「レイン・ドッグ」――現実から積み上げる「もう1つのマレーシア」

ホー・ユーハン監督の「レイン・ドッグ」(太陽雨/Rain Dogs)は、美しい風景と音楽のなかに身が包まれるだけでも観て得した気分になるのだけれど、ここでは映画の内容の紹介をかねて思ったことを少々。
ホー監督は、ヤスミン監督と志を共有する(けれどもそれぞれが置かれた立場の違いから方法は異なる)同志だ、と思う。マレーシアは多民族の共生のためにいろいろと知恵を働かせてきて、それなりにうまくやってきた社会だと思うけれど、その一方で、民族という区切りを明確にして日常生活上のさまざまなことがらを民族別に行ってきたことから、民族という枠組が人々の自由度を縛っているという側面もある。そのマイナスの部分を強調すれば、民族別に「あるべき姿」が決まっていて、それと違う生き方を選ぶと逸脱者の烙印を押されかねないのがマレーシア社会だということになる。
ヤスミン監督もホー監督も、このようなマレーシア社会のあり方に批判的で、それとは違うマレーシア像を描こうとしている。(批判的なのはこの2人に限ったわけではないのだけれど、ここでは対比のためにわかりやすいのでこの2人を挙げている。)ヤスミン監督は、理想的な「現実にないマレーシア」を美しく描くことで、今のマレーシアと違うマレーシアがありうることを訴えようとしている。これに対してホー監督は、今のマレーシア社会の主流が目を向けようとしないけれど現実に存在しているマレーシア社会の断片を描いて、それを1つ1つ積み重ねていくことで、現在の主流派がよしとするマレーシアとは違うマレーシアがありうることを訴えようとしている。そういう方法上の違いが2人にはあるように思う。


「レイン・ドッグ」は、マレーシアの地方都市で生まれ育った華人*1少年の成長物語だ。その意味で、「グッバイ・ボーイズ」の少年たちのその後のありうる物語の1つでもある。
地方都市で生まれ育った19歳のア・トゥン(阿冬)が、カレッジの入学試験(?)の結果が出るまでのあいだに経験した物語。前半では、ずっと前に家を出て連絡が途絶えていた兄のア・ホン(阿康)を首都クアラルンプールに尋ねて、兄を通じて都会の暮らしを垣間見る。トゥンはいったん家に戻るが、母親にたかる男チャッスッ(七叔)に嫌気がさし、地方の漁村に住むおじア・グー(阿牯)のもとに逃げ出す。そこで村で出会ったチュイに淡い恋愛感情を抱く。カレッジから成績が知らされ、漁村とそこで出会った人々に別れを告げて家に戻る。それまでにいろいろな喪失を経験したトゥンが大人に成長していった、という物語だ。
前半ではクアラルンプール、後半では地方の漁村に住む華人の暮らしの一端をのぞくことができる。
前半では、ずいぶん前に家を出てクアラルンプールで暮らし始めた兄ホンを通して華人が描かれる。ホンの夢は自分の家を買うことだが、決して拝金主義の個人主義者として描かれてはいない。一戸建てには手が届かないので集合住宅を買う準備をしているのだけれど、そこに田舎から母親を呼んで一緒に暮らすつもりだし、トゥンが家に帰るときには1000リンギというけっこうな大金を言付けている。
ホンはクアラルンプールで勤め人としての仕事はやめてしまったが、それは彼が怠惰だからではなく、正義感に溢れる人物で、上司の不当な態度に反発してそこにいられなくなったためだ。ただし、その結果としてホンは非合法の仕事に就かざるを得なくなる。それにはいろいろな危険が伴うし、最終的には命を落としてしまう。ただし、繰り返しになるけれど、彼が(そしてマレーシアの多くの華人が)非合法の商売に手を出したりしているのは、決して彼らが法や秩序を無視して暮らしているためではなく、家族思いで正義感の強い普通の人であって、今の社会の中でのめぐりあわせのためにやむを得ずそういった形で暮らしていかざるを得ないという人もいるのだということは強調しておくべきだろう。


後半では、トゥンの母親の兄グーを通して漁村の華人が描かれる。ただし、漁村といってもグーは毎日漁で生計を立てているわけではない。「国境地帯で治安情勢が悪くなったので交易がうまく進められなくなった、だからしばらく漁でもするか」と言っているところから、交易(物流)が主な仕事らしい。
話は少しそれるが、この「国境地帯」とはどこのことか。舞台となった漁村がどこかは映画の中で明確には語られていないけれど、半島部マレーシアの西海岸の北の方であることは確かだ。だとするとすぐに思い浮かぶのはタイとの国境だ。確かに、タイ南部のムスリム地域はこの数年爆弾事件などで治安が悪化している。ただし、タイ南部でも西海岸ではそれほど治安が悪化してはいないといったことを考えれば、ここで「国境」というのはタイとの国境に限らなくても通じる話だろう。マラッカ海峡をはさんだ対岸のスマトラとの交易もあわせて「国境地帯」だと考えることもできる*2
スマトラ島の北端にはアチェがあり、1998年以降は紛争が激化し、2003年からは軍事戒厳令が敷かれ、事実上の内戦状態になっていた。2004年12月のスマトラ沖地震津波を契機に和平合意が結ばれたが、それまではアチェを出入りする人やモノ、さらには情報まで厳しく統制されていた。アチェで反政府勢力が使った武器の一部はタイから密輸されたものだったそうだが、グーが銃を隠し持っていたことからも、グーが交易していた品物には銃などの非合法なものも含まれており、それはタイからマレーシアなどを経由してアチェに渡っていたという話の中にこの映画を置いてみることもできるだろう。
話はさらにそれるが、数年前にペナン島を訪れたとき、海岸の水上集落に住んでいる華人「漁民」の話を聞く機会があった。あまり詳しくは説明してくれなかったけれど、主な仕事はマラッカ海峡をはさんだ合法・非合法の交易だと言っていた。アチェで紛争が激しくなって通常のルートでの物流が難しくなると、非合法の交易の儲けが大きくなると言う。マラッカ海峡にはマレーシアやインドネシアの警察が密輸取り締まりのための船を出しているが、よほどのことがない限り厳しく取り締まろうとはしないし、むしろインドネシアの警察は彼らを助けているようなもので、海上で自分たちの船からガソリンを抜いて売ってくれたりもしたという。翌朝帰って船のガソリンが減っていれば一晩中走りまわって捜査していたことになるし、しかも売ったガソリン代は自分たちの懐に入る。密輸する側も、マレーシア国内で正規に買うよりも安い値段でガソリンを買うことができる。そんな話を思い出した。


