インドネシア映画『Surga yang tak dirindukan』

『Surga yang tak dirindukan』を観た。ジャカルタ市内のDVD屋さんが壊滅状態で、ようやく見つけた1枚がこれ。
数日前に観た同タイトルの2の前編。こちらが作られたのが2015年、2が公開されたのが2016年12月から2017年にかけて。
先に2を観てから1を観たけれど、もしかしたらその順番の方がよかったかも。


舞台はジョグジャカルタ
幼い頃に母親が自分の目の前で自殺したことが今でも忘れられない青年プラス。ソロ出身で建築家。大きな商業施設を建てるよりも孤児院の建物を作ったりする方が性に合っている。
自分で作った物語を人形芝居にして子どもたちにイスラム教を教えているアリニ。ジョグジャ出身。
2人が出会い、惹かれあって、結婚して娘のナディアが生まれる。
この3人は2でも家族だった。
プラスは困った人を見ると放っておけない。ある日、目の前で交通事故を見て、運転席にいた瀕死の女性を病院に担ぎ込むと、その女性メイは妊娠していた。メイは病院で男の子を出産するが、自分の人生を悔いて自殺しようとする。メイの自殺を食い止めるため、君の人生は僕が責任を持つ、その証として君と結婚する、とプラスが説得して、メイは自殺を思いとどまり、2人は病室で結婚する。
こうしてプラスは2人の妻を持つことになった。そのことを妻アリニにどのように伝えて、アリニはそのことをどのように受け止めるのか、そして1人の夫と2人の妻と2人の子どもの生活はどうなるのか、というのがこの物語のメインの話。
プラスの友人たちが一夫多妻についてあれこれ議論したり、夫が浮気しているみたいだから離婚したいというアリニの友だちが出てきたりして、さまざまな角度から一夫多妻の是非が議論される。プラスも、一夫多妻に関わる章句をすべて暗唱できるほどクルアン(コーラン)を十分に理解した上で、それに照らして適切な行動をとったと考えている。でも唯一の愛する妻であるアリニには2人目の妻がいることを言いにくいと感じている。
一夫多妻はどういう状況であれば受け入れることができそうか、その場合にも実際にどのようなプロセスを経て受け入れられていくのかという狭い道が、コーランの教えや地域社会の考え方や時代の考え方や個人の思いなどのためにさらに曲がりくねった細く狭い道になっていくけれど、それを何とかたどっていく。
物語がどのように展開して狭い道をたどっていったのか、そして最後に登場人物たちがどのような選択をしたのかは、観る人によって賛否が分かれるかも。私は最後の選択に釈然としない部分が残った。でも、まあそういう人生の選択もあるのかもしれないとも思う。いずれにしろ、「Surga yang tak dirindukan 2」の結末の意外さに比べれば1の結末の方はずいぶん受け入れやすい。


タイトルの「Surga yang tak dirindukan」は、2を観たときは、物語の内容と重ねて「どこにあるかわざわざ探す必要がない天国」ということで「いつも天国とともに」と解釈した。それはそれで適切だと思うけど、1だと「あなたと一緒に行きたいと思うわけではない天国」という意味が強いような気がする。それが2になると同じタイトルのまま物語の文脈が加わって意味が反対になるというにくい仕掛けなのかも。


主役の「ミスター優柔不断な善人」は、出世作となった『アヤアヤ・チンタ』の続編『アヤアヤ・チンタ2』が今年12月に公開されるらしい。ちょうどメトロマニラ映画祭と日程がかぶりそうなのが気になるけれど、これは何としても観ないと。

