ヤスミン・アフマド本・続編とヤスミン記念館別館

マレーシアの故ヤスミン・アフマド監督の遺族と元同僚が中心になってヤスミン監督の思い出を語る本「Yasmin How You Know?」が出版されて6年が経った。日本語に翻訳してと言われて、そのうちにと言っているうちにヤスミン本の第二弾が刊行されることになった。タイトルは「Yasmin I Lup Chew」。「I lup chew」はヤスミン風の「I love you」の言い方。誰から誰への「I love you」なのかは読んでのお楽しみ。ヤスミン監督の手書きのメモや昔の写真などが載っていて、ヤスミン研究にとっても貴重な資料となっている。


これに関連して3つ。


2018年9月21日にクアラルンプールの紀伊国屋書店で出版記念式が行われて、このときにエドモンド・ヨウ監督の「ヤスミンさん」が上映される。


「Yasmin I Lup Chew」は本で、確か定価50リンギで販売されるはず。それと別に、コレクター版が限定200部販売される。「グブラ」でジェイソンが靴箱に手紙や写真や本の思い出を入れていたことにちなんで、靴箱の中に「Yasmin I Lup Chew」の本と写真アルバムと新聞と手書きメモと・・・といろいろ入っている10点セット。値段は299リンギで安くはないけれど、これは本当に200部限定なのでほしい人はお早めに。


本の刊行と並行してヤスミン記念館の別館の開設準備をしてきて、そろそろオープンする見通し。場所はイポーではなくCyberjayaのTamarind SquareにあるBookXcessという書店内。

『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民・・・』

話題としては前回の災後の話と2つ前のインドネシア東ティモールの映画からの繋がりで、災いで予期せずに身近な人を失ったときにどうやって弔うかという話。
バリ島爆弾テロを扱ったインドネシア映画『天国への長い道』(『楽園への長い道』の方がいいかも)では、目の前の遺体の身元を調べて名前付きで送り出すことでその犠牲者を弔うとともに、そこによって米国同時多発テロの犠牲になって遺体が見つからないまま空の棺を埋葬するしかできなかった恋人への弔いの気持ちが満たされる。
インドネシア軍による占領期に家族・親戚や親しい人が虐殺された東ティモールで、残された女たちは、戦争とはそういうものだから起こったことに対する憎しみの感情はない、でも家族・親戚や親しい人が生きているのか死んでしまったのかを知りたいし、もし死んでいるのだとしたら遺骨がどこにあるのかを知りたいと話したという。
アチェ津波被災地では、目の前に身元不明の遺体がたくさんある一方で、死んでいるとしたら遺体がどこにあるのかまったくわからないまま家族・親戚や親しい人との連絡が取れない状況で、残された人々は目の前の身元不明の遺体を身近な集団埋葬地に埋葬して、12月26日には最寄りの集団埋葬地にお参りした。そうすることで、自分の家族・親戚や親しい人が亡くなっていてもきっと身近な人が埋葬してお参りしてくれているはずだと思うことができた。
バリと東ティモールアチェの弔いの話におおよそ共通しているのは、会えなくなった人の生死を知りたいし、死んでいたら遺体を見つけて埋葬したいし、それがかなわないならせめて遺骨がどこにあるか知りたいし、遺体や遺骨に本来の(生前の)名前を与えてあげることで弔いたいという思いだ。それは人間社会だったらどこでもだいたい同じなんだろうなと思っていたら、そうではない社会もあった。しかもけっこう近い場所に。
『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』という長いタイトルの本は、著者の奥野克巳さんがボルネオ島カリマンタン島)の狩猟採集民プナンと一緒に暮らしながら感じたさまざまな違和感を洗い出して、なぜプナンがそんなことをするのかという内在的な理由を考えるとともに、なぜそれに違和感を抱いてしまうのかという自分の内在的な理由も考えるという本だ。軽い文体で書かれているのでさらっと読み進めることができるけれど、現場では、1つ1つの違和感の理由をいろいろ考えて、あるときはっと閃いて自分なりに納得がいく理由に思い至るまでにはけっこうな時間と手間がかかったはず。その試行錯誤の過程を見せるという書き方もできただろうけれど、プナンの人々と私たちとで見せたい/見せてもいいと思っているものと見せたくない/見られたくないと思っているものが違っているように、過程を見せずに結果で語るのがプナンと過ごした奥野さん流なのかとも思う。
私もボルネオ島の別の人々と多少付き合いがあるけれど、私がふだん付き合っているのは、世界各地から来る文明・文化を何でも取り込んで、杓子定規に従っているように見せて実際には換骨奪胎して自分たちの思う通りにしてしまうという人たちで、私はそこに戸惑いと魅力を感じるのだけれど、『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民・・・』を読めば読むほどプナンは私が馴染んでいる人たちと好対照だと思えてくる。
この本ではそんなプナンのいろいろな営みが紹介されていて、特に興味深く読んだのが弔いの話。プナンは、人が死ぬと、日本人のように死んだ人に戒名を与えたりせず、残された家族が一時的に名前を変えるのだという。現在でも続くこの習慣を「デス・ネーム」と呼んでその研究にとりつかれてしまった人類学者の話や、身近な死者の遺品を焼き尽くして死者の痕跡が一切見えないようにするプナンの話が紹介されていて、死者と名前と遺品と弔いの話は奥が深い。

