では「Sanctuary」だが、この2つがうまくつながらない。
Sanctuaryのほうはわからないでもない。キリスト教系の老人ホームが「聖なる場所」でもあり、「安らぎの場所」でもあるということなのだろう。
それでは霧は? 老人ホームの外では人生の先行きに霧がかかっている状態ということか? となると、ライとシーの人生が霧、おじいさんたちの居場所がsanctuaryということになる。この2つを並べておいて、中国式の葬儀をするほう(ライとシー)に共感して観る人たちには漢字のタイトル「霧」が目に入ってくるし、キリスト教の葬儀をするおじいさんたちのほうを観る人たちには英語のタイトル「sanctuary」が示されるということかとも考えたけれど、そういうわけでもないような気もする。老人ホームではキリスト教系といっても華語を使っていたため、必ずしも英語と華語という分け方ができるわけではない。

 
[追記] マレーシアの高齢化社会について

マレーシアでは60歳以上が「高齢者」とされている。2000年の時点で高齢者の割合は人口2300万人中約149万人(6.1%)で、2020年には325万人(9.8%)になると予測されている。(なお、マレーシア人の平均寿命は、2001年の時点で男性が70.1歳、女性が74.5歳。)
マレーシアが「高齢化社会」になるのは2010年のこと。マレーシアで「高齢化社会」とは60歳以上人口が7%を超えた社会のことで、2010年には60歳以上人口が7.3%になると予測されている。なお、国連の定義では65歳以上人口が7%を超えると「高齢化社会」となるが、マレーシアでは2010年に65歳以上人口が7.0%になると予測されているので、国連の定義でも2010年には「高齢化社会」入りすることになる。

続いて民族別の老後の暮らし方について。
まずは20年前の調査から。1986年にASEANが半島部マレーシアの3つの州で都市部と農村部に住む55歳以上の1254人を対象に調査を行ったところ、マレー人とそれ以外で居住形態に大きな違いがあることがわかった。華人では「単身で居住」が2.7%、「配偶者と居住」が5.3%で、これをあわせれば単身あるいは夫婦のみで暮らしているのは8.0%となる。インド人では「単身で居住」が2.8%、「配偶者と居住」が4.7%で、こちらもあわせて8%弱となっている。これに対し、マレー人では「単身で居住」が7.8%、「配偶者と居住」が13.5%で、単身あるいは夫婦のみで暮らしているのが20%を占めている。かわりに華人とインド人で多いのが「配偶者以外の家族と居住」で、マレー人が26.3%であるのに対し、華人が32.4%、インド人が31.6%となっている。
この調査から10年後の1997年、マラヤ大学が半島部マレーシアの3つの州の都市部と農村部に住む50歳以上の802人を対象に調査したところ、「単身あるいは夫婦のみ」が華人では9.2%、インド人では5.5%だったのに対し、マレー人では29.9%だった。華人とインド人で多いのは「配偶者および子どもと居住」と「子どもおよび非家族と居住」だった。
 
マレーシア政府は1995年に高齢者のための国家政策を制定し、高齢者を対象とした教育、雇用、余暇、交通、住宅、家族への支援、健康、社会保障などの各分野で取り組みを進めてきた。その一環として無料の老人福祉施設も国内に何箇所か設立されているが、入所の条件が非常に厳しいため、このような施設を必要としている高齢者の多くは民間の保護施設を利用することになる。民間の保護施設はすべて寄付金で運営されているため、基本的なサービスの提供にとどまっている。
このほか、介護を要する高齢者を対象としたデイケアセンターを増やすために1999年にマラヤ大学に高齢者デイケアセンターが設置された。また、元気な高齢者の活動の場を提供するためのデイサービスセンターや老人クラブも増加しつつある。

(この記事は「malam−マレーシア映画」の2007年7月16日付けの記事からこの場に引っ越したものです。)