カフェモンド

アジア映画のおもしろさは混血性と越境性にあって、その2つをあわせた混成性をキーワードにしてアジア映画を楽しもうというのが混成アジア映画の考え方だ。この考え方の源流の1つ(というか1人)とジャカルタで会って話を伺う機会があった。
インドネシア映画(や他のアジア映画)を過去から現在まで観てきた歴史的な深さと、インドネシア社会について政治・経済から社会・文化まで幅広い知見を持っている分野横断的な広がりを持っていて、映画を観てもその作品だけを切り取って見るのではなくいろいろな参照点のなかでその作品の位置づけが頭の中で浮かび上がってくるような人。しかもその参照点のソースは本あり噂話あり実体験ありネット情報ありといろいろなメディアが混じっている。
その人もディープな人だけれど、同じようにディープな人たちと対面でつながりがあるし、さらにネット上や紙媒体の情報の収集・発信の結節点にもなっている。さまざまなアイデアが行き来して、混じりあい、もともと誰のアイデアだったかという帰属が薄らいでいって、アイデアの共有財のように広がっていく。そうと知らずに間接的にいろいろな人がネット上に拡散していったアイデアの影響を受けているはずで、混成アジア映画もそのようなアイデアのいくつかが集まって形を成そうとしている像の1つ。
本業は映画と直接関係ないのでその人について直接書くことは控えるけれど、さらに起源をたどればアチェの大モスクだったというのもまた1つの縁かと思う。


さて、そんなインドネシア文化のキュレーターのような人に案内していただいたのが南ジャカルタのファトマワティ通りにあるCafe Mondoで、オーナーの泉本さんとお話する機会があった。クマン地区から移ってきた建物の由緒とか、最近のジャカルタのグラフィティをめぐる攻防の話とか、おもしろい話は尽きないけれど、どれもおもしろい話で終わっていなくて、ジャカルタの日々の暮らしに結びつけられて話が広がっていく。その先に見ているのはジャカルタから世界が変わっていく様子なんじゃないかしら。
お店が入っている建物の1階に集まっている若者たちの様子や、壁の貼り紙などを見ていて、国際社会では大国が好き勝手なことをするし国内では政治家や富裕層が好き勝手なことをするしで閉塞感が強まっていると感じながらも、現場で使える媒体をうまく使ってどんな手を打つことができそうかを考えて、工夫しながら試してみようと思う人たちが集まっている熱気を感じた。
以前インドネシアの1998年の民主化から10年目をテーマにした短編映画をいくつか観たとき、「10年前は改革だと言ってこぶしを振り上げていたけれどいざ家族や部下たちを養わなければならない立場になると改革とばかり言ってもいられない」という話が出てきた。そんなものかなと思っていたけれど、それから10年が経って、またそれと違う側面に注目が集まるようになってきたということだろうか。
屋上からジャカルタ市街の様子が望めるカフェモンドの営業は水曜〜日曜の午後4時から。

