「英語圏で通用する論文」

タイトルだけ見て期待して飛んできた人には悪いのではじめに断わっておくと、この記事を読めば「英語圏で通用する論文」が書けるようになる、という話では全くない。最後の方に論文の書き方みたいなものが出てくるけれど、私自身は「そうじゃないだろ」という思いで書いている。その点をお間違えのないよう。


毎年この時期は学会などで忙しいのだけれど、今年はやや異常な忙しさだった。巡りあわせで国際会議の主催者の1人になっていたことに加え、タイミング悪くインドネシアで大きな地震が起り、とにかく目の前の仕事をこなすだけの日々が続いていたけれど、先週末でようやくひと山越えた。
ここで書くのは先週末に終わった国際会議の話。妙な巡り合わせで、東南アジア出身で英語圏で活躍している研究者たちと合宿に近い形で行う会議の主催者の1人になった。ただでさえ英語のペーパーを準備するのが大変なのに、会議ではランチ中に突然「今晩はみんなでディナーに行こう!」なんて参加者が盛り上がるのでその店探しもしながら自分の発表もしなければならず、主催者と発表者は同時にやるもんじゃないと強く思った。
会議の内容はともかく(カンボジアの映画の話などおもしろい話がたくさんあったので別の機会に書くかも)、興味深いと思ったのは会議後に関係者が残ってどのペーパーを本にまとめるかという打合せをしたときの話。
残ったのは私を含めて3人。他の2人はどちらも私とつきあいがあるので、実はこの場でも匿名で何度か登場してもらったことがある。「英語圏で研究者として成功するならこうあるべし」という強い信念を持った人たち。ということで、英語圏で通用するペーパーの書き方をめぐって激論になった。2人を区別しないと書きにくいので、以下、MとAと呼ぶ。
これに関係して以前書いた話はこちら。
英語社会シンガポール - ジャカルタ深読み日記


主催者の1人であるMは、自分の目から見て理解できないペーパーをどれもその場で切り捨てようという。
「最終稿の提出締め切りは3ヵ月後にしたんだからそれまで様子を見よう」と言っても、3ヵ月後に「やっぱり駄目でした」では手遅れだから今から準備するべきだという。さんざんやり合った後で、今から3ヵ月でペーパーを書いてくれる人を探すのも大変だということで、3人がそれぞれ担当を決めて手伝うことで3ヵ月は様子を見ることで何とかMに納得してもらった。
この議論であれこれさまざまな理屈をつけてMを説得したのがAだった。思い返せば、これまで数年ぶりに会うたびに英語圏で成功するにはどうすればいいかの話を滔々と聞かせてくれたのがAだったのだけれど、それからメールを含めていろいろとやり取りしてきた結果、最近ではこちらの考え方も少しは理解してくれるようになっていたようだ。かつての敵が、さらに強敵が現れたときにこちらの味方になってくれたようなもので、ターミネーター踊る大捜査線かという気分。しかもAはなかなかダイハードだったりするからこういうときには頼もしい。


