東野圭吾「パラドックス13」

東野圭吾の「パラドックス13」を読んだ。核心に触れずに物語を説明するのはちょっと難しいが、一言でいえば、一握りの人びとを残して世界中の人たちが突然消えてしまったらどうなるかというパニックもの。直ちに思い出したのが、子どものころに朝日新聞に連載されていた小松左京の「こちらニッポン・・・」だった。「こちら・・・」ではああやって処理された結末がどうなるんだろうかと思いながら読んだ。
物質文明に頼り切った現代社会に対する警鐘とか、ルールや原則だけでなくて伝統・慣習や感情もうまく取り込まないと物事は動かないというメッセージとかいった読み方をするのが一般的なんだろうけれど、せっかくなので自分の関心に即して読んでみる。
1つ目は、被災者と救援者がいない災害対応の話として。
災害対応の現場が混乱するのは「人がいるから」。災害の現場には被害者と救援者がたくさんいる。対応が必要な物事はたくさんあるけれど、人命救助が最優先されるため、場合によっては他のものは不十分な対応で済ますこともある。そこで、被害者も救援者もいない状況を作り出して災害対応から「人」の要素を切り離して、数人からなるコミュニティ内の出来事に集中できる状況を作って災害対応を考えたのが「パラドックス13」だ。
災害対応の現場は必ず混乱する。それは、一度に処理すべきことが大量に生じて既存のシステムではうまく処理しきれないため。でも、そのことを取り除いて仕組みだけ考えてみると、実は災害対応もそれ以外の出来事への対応とあまり変わらず、基本はコミュニティ内でどのように協力関係を作って目前の問題への解決を積み上げていくかということに尽きる。実際の災害の現場では緊急時だからとか人命救助を優先するからとかいう理由でじっくり考える余裕がなく判断されていくことがらについて、「パラドックス13」は1つ1つ考えて判断していくとどうなるかを見せようと試みている。
また、災害対応でトリアージ感染症などが問題になることはもちろん知っていたけれど、それは医療関係者に関することであって、一般の被災者は考えなくていいことかと思っていた。「パラドックス13」では、一般の被災者コミュニティでトリアージのような考え方がどのような形で現れるかをしっかり見せつけてくれる。病院や保健所が機能していない状況でのインフルエンザへの対応も含め、実際そのような状況に置かれたときに本書の登場人物のように行動するかどうかはともかく、いろいろ考えさせられることがあった。
2つ目は、自殺や殺人の是非を原則に戻って考える話として。
しばらく前、「どうして人を殺しちゃいけないのか」「どうして自殺しちゃいけないのか」という問いにどう答えるのか、という議論があった。それに対して「道徳的に決まっている」という前提をいったん取り除いて、コミュニティのなかでどう生きていくか、あるいはコミュニティとしてどう生きていくかという問いから結論を出そうとする試みが「パラドックス13」だ。
念のために書いておくと、「どうして人を殺しちゃいけないのか」「どうして自殺しちゃいけないのか」などの問いに対する答えが本書で与えられるわけではない。「パラドックス13」で繰り返されているのは、自分たちが置かれた状況を踏まえた上で、自分の考え方で結論を出さなければならないということだ。「答えは何?」とすぐに聞きたがる人は本書を読んで「答えがわからない」という不満を抱くかもしれない。
ついでに言うと、「パラドックス13」の中では問われていないけれど、この本の中の世界があのままもう少し続いていけば、「人は人を食べてはいけないのか」などの問いも出てきただろう。想像すると恐ろしいが、あの世界に身を置いたつもりで考えてみるのもいいかもしれない。
3つ目は、組織人間のあり方を考える話として。
「組織人間」というと、没個性であることに対する批判的な言い方に聞こえるかもしれないけれど、そうとも限らないということ。
ある組織という場に身を置いたとき、その組織を活かし、そしてその中で自分を活かすという自覚がある人は、どの組織に身を置いてもその組織の中で自分が果たす役割を考えてそれに従って行動しようとする。こういうタイプの人は「組織人間」だけれど、その行動原理は実は所属組織の境界にとらわれずにどこでも通用する。警官とやくざは見方によっては正反対だけれどどちらもこのタイプという共通性がある。
これに対して、特定の組織の中での位置によって他人との関係を認識している人は、どんな場に行こうとも(もともと所属していた組織がなくなっていようとも)もとの所属組織の中での位置によって他人との関係を把握しようとする。こういうタイプの「組織人間」は、所属組織の外に出ると使いにくい。こんな2組の対照的な「組織人間」のあり方を本書はわかりやすく示している。