インドネシア映画『TEN: The Secret Mission』

7月27日劇場公開のインドネシア映画『TEN: The Secret Mission』を観た。特殊部隊の秘密作戦もので、武装して小島に立て籠もった犯行グループから人質を奪還するため訓練を受けた特殊部隊10人が島に潜入して、犯行グループと死闘を繰り広げて人質を解放する。そういう話はたくさんあるけれど、この作品の特徴は、特殊部隊の10人が(そして特訓する鬼教官も)みんな女であること、しかも、鉄壁のガードを破って島に潜入するために10人がグラビアモデルの格好をしてクルーズ船で島に近づくこと。
とりあえずあらすじ。実はこういう映画にも需要があったりして日本で劇場公開される可能性もゼロじゃないかもしれないけど、たぶんその可能性はほぼないと思うので最後の最後まで書いてしまおう。
舞台はインドネシアアメリカ大使の娘が拉致されてインドネシア領の小島に監禁される。犯行グループは島の住民も人質にとって、法外な身代金を要求して、要求に応じないと人質を1人ずつ殺していく。人質救出のために島に向かった部隊のヘリコプターはロケット弾で撃ち落とされ、島は近づけない。
そこで考え付いたのが、一般観光客の格好をした女性特殊部隊員がクルーズ船で島に近づいて油断させて上陸するという作戦。そのために10人の女たちが集められた。
説明によれば、インドネシア政府は特殊部隊員を育てるために世界各地に人を派遣しており、今回はそのなかからシラットやクンフーや空手や合気道や射撃などなどの達人で、見た目がいかにもモデル風の女たちを10人選んだという。大きな十字架のネックレスをしているキリスト教徒や華人風のインドネシア語を話す人などもいて、インドネシアの各層を代表する10人ということでもあるのだろう。
各地から集められた10人が最初にキャプテンから事情説明を受けている場面で、みんなとっても短いショートパンツ姿で、しかもなぜかカメラが彼女たちの後方の低い位置から撮っているので、いやでもお尻がたくさん目に入る。
で、なんで私がアメリカ人を助けるのに協力しなくちゃいけないの、なんて反発する人もいたりして、でもそれぞれ弱みを握られているのと成功報酬が大きいのとでしぶしぶ参加することにする。
島に潜入する前に短期間で10人を特訓するのは鬼軍曹のような女の教官。そのしごき方が半端なくて、朝、みんながまだ宿舎で寝ているところを宿舎の外から銃で撃ちまくる。銃弾は宿舎の壁を破って飛び交い、みんなとっさにベッドの下に隠れるけれど、逃げ遅れて弾を受けて腕を怪我する人もいる。そして訓練の本番が始まると、鉄条網の下を匍匐前進する訓練中の彼女たちに容赦なく銃弾を浴びせたり、あげくには手榴弾らしきものを投げ入れて爆発させたりする。訓練なのに本当に死にそう。
その仕打ちに我慢できずにあの教官を倒してやると挑むけれど逆にやられてしまうとかいうのは軍隊しごき映画でよくある展開。そして島に潜入する。
教官を含めた11人の女性モデルがクルーズ船の上で水着姿でポーズをとって写真を撮りながら島に近づいていく。犯行グループはその様子を双眼鏡で見てにやにやしているだけ。そのうちに島に潜入されてしまい、犯行グループが1人ずつ殺されていく。
そして大使の娘が捉えられている建物へ。実は黒幕は***で、トランプが***でもモンローが***でも***だ、なんていうやり取りがあるけれどそれはたぶんあまり重要ではない。その後は犯行グループの男たちと特殊部隊の女たちが殴り殴られ蹴り蹴られ、刃物で刺し刺されをひたすら続ける。血もたくさん飛び散る。とっても残虐な殺し方の場面が画面処理でぼかされていたけれど、あとはけっこうな場面もノーカット。
死闘の末に犯行グループをすべてやっつけて、ご褒美の勲章をもらった10人の女たちが「民族と国家のために」と言って終わる。

特殊部隊なのに長い髪を風になびかせて敵地に乗り込むのも、上陸して密林の中を進むときもサングラスをかけたままなのも、モデルのふりをして潜入するという作戦だからまあいいのかな。
この映画は死体がたくさん出て、死体が出るたびにハエがぶんぶん飛んでて、それがインドネシア的な死体のリアリティの演出なのかなと思った。
設定はおもしろいかもと思ったけど、空手なりシラットなりのそれぞれの専門が活かされていたように見えなかったのが残念。

インドネシア映画『珈琲哲學2』

ジャカルタのブロックMスクエアで『珈琲哲學2』を観た。映画の後は隣のフィロソフィ・コピへ。

『珈琲哲學』の1(というか前作)がそろそろ日本で劇場公開されるタイミングで、2もいずれ日本で劇場公開されるかもしれないと思うので、これから1を観る人や、いずれ2を観たいと思っている人は、以下は作品を観るまで読まない方がいいかも。1を観た人も、その世界観がとてもよかったと思う人は、以下は読まない方がいいかもしれない。ネタばれだからということではなくて、本筋と全く関係ない話をあれこれひっくり返して書いているから。


せっかくなので、はじめに少しだけ本筋からあまり離れない範囲での紹介もしておこう。
ベンとジョディを演じるのはもちろん前作と同じチコ・ジェリコとリオ・デワントで、2人の立場や関係も前作を踏まえてのもの。そこにセレブ女優のルナ・マヤ(タラ役)と元ミス・インドネシアのナディン・アレクサンドラ(ブリ役)が今回新しく加わった。
舞台はジャカルタだけでなく、バリ、ジョグジャカルタ、マカッサル、トラジャと国内5か所でロケを行っていて、それぞれ特徴を持った土地の様子がどれも美しく描かれている。
ジャカルタのパートでよかったのはジョディたちが暮らす華人の生活が描かれていたこと。『珈琲哲學』でもジョディが華人であることは隠されていなかったけれど、あまり華人性は強調されていなかった。『珈琲哲學2』では、家の中に赤いカレンダーがかかっていたり、お線香を立ててお祈りしていたり、漢方薬のお店で働いていたりする様子が出てくる。ベンたちが仕事やプライベートで人と会うのがなぜか中華の店が多くて、箸で食事しながら話している。
華人つながりで言えば、インドネシア華人コメディアンで『エルネストの家作り』『隣のお店は?』の監督・主演作品があるエルネスト・プラカサもバリスタ役で出てくる。