都会と地方都市、そして漁村と、いくつかの地点を移動していく物語だが、舞台の切り替えには長距離バスや電車、オートバイなどの乗り物が使われている。マレーシアはそれほど広くないので、後半の舞台となった漁村も、車で飛ばせばおそらく3、4時間あればクアラルンプールに着くほどの距離にあるのだろう。ただし、それは車などの移動手段がある場合のことだ。移動手段がなければ、地図上では近くにあっても別の「世界」でしかない。
漁村でチュイたち姉妹は自転車を2人乗りしていた。ほかのマレーシア映画でもそうだが、自転車はもっぱら村の中での移動手段だ。つまり、この姉妹はこの漁村から出て行く手段を持っていない存在だ。
このことに表れているように、マレーシア社会は利用できる乗り物の「格」によって人間関係の序列が決められてしまうということでもある。チュイたち姉妹が自転車に乗っていたのに対し、それを追いかけまわす村の男が乗っていたのはオートバイだった。自転車はオートバイと競争しても勝ち目がない。そこに人間関係の序列が象徴されている。また、だからこそ、陸上の乗り物とは違う船を使うグーおじさんは、村の人間関係の序列から外に出た存在でいることができるのだろう。
乗り物ついでに言えば、亡くなった兄ホンのオートバイをトゥンがもらったということは、実家から自力で外に出る移動手段を兄からもらったということだ。それなのに、母親のもとに出入りするチャッスッにオートバイを取られてしまった。移動手段を失ったトゥンは都会に出ることもできず、漁村に行くことになる。


漁村のグーの家では、グーの妻役を演じているのがなんと「細い目」や「グブラ」などのヤスミン・アフマド監督だった。名前もヤスミンから取ってそのまま「ミン」。ヤスミン監督が映画の中であーんな格好やこーんな格好をしているのにはとてもびっくりだったが、ヤスミン監督が広東語をうまく操っていたことにもさすがだと思った。
「細い目」のときにも書いたが、マレーシアでは(実際にはまったくいないわけではないけれど)民族の違いを超えた結婚はとても珍しい。民族の純粋性を重んじる立場の人々からは、異民族間の結婚は「あってもないもの」「見えても見えないもの」として扱われる。ホー監督は、そのような、主流ではないけれど実際に存在するマレーシア社会の断片を1つ1つ積み重ねて描くことで、「もうひとつのマレーシア」が実現可能であることを訴えようとしているように思う。その作品のなかで民族間の結婚という重要な役割を演じているのが、ほかでもない、やはり映画を通じて「もうひとつのマレーシア」の可能性を訴えようとしているヤスミン監督であることに、この2人の監督の秘めた決意が感じられる。それと同時に、(ヤスミン監督の「ラブン」に出演したホー監督と同じように)ヤスミン監督が実に自然に楽しそうに演じているのを見ると、楽しそうだという思いとともに、2人の映画にかける決意の強さがかえって感じられ、思わず背筋を伸ばしてしまう。


タイトルは、華語で「太陽雨」、英語で「Rain Dogs」となっている。「太陽雨」とは中国語で天気雨のこと。「Rain Dogs」については、ホー監督が「負け犬」とか「ずぶ濡れの犬」というイメージで語っている(http://homepage.mac.com/xiaogang/films/talk/2006/061026tiff2.html)。でも、タイトルを「負け犬」とすると望みがないようでちょっと違う気がして、ここでは英語の題をそのままカタカナにした。(Dogsは複数形だけれど、トム・ウェイツRain Dogsも日本語では「レイン・ドッグ」なので、ここでも「レイン・ドッグ」としておいた。)
(この記事は「malam−マレーシア映画」の2007年7月31日付けの記事からこの場に引っ越したものです。)


[追記]いつのまにか「レイン・ドッグ」の日本語字幕入りのDVDが日本で売られていた。マレーシア映画が日本で商業的に売り出された最初の例かもしれない。ただし、店によってはマレーシア映画というより中国映画の周縁部扱いしているところも多い。

*1:映画の中では明確に語られなかったが、設定上はインド系と華人の混血者だそうだ。ア・トゥンとア・ホンの父親がインド人で、漁村のおじさんは母方のおじ。インド人と華人の混血者であることの意味は改めて考えてみたい。

*2:ホー監督はこれについてタイ国境と説明している(http://www.janjan.jp/culture/0610/0610290660/1.php)。