映画「セルアウト!」――マレーシア華人として生きる決意

東京フィルメックスでマレーシア映画「セルアウト!」(Sell Out!)を観た。
はじめはちょっととっつきにくい印象を受けたけれど、前半のよくわからないエピソードの1つ1つが後半で組み合わさっていくにつれて、ドタバタ喜劇とミュージカルの間からマレーシア華人の苦悩と決意への熱い語りが聞こえてくる。ヤスミン映画のようなどの層にも受け入れられるエンターテインメント映画ではないけれど、別の意味でマレーシア(特にマレーシア華人)に関する必見の映画の1つ。
東京フィルメックスでは明日もう一度上映があり、上映後にヨ・ジュンハン(Yeo Joon Han)監督のQ&Aもあるらしい。日本での一般公開はあまり期待できないので、明日は多少無理してでも観に行く価値はあるだろう。


以下、映画の内容を結末まで書くので未見の方はご注意を。


あらすじは略。
主人公は、テレビ局のレポーターのラフレシアと、大豆から豆乳などの大豆製品各種を作る家電を開発したエリック。ラフレシアアジアン・ビューティで、エリックはイギリス人とのハーフ。


映画のはじめに監督が簡単に映画を紹介していた。「香港人に「マレーシアは何でもコピーキャットだと言われたことがある。その台詞自体が聞きあきたコピーだけれど、でも一理ある。それについての映画。」
ちょっと話はそれるけれど、香港研究者から、香港の人たちは自分たちのことを「華人」と言わないという話を聞いたことがある。香港の人々にとって、「華人」というのは中国世界の外に住む人々のことであって、例えば東南アジアに住んでいるのは華人だけれど、自分たちは中国世界の中の住民だから華人ではない、ということらしい。この認識に従えば、中国世界における純正品は中国世界の中にしかなく、その外にある華人社会には非純正の使い回し品しかないということになる。マレーシア華人は、香港人に「お前たちは使い回し品でしかない」と言われ、あるいはそう言われなくてもそう思われていると気にしている。ではどうすればいいのか。本物を探しに行くのか、使い回しだと開き直るのか。
この監督の言葉を、通訳の方は確か「コピー天国」という感じに訳していたように思うけれど、映画を観おわって考えると「コピー」よりも「使い回し」の方がいいかもしれないと思った。物語の舞台であるフォニーという会社(綴りはFONYで、SONYのパクリ。それとともに、会社がやっていることはphonyそのもの)の社是は台湾の会社の社是をパクったもの。大豆から豆乳ほかの大豆製品を作り出す機会(長いので豆乳マシーンと呼ぼう)の故障装置もよそからパクってこいと言われた。これらの例は「コピー」でも「使い回し」でも同じ。でも、クリニックで死にそうな患者のカルテを使ったのは「使い回し」だし、最後の宴会場でのテレビ中継シーンで舞台に「**さんと**さん、結婚おめでとう」と書かれたままになっていたのは宴会場の「使い回し」だ。ついでに書いておくと、このシーンが撮影されたのはクアラルンプールの中華大会堂で、言わばマレーシア華人の総本山。ここが「使い回し」をしていると言うことは、マレーシア華人社会全体が使い回し社会だという痛烈な皮肉になっている。
マレーシア(特にマレーシア華人社会)には使い回ししかない、つまり純正品はないという批判。それに対して、自分たちが使い回し品ばかりであることは認めた上で、純正品を求めようとするのではなく、使い回しそれ自体に心や愛情を見出していくという決意。劇中で登場人物が突然歌いだすミュージカル部分はまるで喜劇だけれど、その歌詞は自分たちがマレーシアという土地で生きていく決意を熱く強く訴えている。


エリックは純正品の象徴。イギリス人とのハーフで、イギリス人風の英語を話す。マレーシア華人英語を話すフォニーの上司に「何を言っているのかわからん、ちゃんと英語を話せ」と言われて困るエリック。これは不条理と言えば不条理だ。でも、本場に近ければよいというわけではなく、その土地の慣行にあわせたり、数多くの支持が得られるように自分を変えたりしなければならないという訴えでもある。
エリックが豆乳マシーンを開発したときも、オリジナルな着想で開発して、それがずっと壊れないような仕組みにした。しかし、フォニーの上司はオリジナルで永続するものに対してノーを突きつける。壊れなければ誰も買い替えないではないかと。これも不条理と言えば不条理だ。でも、永続するものがあれば、誰もそれを改造したり更新したりしなくなる。永続しないから、そしてよそからアイデアを柔軟に持ってきていいから、さらにそれが人気投票によって淘汰されるから、どんどん新しいものが作られていく。使い回しで何が悪い、カネですべて評価して何が悪い、という強烈な訴えが聞こえてくる。
フォニーの社長室は壁が全面ガラス張りになっている。だから何をしているか外から丸見え。常に他人によって行動が見られている、常に評価の対象となっている社会。そしてそこでの評価は常にカネを生むかどうか。カネを生み出さなければ役立たずの烙印を押されてしまう。そんな社会で暮らしていることの息苦しさをガラス張りの社長室でうまく表現している。
その一方で、ただ競争すればいいわけではないこともさらりと示している。おばさま2人が出かけようとしてタクシーを奪いあい、互いに相手にとられないように相手の一歩前に出ようとしあっているうちに、いつの間にか2人とも目的地を通り過ぎていた。ようやく1人がタクシーをつかまえて行き先を告げると、タクシーはバックする。なんと目的地を過ぎていた。そのタクシーに勝ち誇ったように乗るもう1人のおばさま。でも、乗った直後に事故に遭った大きな音が聞こえる。目的地に到達するという目的を忘れ、タクシーに乗るという手段が目的になってしまったおばさまは、タクシーに乗っても目的が達成されなかった。