本題に入る前に前作の話。
映画「珈琲哲學」 - ジャカルタ深読み日記
『珈琲哲學』は父親との関係の物語だった。強権的に国を引っ張っていったスハルト大統領という強い父を民主化運動によって政権から引きずり下ろしたことで、インドネシアは、現実の存在としての父なる指導者を失っただけでなく、強い父性が家族を守るというあり方も否定した。それ以降のインドネシアで父性とどのように向き合うのか。これが『珈琲哲學』の隠しテーマで(隠れてないけど)、父を失った子どもたちはそれぞれ自分たちの道で成功することで父と和解した。だから『珈琲哲學』はスハルト後のインドネシア社会が重ねられている物語。これが『珈琲哲學』を観たときに感じたこと。
『珈琲哲學2』でも父親との関係がテーマで、父性に関して『珈琲哲學』で答えずに残っていた問題に答えている。
その一方で、『珈琲哲學2』を観たことで『珈琲哲學』の理解の仕方が変わってしまった。『珈琲哲學』がスハルト後のインドネシア社会と重なるというのは確かにそうなんだけど、『珈琲哲學2』はスカルノ政権後期のインドネシアに重なる話で、そう見るならば『珈琲哲學』はスカルノ政権前期に重なる話に思えてくる。


『珈琲哲學2』のあらすじを前半まで。
コーヒー哲学を体現したコーヒー店フィロソフィ・コピを作った伝説の2人、ベンとジョディ。インドネシア全国にコーヒー哲学を届けようとインドネシア中をまわっていたが、一緒に店を立ち上げた仲間たちが別の道を歩み出し、ベンとジョディは2人だけになる。新人を雇ってもベンが「コーヒー哲学がわかってない」と認めないのでみんなやめてしまう。
ジャカルタに戻り、投資家が見つかって、最初に出した店を再建する。荒れ果てていた内装を整えて、新しいスタッフを雇い入れて、さて開店当日。ベンに知らせずにバリスタのブリ(サブリナ)が雇われていたので勝手に決めるなとベンが怒る。大学で農学を学んだブリがコーヒーを淹れても、ベンは「コーヒーは学校の勉強と違うんだ」「コーヒー哲学は俺にしかわからない」と怒る。それでもブリはバリスタをやめようとしない。
話はこれからが本題で、投資家がどんな人だとか、ブリがどんな背景と思いをもってフィロソフィ・コピに来たのかとか、そこで本筋が展開していくんだけど、日本で劇場公開するかもしれないので(期待を込めて)、ここから先は控えておく。肝心の父親との関係の話にも触れないことになるけれど、それはしかたない。


