ヤスミン作品と「翻訳可能性」

クアラルンプールでは「タレンタイム」のDVDはまだ売られていなかったが、「タレンタイム」のサウンドトラックCDを見つけた。ハフィズやメルーがタレンタイムで歌った歌が収録されている。しかも、それぞれの歌が英語とマレー語で収録されている。これを聴いて思ったのは、ヤスミン作品はやはり「細い目」から「タレンタイム」まで(そしておそらくその後作られるはずだった作品も含めて)全体で1つの作品だということ。同じメッセージが形を変えて繰り返し訴えられている。
同じ歌を英語とマレー語で歌い、どちらも魅力的な作品に仕上げていることで思い出すのは、「細い目」でジェイソンが中国語で詩を書くと聞いて、オーキッドが「今度あなたが中国語で書いた詩を聞かせて。翻訳して、でもロマンチックさは残したままでね」とお願いしていた場面だ。ジェイソンは劇中で直接オーキッドに詩を伝える機会を失ったが、ジェイソンにかわってタレンタイムの歌で「違う言葉に翻訳するけれど心に訴える部分は失わせない」を実際にやって見せたということになる。
この「翻訳可能性」は、「細い目」以来のヤスミン作品を理解する上での1つの重要な鍵になっている。「細い目」では、オーキッドの母親が中国語のドラマを字幕で熱心に観ているのをからかって、父親が「言葉もわからないのにどうしてそれほどの宗教的熱意を持ってテレビが見られるのかさっぱり理解できん」と言っている。そういう自分はこれから夕刻の礼拝をしようとしていて、「宗教的熱意」で動いているのは自分なのにそれを相手に言っているのがおもしろいのだけれど、その裏には、アラビア語がろくにわかりもしないのにコーランを熱心に読んでいるイスラム教徒に対する皮肉も込められている。念のために書いておくと、お祈りすること自体への皮肉ではなく、言葉がわからないために内容が十分に理解できていないのにアラビア語を「神の言葉」としてありがたがり、「コーランは他の言語に翻訳不可能だ」とアラビア語を神聖化する一部のイスラム教徒への皮肉だ。
「翻訳すると言外の意味が失われる」という言い方があるが、よい翻訳であれば決してそんなことはないというのがヤスミン監督のメッセージだ。ヤスミン作品で、東洋風の音楽にあわせて西洋風の踊りを踊ってみたり、いろいろな宗教の祈りの言葉を並べてつなげてみたりというのも、みんな「翻訳可能性」に関わっている。人間の頭にあることは、ちゃんとやればどの言葉でも翻訳可能で、だから誰にでも伝えることができるはず、ということだ。
このことをもう少し掘り下げると、「細い目」のなかで何度か出てくる「代用品」という言葉のの意味がわかってくる。ジェイソンが小学校時代に気になった女の子がいたと言ったとき、オーキッドは「私はその代用品ってわけね」と尋ねている。ヤスミン作品の登場人物は、自分たちが何かの「代用品」であることを嫌っていた。ただし、「代用品」でありたくないということは、自分たちが「純正品」でなければならないという意味ではない。ここではないどこかにオリジナルがあって、自分たちはそのオリジナルからどれだけ逸脱しているかによって純粋さが計られる存在だということではなく、今ここに存在すること自体が自分たちが「本物」である証だという考え方だ。
マレーシア社会は、イスラム、中国、インド、西洋など世界のさまざまな文化・文明を背負った人々から成り立っている。どれも文明の発祥地から見ると「周縁」に位置し、中心でのあり方からみれば逸脱した様子が見られる。たとえばマレー人はアラブ人のような頭からすっぽりかぶった服を着ていない。華人には漢字が読めない人がいる。英語を話す人もちょっと変わった英語を話している。これらはみんな、文明の発祥地を基準にして、そこにある「本物」からどれだけ逸脱しているかという評価のしかただ。これに対して、発祥地でのあり方とは異なっているけれど、でも多様なものが混ざって1つの社会を作り出しているという意味ではマレーシアで実践されていることがそれぞれ「本物」であって、だからマレーシアらしさに誇りを持つべきだというメッセージになる。
このように、混ざっているからおもしろい、混ざっているから本物だ、というのがヤスミン監督が繰り返し発していたメッセージだった。
「混ざっているからおもしろい、混ざっているから本物だ」という考え方は、シンガポールのプラナカン博物館のあり方に通じるものがある。前にも書いたが、そこでは訪れる人々が自分の中にあるプラナカン性(混血性)を自覚させられるような作りになっている。ヤスミン監督も、マレーシア社会だけでなく、ヤスミン監督自身についても「混血性」を積極的に語ろうとしていた。「タレンタイム」では父方の祖母をイギリスから呼び寄せている。「勿忘草」では母方のルーツが日本で辿られるはずだった。ヤスミン作品は、何でも民族別で語ろうとする半島部マレーシア社会の常識を全部ひっくり返して、マレーシア社会を何でも混血性で語ることを常識にしてしまうほどのパワーを秘めていたかもしれない。