映画「感染列島」

帰りの機内で観た。物語としては、主人公が持ち場を離れてあちこち出かけすぎじゃないかと思うけれど、それはそれとして考えるところがあった。


総合病院が正体不明の感染症の感染現場になり、WHOからメディカルオフィサーが派遣されてくる。感染経路を特定するため、最初の感染者となった夫を亡くしたばかりで自身も体調を悪くして入院している女性患者に質問するメディカルオフィサー。それに対して、夫を失ったばかりの彼女に今は答えられないからと遮る病院の救命救急医。
感染症に対応して被害の拡大を防ぎ人命を救おうとする目的は一緒。でも方法は違う。WHOのメディカルオフィサーは感染の蔓延を防ぐために必要だから感染経路を特定しようとするし、調査結果を国外の研究者と共有して対応しようとする。病院の救命救急医は、人の心がわからないような医者にはなりたくないとメディカルオフィサーを責める。
よく似た話が身近にあるのが思い浮かんだ。大規模自然災害が起こると、医師や緊急人道支援の関係者が現地入りして、それぞれの専門性に応じて対応する。医師や緊急支援のワーカーは被災地の社会や文化について知っているとは限らないけれど、緊急段階で人命を救助するには地域性や文化は関係ないと言って、世界各地での経験を踏まえて対応する。
これに対して、研究対象地域が被災地になった人文社会科学の研究者は、緊急段階で入っても何もできないし足手まといになるだけだからと言って、これまで災害の現場に入らないようにしてきた。最近では、それにもかかわらずきっと意味があるはずだという考えのもとで現地入りする人もいる。
医者や人道支援団体は地元社会のことがわからない。だから、ときには、結果としてその地域に生きる人たちのことを重視していないように見える態度を取ることもある。でも、それは人命を救うという目的に特化した態度なのであって、それに対して地域研究者が「この地域社会の文化に従うとその行動はよくない」という言い方で口を出すことには意味がないと思う。その上で、地域研究者に緊急段階でどのような関わり方ができるのかという問いにとりつかれている。
その問いに対する答えはともかく、通常は「医師・人道支援と人文社会」という対立軸で語られることが多いこの問題が、医師どうしの対立としても語られることがあるというのが新鮮だった。


映画の話に戻ると、助かる見込みがある患者を助けるために、助かる見込みがより少ない子どもの患者から呼吸器を外さなければならないし、その呼吸器をつけた患者も死んでいく。トリアージというのは知っていたけれど、その考え方を実践すると、助かる見込みがない患者に対して治療を与えないという判断をすることだけでなく、大量に患者がいる場合にはすでに与えている治療を患者から取り上げることも意味するんだなと知った。その場面に直面して「もう俺にはできない」と言って出ていく医師。それでも、その場でできることで、最善のことを1つ1つやっていくしかない。
機関に所属していないから検体が手に入らない在野の研究者がウィルスの正体を解明する。国際的な医師のネットワークがあるから感染源が特定される。どちらも救命救急医が自分の判断で規則を破ってことを進める。今の時代、研究者になる訓練を重ねても運不運で機関に所属する機会がなかなかまわってこない人もたくさんいるけれど、機関に所属している人もそうでない人も、自分が置かれた場所でできることをそれぞれしていくっていうメッセージを受け止めた。


中盤で感染源を確かめるために海外に行くシーンで、架空の国だったけれど、地元住民が話している言葉はフィリピンの言葉だったような気がする。ロケ地がフィリピンだっただけで意図したことじゃあなかったとは思うけれど、フィリピンは海外への移民労働者が多いことでよく知られているので、あの地元住民がフィリピン人として登場したとしても(感染症とは話がそれるけど)それはそれで興味深かったかもしれない。