さて、ここからは本筋と関係ない話。
『珈琲哲學』のシリーズを通して、コーヒー哲学とは何のことなのか。ベンとジョディがしようとしたのは、ちょっと変な言い方だけど、コーヒーが治める国を作ることだった。だとすれば、コーヒー哲学とはその国家原理ということになる。
インドネシア独立運動を導いたスカルノは、逮捕されて流刑にされたりと幾度も困難に出遭ったけれど、インドネシアを独立に導くことでその国家原理であるインドネシア民族主義を具現させた。しかしいざ大統領になって国家運営にあたると、意見の違いからかつての仲間たちが離れていく。独立運動スカルノとともに指導的な役割を果たしたハッタは、初代副大統領としてスカルノを支えていたけれど、スカルノとの路線の違いのため政界を去った。1人になったスカルノは、民衆の考えが一番よくわかっているのは自分だけだと言い、自分が民衆を教え導くことでインドネシアの国家原理が適切に発揮されると唱えた。
ベンとジョディは、『珈琲哲學』で自分たちがコーヒー哲学を具現したと思っていて、それをインドネシア全体に広げようとしたけれど、『珈琲哲學2』になると、それまで一緒にやってきた仲間たちは去っていき、新人スタッフたちもベンに「コーヒー哲学がわかっていない」と言われて辞めていく。
ベンとジョディの考え方の食い違いは『珈琲哲學』でもあったけれど、『珈琲哲學2』ではベンがジョディを店の経営から追い出そうとする。『珈琲哲學2』はスカルノ政権の後期と重なって見えてくる。
そう思って振り返ると、『珈琲哲學』は、建物は受け継いだけれど設備が全く整っておらず、十分なスタッフもなく、そこに設備と哲学を注入することでコーヒー哲学を具現する店を作るという話で、これはスカルノ政権の初期と重なって見えてくる。植民地国家を引き継いで独立国家を運営するにあたり、ハコしかない状況でどうやって中身を実質化させていくか。その答えはゆるぎない哲学をつくることだった。でも、努力を重ねて独立を実現させても、その後に寄って来た人たちは肝心の哲学を十分に理解していないように見えてしまう。


『珈琲哲學2』には「ベンとジョディ」という副題がついている。人の名前が2つ並んでいるのを見るとジャカルタスカルノ・ハッタ空港を思い出す。ベンとジョディがますますスカルノとハッタと重なって見えてくる。
もちろん、ムスリムのベンとチャイニーズのジョディをジャワのスカルノスマトラのハッタに単純に重ねるわけにはいかないだろう。でも、社会の代表は2人でセットの方がいいというのがインドネシア社会の知恵だと考えれば、独立時はジャワとスマトラのコンビがよかったとしても、今はムスリムとチャイニーズのコンビがふさわしいということなのかもしれない。

ジャカルタで『いなべ』

Kinosaurusで深田晃司監督の『いなべ』を観た。ジャカルタ国際交流基金の企画。
冒頭でいきなり養豚シーンが出てくる。これをインドネシアで上映するのはさすがKinosaurusだと思って、いなべ市の山を背景に子豚がとことこ歩いてる場面でも出てきたらまるでエドウィン監督の『空を飛びたい盲目の豚』だなと思っていたら、上映後の深田監督のトークの司会がエドウィン監督だったのでまたびっくり。
舞台は三重県いなべ市。養豚場で働くトモヒロと、音信不通になって17年ぶりに赤ちゃんを連れて突然家に戻ってきた姉のナオコ、そしてナオコやトモヒロと父親が違う高校生の妹のアキ。アキははじめナオコが誰だかわからず、トモヒロに教えてもらって、話に聞いていた幻の姉だと知る。
メインはナオコが何のために故郷に戻ってきたのかという話。短い作品ながら映像的にも物語上も観客にあれっと思わせる仕掛けが施されていて、本筋の鑑賞はその方面でされるべきだろうと思う。でもそれと別に、これがインドネシアで上映されたことの意味も興味深い。
この作品が作られたのは2013年なので作品内の時間もその頃だろう。17年ぶりに帰ってきたということは、ナオコが出て行ったのは1997年頃ということ。アキはその後に生まれた。いなべ市員弁郡の4つの町が合併して2003年にできた市で、合併の話が始まったのが1998年だったらしい。
1997年から98年にかけてアジアの国々で社会が大きく変化した。インドネシアももちろんそう。ちょっと大げさに言うと、インドネシアは1997〜98年を境に世界が変わったと言えるぐらいの変化を経験した。
ナオコとアキが姉妹なのに互いに相手を知らないということは、1998年以前の世代と1998年以降の世代でコミュニケーションの断絶があるということと重なる。その橋渡しにトモヒロがなっているとすると、トモヒロはいったいどんな存在なのか。豚の世話をする人だということが何か意味を持ちそうだと思うけれど、まだうまく像が結ばない。
この上映&ディスカッション、立ち見が出るほどの盛況ぶりで、ディスカッションでは一度しか観ていないとは思えないような鋭い質問がたくさん出た。深田監督も、「大人の事情」で決まる裏事情も話しつつ、それで説明を終えるのではなく、裏事情に対応した結果できた場面を自分はどう解釈しているかを1つ1つ説明していた。与えられた素材をどれも無駄にせず活用して破綻なく作品に仕上げたという意味で「始末のよい」監督という印象を受けた。とてもよい通訳が入ったためもあり、考えるところの多いディスカッションだった。


