イスラム教とテロリズム:映画「3 Doa, 3 Cinta」

いまインドネシアの映画館でかかっている「3 Doa 3 Cinta」を観た。タイトルの意味は「3つの祈り、3つの愛」。またこれもアヤアヤ・チンタ以来はやっているイスラム恋愛ものかと思いながら観てみると、期待していたのとまったく別の意味でとても興味深い映画だった。


書きはじめたら話が長くなる予感がするので先に結論を言っておくと、「3つの祈り、3つの愛」というタイトルは、最近のイスラム映画ブームに便乗して観客を動員しようとする「騙し」すれすれのもの。「3つの祈り」はともかく、「3つの愛」はどこにも出てこない。だから恋愛映画では全くない。その意図は、イスラム教とテロリズムの関係をインドネシア若い人たちに考えてもらいたいというもの。適切なタイトルをつけるとしたら、「僕はテロリストじゃない」あたりかもしれないけど、でもそれじゃあお客があんまり入らないということなんだろう。
インドネシアテロリズムを題材にした映画には、「Long Road to Heaven」などのようにメッセージ性が強く映画としての完成度も高いものもある。ただし、そのメッセージがインドネシアの人々に広く伝わるかどうかは疑わしい。そこで、もう少し地元色を強くしてインドネシアの人々に伝わりやすい形にしたのが「3つの祈り、3つの愛」だ。イスラム教とテロリズムが結び付けられる時代にあって、しかもインドネシアでもバリ島で爆弾事件が起こっていることを受けて、大半がイスラム教徒であるインドネシアの人々はイスラム教とテロリズムの関係をどう捉えるかを真剣に考えている。その結果の1つがこの映画ということになる。タイトルからイスラム恋愛映画を期待すると物語が始まる前に映画が終わってしまうのが肩透かしを食うだろうけれど、インドネシアにおけるイスラム教とテロリズムの関係を考える上では「Long Road to Heaven」とあわせて必見の映画だと言えるだろう。


まずはあらすじ。最後の最後まで書くので映画を観ていない人はご注意を。
舞台は中部ジャワのイスラム寄宿塾。主人公は、フダ、リアン、シャヒドの3人の生徒。1ヶ月後に寄宿塾の卒業試験を控えて、卒業後にどうしようか考えている。寄宿塾に入った理由はそれぞれ違うし、卒業後にやりたいこともそれぞれ違う。でも、父親か母親との関係で問題を抱えていることは3人に共通している。
フダは優等生の堅物で、寄宿塾の先生から、卒業しても寄宿塾に残り、ゆくゆくは自分の娘と結婚して寄宿塾を継いでほしいと声をかけられている。6年前に自分を寄宿塾に入れて行方がわからなくなっている母親をずっと探している。
リアンは実家がカメラ屋で、もともとハンディカムが欲しくてそれをもらう条件で寄宿舎に入った。父親は1年前に亡くなったけれど、母親が約束を覚えていて、卒業間近にハンディカムを贈ってくれた。目につくものを手当たりしだいに録画している。卒業したら実家のカメラ屋を継いで母親の世話をするつもりでいる。
シャヒドは病気で入院している父親の世話をしている。ジャカルタで手術すれば治るけれど、それには莫大な手術費がかかる。手術しなければ一生透析をしなければならず、それにもやはり金がかかる。
まずは寄宿塾での3人の様子が紹介される。寄宿塾での暮らしがわかって興味深い。イスラム寄宿塾というと宗教がかった堅物ばかりというイメージがあるけれど、ラジオでこっそり歌謡曲を聞いたり夜中に無断外出したりもするし、寝ている生徒たちが股間を膨らませたり、リアンが隣の家のお嬢さんをのぞき見したり、男性教師が男子生徒に夜這いをかけたりと、寄宿塾の外の世界にあることは寄宿塾にもたいていある様子が描かれている。それをあえて滑稽に見せているので、はじめはイスラム教恋愛ドタバタ映画という新しいジャンルを作ろうとしているのかと思ったほど。
寄宿塾での先生の説法も何度か紹介される。「キリスト教ユダヤ教には彼らのやり方を押し付けられないように警戒しなければならないけれど、彼らが自分たちに敵対したり傷つけたりしない限りは彼らと敵対したり傷つけたりしてはならない」「キリスト教徒やユダヤ教徒の無実の者を傷つけることは、イスラム教徒を傷つけるのと等しく罪が重い」という先生の言葉が繰り返される。その一方で、近所の別の教師は自宅で夜な夜な秘密講義を開いており、「異教徒であるアメリカ人は我々イスラム教徒を苦しめている」「異教徒を殺せば神に祝福される」と説いている。フダやリアンは寄宿塾の先生の教えと違うからと秘密講義から離れていくが、他人を信じやすいシャヒドは秘密講義にのめり込んでいく。
中盤で、3人の主人公の親に関する「3つの祈り」が解消され、3人とも世間とのしがらみから切り離される。
フダは母親の居場所がわかってジャカルタに母親を訪ねていく。バーでホステスを務めていたが、母親は1年前に亡くなっていた。どうして自分を寄宿塾に入れて母親から離れて暮らすようにさせたのかと責めるフダに対して、母親の同僚だったホステスが、自分たちが生きていくためにとても苦労している姿を大切な息子に見せたくなかったからだと諭し、フダも納得する。墓参りした後で寄宿舎に帰ったフダは、箪笥の扉に貼って6年間ずっと見続けていた母親の写真を木箱に入れ、釘を打って封印する。母親の墓碑に2000年に亡くなったと記されていることと、母親が1年前に亡くなったという話から、この物語の舞台が2001年であることが示される。
リアンは、母親に再婚相手を紹介された。父親を亡くし、自分が母親を世話しようと思っていたところ、母親は自分の世話をしてくれる人を見つけてしまった。母親に裏切られたような気持ちはあるけれど、でも母親を世話するという責任からは解放された。
シャヒドは父親に透析を受けさせる費用をねん出しようと父親の田んぼを売ることにした。アメリカ人が工場を作るために土地を買いたがっているというので土地を売ってお金を作ったけれど、それでも2週間分の透析費用にしかならない。もはやこれまでと覚悟を決め、秘密講義を開いている先生の「異教徒を殺して天国に行く覚悟があるものはいないか」との呼びかけに手を挙げてしまう。その晩、リアンのハンディカムをこっそり持ち出して、「みんながこれを見ているころ、私はすでに天国にいるだろう」に始まる自爆テロのジハード宣言を録画する。ところが、ここからがいかにもインドネシアらしくておもしろいところだけれど、土地を買ったアメリカ人が父親の病気のことを知って手術費用を出してくれることになり、まだこの世でやるべきことが残ったからと、秘密講義の先生に「やっぱり異教徒攻撃をやめます」と言いに行く。
こうしてそれぞれ父親・母親の世話をしなければならないという責任から解放され、それぞれのこの社会の中での生きる道を考える始めたところで、アメリカでWTCに旅客機が突入したことをテレビで知る。秘密講義を開いていた先生がテロリズムに関わっていたとして逮捕され、そこに出入りしていたシャヒドをたどってこの寄宿塾も調べられると、リアンのハンディカムにシャヒドのジハード宣言が入っていたため、3人と先生がテロリストとして収監されてしまう。
この後は話を端折ったように急展開を見せる。シャヒド以外は釈放され、先生は亡くなるが、フダが先生の娘と結婚して寄宿塾を受け継ぐ。シャヒドも釈放されて、フダの結婚を祝福する。その数年後、フダがテレビを見ているとバリで爆弾事件が起ったことがニュースで報じられ、そのまま終劇。