Mには「どうして他人を助けるのか」がさっぱり理解できないらしい。自分にとって直接の利益にならないのにどうして他人を助けるのか。みんな自分の力を少しでも高めて他人よりも上に立つことで選ばれようとしているのに、他人を助けるのは損じゃないのか、という。そんなに人助けをしたいなら研究者なんてやめて尼僧かシスターにでもなってしまえ、という乱暴な話まで飛び出した。
英語圏で通用する研究者」から見れば、英語圏は裾野が膨大なので人材は後から後からやってくるので、常に新しいもの、売れそうなもの、優れたものを取り込んでいけばいい、だからちょっとでも傷んでいたらどんどん捨てるべき、ということになるらしい。互いの信頼関係などいらない、というより、信頼関係がないところでどうやってプロジェクトごとに協力関係を作るかという技術を磨いてきた人たちで、そのためには指導者がカリスマ的な魅力をもっているとか豊富な資金をもっているとかいったことが重要らしい。今回の国際会議では私とMが組んでいたので、後ろにジャパン・マネーがひかえているように見えたんだろう。
でも、いったん何らかの理由で誰かを切り捨ててしまったら、ほかの人たちもどんどん理由をつけて切り捨てていくことになりかねない。それをやってしまったら誰も残らない。だから、自分と考えが合わないとか、自分より出来が悪いとかいう理由だけで切り捨てるのではなくて、そういう人たちを含めて全体でうまくまわっていく場を作った方がいい。これはテレビドラマや映画でさんざん刷り込まれた考え方だ。
Mには、他人に情けをかけてあげるとその情けがまわりまわって自分に戻ってくるものだから、直接的な見返りがなくても他人に手助けするものだという考え方が日本にはあるんだと説明した。ロジックとしてはわからなくはないけれど、気持ちとしては受け入れられないという顔をしていた。
でも、いつもニコニコ現金払いだけの関係じゃなくて、長い目で見て得になるかならないかぐらいのものに心血を注げるのが研究者じゃないのか。「その研究は何に役立つのか」「役立った証拠を数字で見せろ」なんて言われることが多くなってきたけれど、そんなことを続けていったら研究は(特に基礎研究は)どんどん先細りしていく。
話は大幅にそれるが、ついでにいうと、私は学生に対しても似たようなことを感じている。学会やシンポの手伝いをお願いするとバイト料が出ないならやらないと言うし、大学院の入試窓口に「おたくの研究科に入学したら海外調査の研究費を年間いくら出してくれるのか」と質問してくる人もいるらしい。さらに、西の方には学生対象に大量の研究費が降ってきて、教員が学生にお願いする形で研究費を使ってもらっているところもあると聞く。そういう環境に慣れてしまうと自分から他人にお願いして道を切り開くことができなくなるのではないか。
私が学生だったころ、先生方が学生や院生を「奴隷」呼ばわりしていたのを知って驚いたことがある。学会発表は「奴隷市場」と呼ばれていた。先生方が自分が育ててきた奴隷の研究者としての出来を披露して、値がつくとどこかの就職先に引き取られるということだろう。そう言っていた先生方は研究では反帝国主義とか植民地における民族解放とかを唱えていたのでちょっと驚いたということはともかく、そのことを考えれば学生に大量の研究費をあてがうことで学生側に選択権を与え、奴隷制から解放するという意義はあるのかもしれない。でも、黙っていても潤沢な研究費が降ってくる結果として「場」を作って維持することの大切さが忘れられているんじゃないかと思うこともしばしばあって、その方が深刻な問題に思えてならない。
さらに話がそれるが、今話題の「事業仕分け」では若手研究者の研究費を切り捨てる方向に話が進んでいるらしい。若手研究者に自己責任だからと切り捨てて自活しろというよりも前に、シニア研究者の扱いやどこの組織でも話を聞く「ただいるだけ」の人たちの扱いなど対応すべきことはたくさんあるように思う。でも、それはそれとして、もし若手研究者が切り捨てに反対の声を上げるのであれば、当事者である大学院生やポスドクの人たちが、その場でただちに得られる見返りがないと他のことにコミットしないという態度も見直す必要があるんじゃないかと思う。


話を戻して、Mがダメだと言った人たちのペーパーの出来が悪かったかというと、決してそうではない。そりゃあ流れるような美しい文章が書かれているわけでもないし、もうちょっと書きようはあると思う箇所もあるけれど、でもちゃんと読んでみると言いたいことやそこに込められた思いが伝わってくる。なによりも、今の世の中をどのように捉えていて、自分はそのどこにいて、そして世の中がどのようになればいいと思っているかがペーパーの行間から伝わってくる。でも、それは言葉で書かれていないので、「どこに書いてある?」と言われたら答えようがない。
英語圏の研究者で研究上の付き合い以外でも密接な付き合いがあるのはMとAの2人ぐらいだったので、英語圏で研究者になる人はみんなMやAのような人ばかりなのかと思っていた。今回の国際会議では東南アジア出身でアメリカやカナダの大学で教えている人たちが集まったため、MやAがさらにパワーアップしたみたいな人たちが集まるのかと思って実は始まる前からうんざりしていた。でも、彼らは2人が「英語圏で通用するペーパーになっていない」というペーパーに対しても興味を示して、ちゃんと読んだ上でおもしろがって反応していたし、そのためにずいぶん建設的な議論で会議が盛り上がった。ということで、英語圏で研究者になろうとする人にもいろいろいて、ちゃんと相手の議論を汲み取って発展させようとする人もいるんだということがよくわかって安心した。
Mはヤスミン映画が嫌いらしい。これについては何度も話をしたけれど、これまでのところお互いに平行線をたどっている。Mは、ヤスミンは「愛がすべてを救う」という理想主義的な映画で、現実社会は全然そんなことはなく、民族間の融和だとか言っているすきに急進的マレー人の権利拡張を許すことになるという。そんなMには「タレンタイム」を観てもらいたい。DVDが出たらぜひ勧めようと思っている。カーホウがハフィズのことを「あんな馬鹿に自分が負けるはずがない」と言うと、タン先生が「ハフィズはお前が思っているような馬鹿ではな。それにお前は自分が思っているほど賢くない。上には上がいるんだ」と諭している。そう。上には上がいるということを知らないと、自分が理解できないものを見たときに評価できず、相手のことを馬鹿だと思ってしまう。もちろん自戒を込めて。


