『熱帯雨』

東京Filmexで映画『熱帯雨』を観た。

マレーシア華人で、シンガポール人男性と結婚して、シンガポールの高校で華語を教えながら、家庭では半身不随の義父の世話をして、不妊治療をしつつ夫との冷えた関係を修復しようとするリン。理数系の教師はお金に余裕があるようでいい家に引っ越したけれど、リンは不妊治療にお金がかかっているだろうし、実家への仕送りもあるのでお金に余裕がない。

同僚教師も生徒もみんな英語を話すけれど、リンは学校では英語で話しかけられても華語で通す。でも高校では理数系と英語が重視されていて、華語は同僚教師からも生徒からもその親たちからも露骨に軽視されている。授業で華語の読み書きを教えていても、漢字の読み書きがあまりできないだけでなく、自分の華語名を「忘れた」と悪びれずに言う生徒までいる。

そんな中で、両親が仕事で世界中を飛びまわっていて一人暮らししている生徒のウェイルンは、漢字の読み書きはあまり得意でないけれど、リンの補習にただ一人まじめに取り組む。

生徒たちは華語を軽視しているし華人意識もあまり持っていないようなので、言葉や意識ではかると中華文化を受け継いでいないようにも見える。でもウェイルンは武術を身につけているし、おじいさん世代から漢字を受け継いでもいる。だから、リンは妊娠と出産によって自分の子を持つことはできなかったけれど、中華文化を継承する子と出会うことができた、つまりリンはウェイルンという「子」を持つことができたという話なのかと思って観ていた。

なので、リンとウェイルンが「親子」と違う関係を結んだのには驚いたし、それ以降の話はどう受け止めればよいのか頭を抱えてしまった。想像していた話を違うからではなく、どういうつもりでこの話を書いたのかという製作者の意図を掴みかねて戸惑った。

生徒と教師が一線を越えること自体を咎めるつもりはない。でも、2人は対等な立場ではなくて、仕掛けられた方は外国人だし女性だしで幾重にも弱い立場にいるのに、結果がよければそれでよしといわんばかりの話の展開は、どう受け止めればいいのかもやもやする。前作の『イロイロ』も、まだ幼い子どもだったので半ば微笑ましく見えたとはいえ、いつか帰国する外国人女性に手を出しておきながら別れの痛みを美しく思っているボクという同じ構図に見えてくる。

どういう意図でこの話を書いたのかは、実家に戻ったリンが見せる笑みをどう受け止めるのかと関わっている。リンの笑みの解釈をめぐってあれこれ考えてしまった。

 

開き直って「いつか帰国する外国人女性に手を出しておいて別れの痛みを美しく思っているボク」というシンガポール男子の覚悟を描くことで、そのようなシンガポール男子を生んだシンガポール功利主義と競争社会を描いているということだろうか。 

劇中、テレビでときどきマレーシアのニュースが流れる。公正な選挙を求めるデモの参加者が600人以上も逮捕されて、2007年以来で最大規模のデモになったと報じられている。これは現実世界では2011年7月の出来事だ。夫のアンドリューがおそらく浮気のために外出ばかりしている口実として使った「ポンドの下落で忙しい」というのも2011年半ばから9月頃にかけてのことなので、この物語の舞台は2011年半ばということになる。

2011年は、シンガポールでは総選挙で与党が勝利したものの得票を大幅に減らして、有権者からノーを突き付けられた形になり、「建国の父」リー・クワンユーが内閣から退いた年にあたる。

政治の表舞台から引退して4年後の2015年に亡くなるリー・クワンユーは、リンの義父に重なって見える。おじいちゃん世代であるリンの義父から間接的に武術と漢字を受け継いだ形になったウェイルンは、「建国の父」リー・クワンユーの精神を受け継いでシンガポールの発展を支えているシンガポール男子と重なって見える。できない奴に譲歩しちゃだめだと言うウェイルンは、競争社会で自分が成功することでシンガポールを発展させるという「男らしさ」を体現している存在だ。それによって切り捨てられる人がいたとしても、そのことは発展と成功の代償として受け止めるというのがシンガポール男子の覚悟だと言ったら言い過ぎだろうか。

他方で、外国からシンガポールにやってきて、シンガポール男子の「男らしさ」の実現に手を貸して、役目を終えると自分の国に帰っていくリンたちは、シンガポール男子の「男らしさ」を支えるという意味で「女らしさ」を担わされている。そしてリンの存在は、山ほどあるドリアンが象徴する豊饒の土地であるマレーシアとも重ねられている。

マレーシアに帰ったリンは母親に会う。洗濯したシーツを一緒に絞っている姿をへその緒がついた赤ちゃんを取り出していることと重ねて見れば、リンの母からリンに伝えられた「女らしさ」はリンの子にも受け継がれたということだろうか。シンガポールは切り捨てを恐れずに功利主義と競争社会で常にトップを目指し、それをマレーシアが包み込んで支えているという図式になる。

 

リンは母親と福建語で話している。リンの実家はマレーシアのタイピンにあり、タイピンは客家の地域だ。もちろんタイピンに福建語話者がいても不思議ではないのだけれど、わざわざタイピンと言うのならばリンと母親の会話は客家にすればいいのに、それを福建語にしているのはなぜか。

福建語はシンガポールで広く使われている言葉で、いまの若い世代はほとんど話せなくなっているけれど、おじいちゃんやおばあちゃんが話す言葉という印象がある。撮影上の事情などを無視して想像を逞しくするならば、リンと母親が福建語を使っているのは、リンが実家に戻った後の話はウェイルンの想像だからなのかもしれないと考えてみる。リンが実家に戻って幸せになったというのはウェイルンの想像でした、というお話だ。リンは電話で母親と話しているのでこの解釈はちょっと無理があるけれど、そうでも思わないとリンの笑みは納得しにくい。

 

『熱帯雨』の 英語タイトルの「Wet Season」は、雨季のようだけれど、「rain」ではなく「wet」なので雨季ともちょっと違う。実際に雨が降る時期を指しているとともに、別の意味も重ねられている。一つにはリンの心が晴れない日々という意味だけれど、さらに別の意味も重ねられている。

劇中のテレビニュースでマレーシアの政治情勢が報じられていることは書いた。現実世界でデモと逮捕が起こったのは2011年7月のことだ。シンガポールの雨季は12月頃から2月頃までなので、マレーシアの政治情勢のニュースは時期が違うものが意図的に入れられていて、それが雨季と重ねられているということだ。だとすると、「Wet Season」とはマレーシアの政治が晴れない日々という意味も重ねられているということになる。

リンがマレーシアに戻ると雨が上がって晴れが戻ってくる。劇中ではマレーシアの政治情勢がどうなったかは示されていないけれど、現実世界では汚職疑惑の首相が2018年に総選挙で負けたことを考えると、空が晴れたというのは、マレーシアの政治の不正をただす運動が実ったという意味になる。権力者が非民主的な統治をして市民が苦しい思いをする日々が続くかもしれないけれど、それが永遠に続くことはなく、いつか必ず晴れるときが来る。マレーシアがそれを実現したことを寿ぐとともに、いまなお傘をさして雨から身を守ろうとしているアジアの他地域の人びとに対する秘めた声援にもなっている。それがリンの笑みに込められた意味なのではないだろうか。