ディスカッションで出た話を少し。『いなべ』は観客を驚かせて考えさせる仕掛けがされているので具体的な内容を書きにくいので、インドネシア映画との関連で少々。インドネシアでは宗教が違うと死んだ後に同じ天国に入れない(だから改宗して同じ宗教になる)という言い方があるのに対して、日本だと死んだ後に一緒のお墓に入りたいという言い方があって、同じようで違うようなのがおもしろい。生きているうちは一緒の家で暮らすことができなくても死んだ後で同じ墓に入れるというのは『タレンタイム』のガネーシュおじさんに通じるものがある。

インドネシアのイスラム恋愛映画「Surga yang tak dirindukan 2」

ガルーダ・インドネシアの機内上映でインドネシア映画の「Surga yang tak dirindukan 2」を観た。
2015年に公開された話題作の続編。人気作品の続編が失速するという話はよくあるけれど、これは例外。
続編だけれど、1作目を観ていなくても全く問題ない。もしかしたら、1作目を観ずに続編から観た方がよいかも。
タイトルの意味は「どこにあるかわざわざ探す必要がない天国」ということで、「いつも天国とともに」という感じか。


最近のインドネシア映画のジャンルの1つにイスラム恋愛映画がある。それをジャンルとして確立したのは2008年に大人気となった「アヤアヤ・チンタ」(Ayat-Ayat Cinta)。そのハヌン・ブラマンチョ監督の最新作で、当然これもイスラム恋愛映画。
「アヤアヤ・チンタ」は、前回ジャカルタに長期滞在したときに観て、その結末にとても驚いて、会う人に「アヤアヤ・チンタ」の結末をどう思うかと尋ねたものだった。今回のジャカルタ滞在も、また会う人に結末をどう思うか尋ねたくなる作品に出迎えられるとは。


結末の直前まで、少々の脱線をしながらあらすじを紹介しよう。


イスラム社会に関する本を書いて売れっ子作家になったアリニ。ヨーロッパ在住のインドネシア人社会に招かれて、幼い娘ナディアを連れてハンガリーに行くことに。空港で出発を待っている。
見送りに間に合わないと空港に車を飛ばす夫プラス。途中で事故に遭った車を見かける。そのまま空港に向かうか、停まって助けるか。善人のプラスは困っている人を見捨てることができない。
搭乗直前に電話をとるアリニ。「いま病院にいる。途中で事故に遭った車を見つけたんだ」「・・・乗ってたのは女の人?」「そう」「その人は妊娠してた?」「いや」。このやりとりで、プラスは以前も事故に遭った車を見つけて乗っていた人を助けたことがあって、その人が妊娠していたために何かあったのだろうと想像させる。これは1作目の話で、その具体的な内容を知らなくてもこの作品を理解する上でまったく問題ないけれど、実は密接につながっている。


ハンガリーに着いたアリニはメイに再会する。メイは幼い息子アクバルと2人暮らし。後からハンガリーに飛んできたプラスが合流すると、アクバルはプラスを父親と呼び、プラスは居心地が悪そう。


講演や観光をしているアリニが倒れて病院に運び込まれる。癌が脳まで転移していて、治療しなければ残りの日はほとんどない。しかしアリニは治療を拒否して、家族にも伝えないようにと医師シャリフに頼む。
(ところがそれを娘のナディアが聞いていて、アリニもナディアもお互いのことを気遣って直接言わないけれど、でもお互いのことを大切に思っている気持ちを伝えたくて、人形劇をしてお互いの気持ちを確かめている場面は泣かせる。)


メイは小さな店を構えて経済的に自立して生活している。そんなメイに惚れ込んで、君の過去に何があっても関係ない、これから一緒に過ごしたいと求婚するシャリフ。メイはその気持ちをありがたく受け止めるが、過去のことで決着をつけなければならないことがあるのでそれが済んでから、と答える。メイは離婚証明書を用意する。