では、英語圏で通用するペーパーをどう書けばいいのか。Mが書いた実物を見ながらMに教えてもらった。
一番大事なのは枠組み。枠組みを作るにはキーワードが必要。それは英語圏の研究者の間ではやりすたりがあるのでウォッチして入手する。最近ならコスモポリタニズムか、でもちょっと旬を過ぎていて、ネオリベラリズムかね、ナショナリズムなんてもう全然ダメ、なんていう話が出てくる。ダメなキーワードをもとに本を作ってもダメ。そもそも検索の対象にならないから、誰も見てくれない。
キーワードが手に入ったら、それについてサーベイする。本屋や図書館には行かない。古い本から新しい本までたくさんあって、どれを読めばいいかわからないから。だからアマゾンで「コスモポリタニズム」「ネオリベラリズム」などのキーワードで検索して、なるべくそのものずばりのタイトルの本で売れ筋のものを2、3冊選んで手に入れる。ただし本文の各論は読まない。序論だけ読めば十分。そこに出てくるフレーズで自分の論に有効そうなものを引っ張ってきて、その隙間に自分の考えを織り込んで、これで枠組みは完成。
あとは手持ちのデータをまとめて本文を書く。データの内容は数値で表現するように求められるので、なるべく数値で示す。人文系でも可能な限り数値にする。例えば映画について書くのなら、製作費と観客動員数を比べてみる。あるいは、googleで検索したときのヒット数などから社会の反応をうかがう。これで一丁あがり。
英語圏で通用する=全世界から参照される」だから、アマゾンで上位に来ることが目標であり、だからアマゾンで上位に来る本だけ参照すれば十分だという考え方はとてもわかりやすい。でも、それは研究内容の評価を研究者でない人を含めた人々による多数決で決めているようなもので(しかも文字通り票が金で買えるし)、研究内容の評価としては適切でないような気がしてならない。私は研究の蓄積と発展を系譜で捉えるような訓練を受けてきたので、どんな課題があって、それにこの研究はどのように答えようとして、それが持つ限界にこの研究がどのように答えようとして、という見方をするので、場合によっては全然売れていない本でもとても意味があると見るのだけれど、誰も知らないような人の議論を引っ張って来ても英語圏では通用しないらしい。
いまではMの「英語圏では通用しない」というのはかなり限られた範囲での話だと思うようになったので、英語圏でも非英語圏でも同じ部分は同じだと思うようになったのだけれど、でもアマゾンの売れ筋をざっと掴んで本を書くという考え方は、裁判員制度に通じるところがあるので、もしかしたら社会に受け入れられるのかもしれないとも思ったりする。
そんなことを考えていたら、大学教員をしている知人から、「これまでに研究プロジェクトで研究費をもらった人の中から成果が出ている例を知らせてほしい」という問い合わせが大学当局からあったという話を聞いた。その具体例が「発明した」「受賞した」はいいとして、「ベストセラーを書いた」「有名になった」などと並んでいたらしい。世の中は思ったよりもずっと先に進んでいたようだ。