エリックが理想的なことばかり言って頭がおかしくなったからと悪魔払いされ、エリックの中からもう1人のエリックが出てくる。出てきたのは夢想家のエリック。これでもとのエリックは正気、つまり現実主義的になった。
このあと、エリックの理想主義的な部分と現実主義的な部分が互いに言い争いになる。現実主義的なエリックが会社で命じられたように豆乳マシーンに保証期間直後に自動的に壊れる故障装置を付けようとするのに対して、理想主義的なエリックは故障装置に反対する。
2人の対立を解消するためにエリックたちが思いついたのが、ラフレシアのテレビ番組に出演してどちらが死ぬべきか視聴者の投票で決めること。視聴者が携帯電話を通じて投票し、番組内で集計される。投票しているのは華人だけでなくマレー人もインド人もいる。発表にあたってラフレシアが「視聴者の投票結果」と言わずに「マレーシアの投票結果」と言っているのは、2人の人物のどちらを殺すかではなく、理想主義と現実主義のどちらをとるのかをマレーシア国民に問いかけているということだ。
国民の選択は、理想主義的なエリックを殺すことだった。理想を殺して現実主義的に生きるというのがマレーシア国民の選択だった。理想主義エリックはいやだと言って逃げ出そうとする。しかし会場(すなわち中華大会堂)に集まっていた人たちは理想主義をとり囲み、押さえつけて殺そうとする。ところが、気がついてみると理想主義的なエリックはどこかに消えていた。どこに行ったかは劇中で明かされないので想像するしかないけれど、もともとエリックの中から出てきたのだから、エリックの中に戻ったと考えるのが妥当だろう。2人のエリックは現実主義的に生きる方が残った。もはや理想と現実の葛藤はなくなった。でも、決して理想主義的な部分がなくなたわけではなく、心の奥底に残っているということではないか。「自分たちは現実社会の中で暮らしていく、でも決して理想を完全に捨ててしまったわけではない」というメッセージではないだろうか。


この映画は盛りだくさんで、ここで書いたもののほかに「リアリティが感じられない日常に生きること」とか「エリックが金を払えないこと」や「エレベーターの背後で起こっていること」などについても考えてみたいけれど、まだ考えがうまくまとまらない。


「セルアウト」というのは「売り切れ」という程度の意味かと思っていたら、音楽業界では「売り上げや知名度を上げるために自分のポリシーを棄てて作品を作ること。魂を売ること」という意味があるらしい。フォニーの上司たちが求めていたのはまさにそれで、ラフレシアはセルアウトしたけれど、エリックはセルアウトするかしないかで葛藤したということだろうか。
この映画にはところどころ流血シーンが挟まれている。それがなくても映画として筋は通るしメッセージは伝わるように思うのだけれど、わざわざ一般公開しにくくなりそうな流血シーンをいくつも入れたりしているのは、「セルアウトというあり方を否定するつもりはないけれど、でも自分自身はセルアウトすることをよしとしない」と自分に課しているという監督のメッセージなのだろうか。


映画の雰囲気は全然違うけれど、マレーシア華人が置かれた状況の息苦しさを描きつつ、そこから逃げ出すのではなく、そこで生きていくという決意が表明されているという点ではホー・ユーハン監督の「心の魔」に通じるものを感じた。
ホー・ユーハン監督と言えば、東京国際映画祭で話をする機会があったとき、次はコメディを撮ると言っていた。ウェブ上の情報によると、「セルアウト!」がマレーシアで上映されたとき、ホー・ユーハン監督はこの映画を観た後でそそくさと帰って行ったらしい。もしかして、「セルアウト!」を観て、こうしちゃいられないと思ったんじゃないかなどと想像してみる。マレーシアの映画人は作品を通じて対話しているんだろうなと改めて思う。