この映画の最大の謎は、「3つの祈り、3つの愛」というタイトルだろう。「3つの祈り」は3人の主人公たちの父親や母親との関係における祈りだというのはいいとして、「3つの愛」はどこにあるのか。フダが最後に先生の娘と結婚したのでそれかなと思うけれど、先生の娘は映画ではほんの何回か顔を見せるだけでろくに台詞もない役どころで、この映画のメインでないことは明らか。
映画のポスターは、フダとドナの男女間の愛情がテーマであるように見える。
http://www.3doa3cinta.com/
ドナは地方を巡業している劇団で歌っているダンドゥッド歌手。もともとこの地方の出身で、巡業でまわってきたので母親の墓参りをしているところをフダと出会い、ジャカルタに知り合いがいるというのでフダが母親の居場所を探してもらうやり取りをするうちに親しくなる。途中でなんとなくあやしげな雰囲気になりかけるし、ドナがふざけてフダにキスするシーンもあるけれど(堅物のフダが動揺するのが笑いどころ)、でもこの2人はどうなるわけでもないし、どうにかなるかもしれないという余韻を残すわけでもない。第一、フダはドナのことをずっと「おばさん」って呼びかけているんだから、愛がはぐくまれると考える方がおかしい。
仮にその2つを「愛」だとしても、残る1つの「愛」はどれなのか。まさか、生徒に夜這いをかけていた先生と男子生徒のあいだの禁断の恋というわけでもあるまい。無理にこじつければ、宗教、国家、家族への愛だとかイスラム教、キリスト教ユダヤ教への愛だとかも言えなくはないかもしれないけれど、どれもとても苦しい。ということで、この映画に「3つの愛」なんて全然出てこないと断言してしまおう。それなのに「3つの祈り、3つの愛」としたのは、今はやりのイスラム恋愛映画だと思わせて若い男女に劇場に足を運ばせようという魂胆からだとしか考えられない。
これほほとんど「騙し」のようなものだ。あとでネット上で予告編をみたら、「騙し」を意図的にやっていることがはっきりした。映画で本筋とあまり関係ないシーンがいくつかあったように思ったけれど、それらを抜き出して並べたのが予告編になっている。予告編だけ見ると、母親を探している敬虔なムスリム青年のフダが、超ミニで腰をくねくねさせて踊るダンドゥッド歌手のドナと出会い、母親、イスラム教の教え、ドナの三者の間で葛藤する物語であるかのように見える。
ただし、「騙し」の意図は単なる金もうけではなく、テロリズムに対する自分たちのメッセージをインドネシアの若い人々に伝えようという思いからだろう。だから、最後にとってつけたようにフダが先生の娘と結婚して、バリの爆弾事件がテレビで報じられて終わるという、ラブストーリーとしてはハッピーエンドのようでいて、でもテロリズムの物語は全くどこにも着地しないまま突然幕を閉じる。あとは自分たちで考えろということか。頭を整理するには「Long Road to Heaven」などを観なおす必要がありそうだ。この映画を観たほかの人たちも、家に帰ってこの映画のことをあれこれ考え込んでいるのだろうか。