アリニは、生死は神様が決めることなので受け入れる、ただし幼いナディアには母親が必要だからと、プラスにメイと一緒に暮らすよう求める。愛する妻はアリニだけだと思い、メイと正式に離婚しようと準備していたプラスは戸惑う。


アリニが自分の病気のことを隠していたためにプラスもメイも戸惑うが、アリニが倒れてシャリフが来ることでプラスもメイも(そしてメイから話を聞いていたシャリフも)事情を理解する。病院に運ばれたアリニの最後の望みで、プラス、メイ、ナディアとベッドのアリニが一緒に礼拝する。アリニは礼拝が終わると意識がなくなり、礼拝を見守っていたシャリフが蘇生させようと努力するが、帰らぬ人となった。


最後の場面に行くまでにここまでのまとめ。
メイとプラスは何らかの事情で過去に法律上の夫婦だったけれど、今ではどちらも実際に夫婦関係にあると思っていない。プラスはアリニだけが妻だと思い、メイはシャリフとの結婚を真剣に考えており、プラスとメイはお互いに正式に離婚したいと思っている。ところが自分の余命が短いと知ったアリニは、娘のためにプラスとメイに実際の夫婦になってもらいたいという望みを遺して亡くなった。


最後の場面。海が見える見晴らしのよい崖に結婚式の会場が設置されており、参列客が揃っている。入場してきた花嫁はメイ。壇上で花嫁を待っているのはプラスとシャリフの2人。

(画像:http://goo.gl/Sykqgw
シャリフを演じるのは、実に多彩な役を演じている人気俳優のレザ・ラハディアン。プラスを演じるのは、「アヤアヤ・チンタ」で優柔不断な善人で自分は何も決めずに2人の女性と結婚することになったファハリを演じたフェディ・ヌリル。メイは誰と結婚するのか。


自分なりにこんな結末の可能性があるかなと思っていたものがみごとに外れた。

タイ特撮映画『プラロットとメーリー』

毎週楽しみにしていた『怪獣倶楽部』が終わってしまった。第3話のゼットンとの攻防も見ごたえがあったけど、最終回のアンヌ隊員からのメッセージもしっかり受け止めた。
今期は『ウルトラセブン』もあって特撮の濃度が高い日々を送っているが、特撮がらみでもう1件。直前になってしまったけれど、タイ映画『プラロットとメーリー』の上映会の準備をしていた。
東南アジアの民話と映画 シンポジウム・上映 女夜叉と空駆ける馬「12人姉妹」が映す東南アジアの風土・王・民 | イベント情報 | 国際交流基金アジアセンター


『プラロットとメーリー』はタイ版「12人姉妹」の物語だ。「12人姉妹」というのは東南アジア各国に伝わる民間伝承で、教科書に載ったりポップカルチャーに取り入れられたりと、繰り返し繰り返し語られながらも国や時代によって語られ方が少しずつ変えられている。その映画版の1つである『プラロットとメーリー』も、もともと語り継がれているストーリーを踏まえながらも、大胆に脚色したオリジナルの部分も取り入れている。
もともと語り継がれているストーリーは、「12人姉妹」で検索すればいろいろ出てくるだろうからここでは詳しく書かないけれど、とっても乱暴にまとめるならば、夜叉(人食い鬼)に母親(と11人の姉たち)が苦しめられている青年(ロットセン)が、囚われの身になっている母親を救うために夜叉の国に行くが、そこで夜叉の娘(メーリー)と恋に落ちてしまい、母を救うためには愛する妻と別れなければならないという物語だ。一方に母親への孝行があり、もう一方に夫に尽くす貞女への愛があり、その板挟みになる。
『プラロットとメーリー』で大胆に脚色されているオリジナル部分は、部下の夜叉に特徴的なキャラクター設定がされていることだ。夜叉は本来は悪役だけど、その1人(コーンラック)は心優しい夜叉で、夜叉の女王の命令に背かない範囲でロットセンや母たちにこっそり助け舟を出したりする。男だけれど天人の力で乳を授かり、囚われの身になっている母親に代わってロットセンを育てる。脇役だけど影の主役と言えるかも。
そして、それを助ける天人(テーワダー)。見た目はさえないおじさんだけど、実はいろんな力を持っていて、ぶつぶつ文句を言いながらもコーンラックとロットセンを助けてくれる。恋愛の話なんて聞きたくないとか言って拗ねるテーワダーが過去か前世にどんな経験をしてきたのか気になるけれど、テーワダーとコーンラックが男2人でロットセンを育てているのがまたいい。