災後7年目の物語『海を駆ける』

今週末から深田晃司監督の『海を駆ける』が公開される。2004年12月のスマトラ島沖地震津波インド洋津波)の最大の被災地で、30年続いていた内戦が津波被災を契機に終わったアチェ州の州都バンダ・アチェとその沖のウェー島(サバン)が舞台。
最大の謎は、混成アジア的なディーン・フジオカ演じる謎の男ラウの正体と、ラウが行く先々で巻き起こすことにどのような意味があるのかということ。それは映画を観た人がいろいろ考えて眠れなくなる問題で、私なりの解釈もあるけれど、そこれはまだここでは書かない。
かわりに、アチェ津波被災地につきあってきた経験から『海を駆ける』を観て思うことを書いておこう。ネタバレはないけど(『海を駆ける』は何を説明してもネタバレにならない作品だと思うけれど)、読んでも『海を駆ける』を理解する助けにはほとんどならない。


海を駆ける』の七不思議の1つは、なぜわざわざアチェで撮影したのかということ。物語の舞台がアチェなのはわかるけど、だからといってアチェで撮らなくてもいいはず。
アチェは、海のシルクロードの時代は東南アジアからインド洋に向けて開かれた玄関口だったけれど、植民地化と独立によって首都を中心とする政治経済の時代になるとインドネシアの西のはずれの土地という扱いになった。首都から遠くてどんな人が住んでいるのかよくわからないし、歴史的に反乱や紛争が多くて危険なイメージがあって、インドネシアの中の外国扱いされたりもするほど。バンダ・アチェにはずいぶん前から映画館もないし、全国レベルで流通するような映画を作る施設も環境も整っていない。
そんなアチェで映画を撮るなんて大変だろうから、インドネシアの別の場所で撮影して、それを「アチェの物語です」と見せてもよかったはず。映画ってそういうものだし。なのにわざわざ日本とインドネシアの大勢のスタッフがアチェ入りして本当にアチェで撮影した。これにはインドネシア人スタッフもアチェの人々もびっくりしたに違いない。


そこまでアチェで撮ることに思い入れがあるのなら、アチェのどんな姿を映すのかなと思って観てみると、『海を駆ける』には、アチェ津波被災地が舞台だと聞いてアチェ通の人が思い浮かべるだろう2つの風景が映っていない。イスラム教の象徴と津波被災の象徴で、どちらもアチェの観光プロモーションビデオに真っ先に出てきてもおかしくないランドマークだ。それが出ていないのが『海を駆ける』の七不思議の2つ目。
この2つが映っていないことは、現場での技術的な理由などもあったのだろうけど、そこをぐっと深読みするならば、『海を駆ける』が「災後7年の物語」というジャンルの作品であることと密接に関わっている。


