「ムクシン」――創作と現実の境界を溶かす試み

「ムクシン」では、オーキッドとジェイソンの恋の行方のほかにも、「細い目」や「グブラ」で未解決だった謎がいくつか解かれている。
たとえば、ムクシン少年はオーキッドに友達のしるしとして「ずっと髪の毛を切らないで」とお願いする。そういえば、「細い目」でも長めだったオーキッドの髪は「グブラ」でさらに長くなっていたが、これは初恋の相手ムクシン君のお願いだったわけだ。実生活でそれを言われた(?)ヤスミン監督は、もちろん生身の人間なので髪を切らないわけにはいかないだろうけれど、そのお願いは今でも覚えていると伝えたかったということだろうか。
(もっとも、オーキッド役のシャリファ・アマニは、ヤスミン監督の次回作で髪を剃って坊主頭にしてしまったらしい。これについての記事はhttp://aisa.ne.jp/musicraja/blog/index.php?eid=393を。)


「ムクシン」では、ヤスミン監督の個人的な物語があちこちに顔を出す。その際立った例が、「ムクシン」の物語がいったん幕を閉じた後のシーンだろう。スタイルよく決めたおじいさまがオルガンを弾き、その隣でかわいらしいおばあさまが楽しそうに歌っている。画面が引いていくと、2人の後ろに女性が2人並んで立っている。その一方がヤスミン監督だと気づけば、老夫婦はオーキッドの両親のモデルとなったヤスミン監督のご両親で、ヤスミン監督の隣の若い女性はヤスミン監督の妹のオーキッドさんなのだろうと想像がつく。つまり、現実のヤスミン監督一家が登場してしまったのだ。
さらに画面が引くと、この映画の制作に関わった人たちが役者もスタッフも次から次へと集まってきて、ヤスミン一家を囲んで賑やかに歌いだす。なかにはそれを撮影しているカメラを覗き込む人まで出てくるしまつで、明らかに映画の撮影が終わって打ち上げのお祭り状態の雰囲気だ。ここまでくると、観客は、それが「ムクシン」のストーリーとどう関わっているのかがわからず戸惑うことになる。
これは、「細い目」にはじまって「ムクシン」まで続くオーキッドの物語が、決して「現実にない」世界を描いたのではなく、いまここにある現実の一家の物語を描いたのだということを強調したかったのではないだろうか。
私は、「細い目」も「グブラ」も「現実にないマレーシア」を美しく描いた作品であり、そこにこそこの作品に人々が惹かれる原因があると考えている。私の意図は、「現実にないものを描いたのだから価値がない」というものではなく、むしろ逆で、今はまだ現実にないけれど、いずれ現実となってもおかしくないという意味で「もう1つのありうるマレーシアの姿」を描いているという点にある。決してその価値を否定するつもりで言っているのではなく、むしろその逆だということはご理解いただけると思う。
ただし、マレーシアでは、ある映画が描いたものが現実とは違うとされると、その映画は価値がないと見られる傾向が確かにある。それでは映画が映画にならないじゃないかという声も聞こえてきそうだが、少なくとも社会の主流派に対して批判的に切り込もうとすると、その種の言い方による防御が働く傾向があるとは言えるだろう。
ヤスミン監督の作品に対しても、それを好ましく思わない人々から「現実のマレー人ではありえない」という批判がなされたと聞いている。それに対し、「映画が現実でなくて何が悪い、いつか現実となりうる可能性の1つを描いたのだ」と強く反論する道も可能性としてはあっただろうと思うけれど、ヤスミン監督はその道をとらなかった。
おそらくヤスミン監督は、役人や宗教家たちを敵にまわすことは恐れなかっただろうけれど、普通の人々に作品を通じてメッセージを伝えることを優先したのではないか。もし監督自ら「現実ではない」と認めた場合、今のマレーシアでは「現実でないから観る価値がない」とみなされてしまう恐れがある。不要な誤解を避けるため、「これは現実にある話なのだ」と強調したのではないだろうかと思う。
ヤスミン監督はマレーシア人相手ではなくもっぱら外国人相手に映画を作っているという批判があるそうだが、そうではなく、マレーシアの一般の人々にメッセージを伝えようとあの手この手で努力していると見るべきだろう。外国人に評価される作品を作るというのも、外国で評価されることを通じてマレーシアの人たちに関心を持ってもらうための手段の1つなのだろうと思う。
(この記事は「malam−マレーシア映画」の2007年7月3日付けの記事からこの場に引っ越したものです。)