という話はおいておいて、本題はここから。制作に関わったチャイヨー・プロダクションのソムポート監督は円谷プロで特撮を学んだ経験があり、『プラロットとメーリー』はウルトラシリーズとの関わりという点でも興味深い。
巨大な夜叉が森を歩く足音がウルトラシリーズの怪獣の歩く足音と同じだとか、呪文や魔法が発せられたときのビーム音がウルトラシリーズの光線技の音と同じだとか、夜叉が人間を食おうとして手で人間を捕まえる場面がウルトラシリーズを思い出させるとか、ほかにもたくさん共通点が見つけられるだろうが、私が特に興味深く思ったのは本編前の映像だ。
黒い画面の四方八方から閃光が集まって中央で光り、そこから球状のものが四方八方に散らばっていくと、赤紫色の歪んだ時空のような絵が出てきて、そこにチャイヨー・プロダクションのロゴが重なって、そこから本編が始まる。
昭和のウルトラシリーズに馴染んだ人ならすぐにわかるが、閃光が集まって光るのはウルトラマンタロウの誕生の場面だし、赤紫色の歪んだ時空はウルトラマンエースに出てくる異次元人ヤプールが棲む異次元空間だ。それぞれ『ウルトラマンタロウ』と『ウルトラマンエース』のオープニング主題歌の背景に出てくる。
これはチャイヨー・プロダクションのほかの作品にも共通しているらしい。単純に絵面がよかったから選んだという可能性もあるだろうが、ここではこのオープニングに込めた意味を想像してみたい。
まずはウルトラマンタロウの誕生の方から。『ウルトラマンタロウ』では、ウルトラマンタロウはシリーズ内で誕生して地球に来る。それまでのシリーズでは、ウルトラマンにしろウルトラセブンにしろ、すでに大人?で十分に活躍しているウルトラ戦士が地球に来たのに対して、『ウルトラマンタロウ』ではシリーズ内ではじめてウルトラ戦士の誕生が描かれた。
次のヤプール人は、『ウルトラマンエース』に出てくる悪役で、異次元空間に棲み、地球上の生物と宇宙怪獣を怪獣を合成した超獣を作って地球に送り込んでいる。ウルトラシリーズではじめてのシリーズを通した悪役で、毎週の戦いで超獣は倒されてもヤプールは生き残って次の週に別の超獣を送り込んでくる。ヤプール人は人間の負の心をマイナスエネルギーに変えて自分のエネルギー源にしているために完全に倒すことはできず、シリーズの途中で倒されても後に復活し、さらにその後のシリーズにもしばしば登場してウルトラ戦士を苦しめる。
チャイヨー作品の冒頭では、ウルトラマンタロウの誕生と、ヤプール人を象徴する異次元空間が続けて出てくる。興味深いのはその順番で、テレビシリーズとしては『ウルトラマンエース』が先でその次が『ウルトラマンタロウ』だが、チャイヨー作品の冒頭ではタロウの誕生場面が先で、エースのヤプール人が後に出てくる。
順序を逆にしているということにはそれなりの意味が込められているということだろう。ウルトラシリーズとの関わりで深読みするならば、人間の負の心をエネルギーとする闇の化身が棲む異次元空間を見せた後にヒーローの誕生を見せることでヒーローが無垢であることを示すのではなく、順番を逆にして、無垢のヒーローとして誕生した者も人間の負の心から逃れることはできないこと、それは誰もが業を背負っているためであることという因果応報を強く思わせる仕掛けになっており、『プラロットとメーリー』の根底にある因果応報の考え方とよく合致している。


追記.
シンポジウム「女夜叉と空駆ける馬 「12人姉妹」が映す東南アジアの風土・王・民」の記録