インドネシア人ムスリムの結婚

ジャカルタの知人に、人から女性っぽいとよく言われる男性がいる。家に遊びに来るときも玄関から入ってこないで台所から入ってきたり、しゃべるときのしぐさが女性のようだったりと、確かに物腰が女性っぽい。定年退職の年を迎えるまでずっと独身で、もしかして彼は体はたぶん男性だけれど心は女性で、だから女性との結婚という道は考えられないのかと勝手に思っていた。でも、実際は結婚したくて相手を探しているんだとか。
どうして結婚したいのかというと、結婚していないと死んだときにきちんと弔ってもらえないかららしい。独身だと死んでも埋めてくれないで死体を捨てちゃうのよ、というのは大げさに言っているのだろうけれど、死んだ後にきちんと弔ってもらいたい、そのために結婚したいというのは興味深い考え方だと思った。


先日観た映画『アヤアヤ・チンタ』Ayat-Ayat Cintaの原作を読んでいたら、映画では十分に描かれていなかったところがいろいろ書いてあったのだけれど、そこにも死後の弔い方と共通した話があった。
Habiburrahman El Shirazy. Ayat Ayat Cinta. (Republika, 2004.)
以下、映画の結末に関する情報があるので未見の方はご注意を。
『アヤアヤ・チンタ』の映画紹介 イはインドネシアのイ - ジャカルタ深読み日記


アズハル大学で学ぶインドネシア人男子学生のファハリ。安アパートの隣人で、学業などいろいろ手伝ってきてくれたコプト教徒アラブ人の聡明な女性マリア。裕福な家庭で美貌の持ち主であるドイツ国籍トルコ系女性のアイシャ。
以前からよく知っていて、社会階層も似ていて、聡明で、でも異教徒のマリアと、大金持ちで家柄もよく、美しくて、敬虔なイスラム教徒のアイシャ。マリアというのは聖母マリアさまから、アイシャとは使徒ムハンマドの妻の名前から取っているだろうから、それぞれキリスト教女性とイスラム教女性の典型のようなものだ。この2人のあいだで「モテる男はつらいよ」となるのがファハリ。
いろいろあってファハリはこの2人を妻にする。アイシャがファハリとの子を宿したのに対し、マリアは体が弱く、命の炎が消えかかっている。
病床のマリアが、朦朧とした意識の中で見たものを2人に語る。光に満ちた荘厳な御殿の入り口に立ち、ここはどこかと尋ねると、門番が「天国だ」と答える。入ろうとするが、「喜捨した者しか入れない」と言われる。
イスラム教徒しか入れないということなのかもしれないけれど、それを喜捨したかどうかで語るところがインドネシア的というか、しばらく前に訪れたジャワのワリソンゴの墓を思い出してしまった。)
それはともかく、イスラム教徒でないけれどコーランを空で覚えている聡明な女性であるマリアがコーランの章句を詠むと、扉が開いてマリヤムさまが出てくる。(マリアムというのはイスラム教でいうマリアで、したがってマリアとマリアさまが対面したことになる。)
そこでマリヤムさまとマリアが天国について問答を重ねる。要約すると、天国には誰でも入れるけれど、天国に入るにはそのために必要なことがあり、それはアッラー使徒であるムハンマドが人々に伝えてある、ということになる。ムハンマドの教えは知っているけれど、それを守ってこなかったので自分は天国に入れないと知るマリア。
そんなことがあって、意識が戻ったマリアはファハリに頼んで自分をイスラム教徒とするお祈りをささげてもらい、その途中で死んでいく。
だから、幼馴染よりも金持ちで美貌の女性を選んだのかとか、異教徒どうしだと現世でも死後も結ばれないということかとか、この映画にはいろいろと納得がいかない部分が残ってしまうのだけれど、前者はともかく後者は意図的にそう描かれているんだろう。現世では一緒に暮らせたとしても、死後に天国で会おうとしたら、おまえは異教徒だから入れてやらない(その理由が喜捨であるかどうかはともかく)と言われてしまう。それがいやなら・・・と、その先の対応は人それぞれだろうけれど、いずれにしろ自分が死んだあとのことを気にしているというのが興味深い。