「災後7年の物語」というジャンルについては説明が必要だろう。
アチェでは毎年、津波が起きた12月26日に追悼式典を行っている。津波から7年目となる2011年12月26日の追悼式典でアチェ州知事が行った演説が印象に残った。自分たちはかつて内戦で互いに殺し合った経験を持つ社会で、それがなければ津波が来ても犠牲者を減らすことができたはずだったこと。そして、2004年の津波で大きな犠牲を出した自分たちが津波災害について世界にしっかり発信していれば、その年に日本で起こった震災・津波でも被害を減らすことができたかもしれなかったこと。州知事はこの2つを挙げて、内戦と津波という2つの大きな災厄を経験した自分たちが世界に背負った責任を十分に果たしてこなかったことを悔いた。
これと同じ頃、アチェの人たちは自分から被災の話を語るようになり、人が集まるところでは即席の被災当時の写真展が開かれた。
私はこの様子を見て、アチェは復旧・復興に一区切りついて社会が新しい段階に向かおうとしていると感じた。
大きな災厄が起こると公的な復旧・復興が進められるけれど、いつまでも続けるわけにはいかず、一定の時間が経つと公的な復旧・復興には区切りがつけられる。復興住宅が建って木々が茂って、表面上は災厄があったことがほとんど見て取れないほどに復旧・復興が進むけれど、そこに住む人々の暮らしや個人の心の中で災厄への対応に区切りがついたわけではなく、一人ひとりが災厄の経験を抱きしめて暮らしている。それは災厄の発生直後からもそうなのだけれど、はじめのうちは公的な復旧・復興の部分が大きくて、個人の部分は外からあまり見えない。公的な復旧・復興が一区切りつくと、それまで見えていなかった部分が見やすくなって、人々が個人の思いを表明する様子がいろいろ見えてくる。
このように、社会全体で取り組む復旧・復興が一区切りついて、個人が災厄の経験を抱きしめて暮らしている様子が見えるようになった状況を「災後7年」と呼んでいる。
ただし7という数字に科学的な根拠はなくて、6年でも8年でもいいかもしれないし、社会や災厄によって違うかもしれない。でも、関東大震災の後で復興局が改組されたのも第二次世界大戦GHQが廃止されたのも7年目なので、7年というのは社会の違いを超えて共通する何かがあるのではないかという意見もある。


話を戻すと、『海を駆ける』は、アチェ津波被災地が舞台で、しかも全編アチェで撮影しているにもかかわらず、アチェのランドマーク的な2つのものが映っていない。
その1つは、見てすぐわかるような津波の爪痕、あるいはそれをそのまま残している津波遺構だ。『海を駆ける』では、政府による復興事業はすでに終わっているけれど、個別に話を聞くと津波で失った家族の影を今でも追ってしまう人もいる。そこで描かれているのは、物理的な復旧・復興は進んでいるけれど一人ひとりの心の整理はついていないという「災後7年の物語」にほかならない。
もう1つはイスラム社会の象徴の大モスクだ。津波が押し寄せてきたときに人々は大モスクによじ登って難を逃れたという。ところが現在のバンダ・アチェの大モスクは2011年と姿が大きく変わっており、これを映すと2011年のアチェにならない。『海を駆ける』に大モスクが映っていないのは、2017年のアチェで撮影しながらも、スクリーンには2011年のアチェを映そうとする意識が働いたからではないだろうか。


深田監督がアチェを始めて訪れた2011年は、ちょうど「災後7年目」にあたる。支援団体の撤退後の後片付けがされている一方で、アチェの人びとが思い思いに自分たちの物語を語り始めようとしはじめた時期で、その意味でちょっとした活気があった。
各国の赤十字赤新月社が撤退して、支援事業中に本部だった場所に赤十字赤新月社の活動の様子が展示されていた。小部屋に津波で犠牲になった遺体が身に着けていた身分証明書が壁に整然と並べられていたのが印象的だった。そして12月26日に人々が集まる集団埋葬地やモスクには津波被災の写真を貼った即席の写真展ができた。
深田監督はその雰囲気をうまく掴んで、それをスクリーンの中で再現しようという気持ちが働いたのではないだろうか。『海を駆ける』を観ると、登場人物の振る舞いや関係が2011年ごろのアチェを思い出させる。
その状況で現れたのがラウだとするとラウの正体についてもさらに考えが巡りそうだけれど、それはまた別の機会に。


アチェ津波被災から7年目の状況を捉えた『海を駆ける』は、東日本大震災から7年目の2018年に日本で劇場公開される。震災・津波そして原発災害から7年が過ぎ、制度面で復興に区切りをつけて別の方向に向かおうとする動きが出てくる中で、一人ひとりの問題が解消されないまま残っているという「災後7年目」の状況に改めて思いを巡らせ、それを社会全体の課題として私たちがどのように関わるべきかを考えさせる。


アチェ津波から7年目の様子をもう少し詳しく知りたい人には
京都大学学術出版会:被災地に寄り添う社会調査
の本を紹介しておこう。
専門書はちょっと敷居が高いという人にもお手頃な定価700円。カラー写真が豊
富なので、アチェに行ってみたいという人が旅行前に読むガイドとしてもお勧めできる。深田監督が2011年にアチェを訪れたときに遺体写真が掲示されていて驚いたという津波教育公園の説明もある。


アチェの被災・復興や、被災前の歴史についてより詳しく知りたい人は
京都大学学術出版会:災害復興で内戦を乗り越える
の本を紹介しよう。
津波に被災したアチェの人々はなぜ笑顔か」という問いに答えようとした専門
書で、津波犠牲者の弔いやアチェインドネシア)の死生観に関心がある人に特にお勧めしたい。小説版『海を駆ける』で公園に置かれた飛行機のレプリカの話や、深田監督が2011年に参加したアチェの国際会議のことも書かれている。

インドネシアと東ティモールの映画と「海を駆ける」

インドネシア東ティモールの映画を題材にした上映会とシンポジウムを企画中。開催1か月前になり、もうお知らせを始めてもおかしくないのだけれど、最後のところでちょっと止まっているので半分だけ告知。


5月18日(金)の午後2時頃から8時ごろまで、会場はおそらく東京・新宿区。
上映するのは「天国への長い道」(Long Road to Heaven、2007年)と「ベアトリスの戦争」(Beatriz's War、2013年)の2つ。たぶん「天国への長い道」を2時ごろから上映して、シンポジウムを挟んで「ベアトリスの戦争」は6時ごろからの上映。


「天国への長い道」は、2002年のバリ島爆弾テロ事件を題材に、イスラム教の名によって行われたテロをインドネシアがどのように受け止めたのかを扱った作品。1つの事件を4つの視点から描くことで憎しみの連鎖を断つ道を探る。四方田犬彦の「テロルと映画」でも紹介されている。
「ベアトリスの戦争」は、2002年にインドネシアから独立した東ティモールが舞台。内戦の混乱で行方不明になった夫が16年ぶりに村に戻ってくるけれど、ベアトリスはその男が自分の夫であると自信が持てない。東ティモールで制作されたはじめての長編映画


インドネシアは2002年に2つの大きな喪失感を経験した。そしてその2年後にスマトラ島沖地震津波インド洋津波)でアチェを中心に大きな喪失を経験した。
2つの作品の上映の間に、2人のインドネシア地域研究者をパネリストに迎えて、2つの作品の作品解説とともに、インドネシア社会が喪失をどのように受けとめようとしてきたかについてのパネルディスカッションが行われる。パネリスト2人はどちらもアチェ津波被災地とゆかりがあるので、話はバリ島爆弾テロ事件と東ティモールの独立からアチェ津波に移っていって、特別ゲストを交えて「海を駆ける」の話になる予定。特別ゲストは「海を駆ける」の関係者の日程を調整中。ただしディーン・フジオカではないので念のため。


海を駆ける」はスマトラ島沖地震津波の被災地であるアチェ州のバンダ・アチェとその沖にあるウェー島のサバンが舞台。観客向けにいろいろな謎が仕掛けられている。
細かい仕掛けを含めていろいろ見どころはあるけれど、個人的に特に印象に残ったのはタカシ役の太賀の演技。インドネシア語のセリフもほんとにインドネシアの若者っぽいし、なによりも食事中や何気ない仕草が本当にインドネシアの若者を見ている気になる。
物語は「ほとりの朔子」の後日談のようにも思えるけれど、直接の物語は「いなべ」と重なる部分が大きい。「海を駆ける」にあわせて「いなべ」を上映してくれるところはないだろうか。


追記.
シンポジウム・上映会の情報が公開された。
東京シネアドボ「喪失の中の祈りと覚悟 映画が映す東南アジアの内戦・テロと震災・津波」(2018年5月)

『クソ野郎と美しき世界』

クソ野郎と美しき世界』を観た。上映している劇場数はそれほど多くなくて、しかも気を抜いているとすぐに満席になってしまうので、ようやく観ることができた。稲垣吾郎シネマナビ!で『タレンタイム』を紹介してくれた一宿一飯の恩。


自分が大切にしているものが失われたときにそれを取り戻そうと追いかける話。
大切なものだからこそ取り戻して自分の手元に置いておきたい。でも、大切なものが今の場所にうまく収まっているなら、そこにあることを見守りたい。愛と独占欲は葛藤するものだけど、それを気持ちの上で両立させようとする危ういバランスというか清々しさが感じられた。とっても大切なものだけれどそれはあるべきところにあってこそ輝くのであって、どんなに大切に思っていても自分だけの手元に置いて独占してしまったら輝きが失われてしまうことがよくわかっていて、でも大切だから自分の身近なところに置いておきたくて、という気持ちが葛藤してどこまでも追いかけていく。熱烈なファンのことを「追っかけ」と言うのと重なって、「追っかけ道」とでも呼べそうな清々しさが感じられるほど。


深田晃司監督の『歓待』で最後に闇に消えていった花太郎とアナベルが再会していたのでちょっと心が温まった。

インドネシア映画『Turah』

インドネシアで劇場公開中のインドネシア映画『Turah』を観た。
『聖なる踊子』で助監督をつとめたウィスヌ(Wicaksono Wisnu Legowo)の長編初監督作。プロデューサーは『聖なる踊子』『黄金上秘聞』『チャドチャド 研修医のトホホ日記』などのイファ・イスファンシャー監督。
物語の舞台はウィスヌの出身地である中部ジャワの北海岸のテガル地方。テガル出身者やテガル方言に馴染んだ舞台俳優を集めて、ほぼ全編を通してセリフをジャワ語のテガル方言にした。インドネシア語で話すのは役人、警官、記者だけ。インドネシアの劇場での公開時はジャワ語のセリフにはすべてインドネシア語の字幕が付けられた。
キアロスタミ作品に強く影響を受けたウィスヌの最初の脚本はあまりに暗いからと受け入れられず、イファのアドバイスも受けて書き直していくうちに今回の脚本に落ち着いたのだとか。
インドネシアシンガポールの映画祭でも受賞しており、日本でもいずれ何らかの形で公開されるのではないかと思う。雰囲気は東京国際映画祭があっている気がする。


舞台は中部ジャワのテガル地方のティラン(Tirang)村。海岸近くの洲で、電気も水道もない。熱を出した子どもが手遅れで死ぬことも珍しくない。数世帯の村人が暮らしており、地主のダルソから仕事をもらって日々の生活を送っている。
ダルソは、いつもにこにこ顔で家々をまわっては村人たちの様子を見て、「困ったことがあれば遠慮しないで何でも言ってくれよ」と声をかけるけれど、心の中では村人のことを何とも思っていない絵に描いたような悪徳地主。その手足となって現場で物事をまわしていくのがこれまた絵に描いたような腰巾着のパケル。でも村人は、日々の暮らしが大変だとは思いながらも、仕事をまわしてあれこれ世話を焼いてくれるダルソに感謝している。
生きてはいけるけれど先が見えない状況を何とかしたいと思いながらも、ジャダグとトゥラは対照的な考え形をする。ろくに仕事もせず酒を飲んだくれて妻から半ば愛想を尽かされているジャダグは、働いている自分たちはいつまでも貧しいままなのに元手を出すだけで実際に働いていないダルソばかり儲けているのはおかしいと言い、村人の前でダルソ批判の演説をはじめる。自分にできる仕事をまじめに取り組んでいけばきっと問題は解決すると信じるトゥラは、対立は何も解決しないとジャダグを説得しようとする。
ジャダグの主張する内容がいかにも教条主義的で、これが植民地統治期の話だったら、トゥラのやり方では解決できない大きな悲劇が起きて、それをきっかけに人々がジャダグの考えでまとまって一致団結してダルソに対抗して、という筋書きが見えてきそうだが、舞台を現代に移すとそう簡単に物事は進まない。後半から結末にかけての展開をどう受け止めるのか、インドネシア人にもそうでない人にもいろいろと聞いてみたい。


劇中の表現に関連していくつか。
作品タイトル「Turah」は登場人物トゥラの名前と同じ。ジャワ語で「残りもの」という意味。どんな意味を込めたのかは監督に聞いてみたい。
ジャダグが酔ってダルソの悪口を話しているとき、左手をグーの形にして右手のパーでそれにふたをするような仕草をしていた。日本だと茶つぼの手遊びに出てくる仕草。マレーシアでは人前でやると白い目で見られる仕草で、マレーシアで茶つぼ茶々つぼをやると日本にはどうして子どもがそんな助平な手遊びをするのかと驚かれる。ジャダグはこの仕草をしているときにダルソがらみで下ネタを話しているので、インドネシア(ジャワ)でも同じような意味を持つのだろう。
ジャダグの部屋に置かれていて何度か映る看板にはインドネシア語で「みんなのために頑張ろう」のようなスローガンが書かれている。昔何かのキャンペーンで使われた看板の残りか。
お金がないという話になったときの「マルディヤのお金でも使うの?」というセリフは、テガル地方に昔マルディヤという富豪がいたという伝承があるためだとか。
最後にカメラが一瞬あらぬ方を向いて終わったように見えたのは、カメラを意識させることでこの作品を観ている自分を意識させるというような何かの演出?
ほぼ全編のセリフをジャワ語にしたことについて、監督は「グローバル化への抵抗の試み」と言っている。世界的に英語偏重、インドネシア国内ではさらにインドネシア語重視となっていく状況に対して地元語の方言を使うことで一石を投じようという意味だとはわかるけれど、インドネシア人以外の観客にとってこの作品のセリフがインドネシア語なのかジャワ語なのかはほとんど関係ない(その違いがわからなくても作品の理解や評価が低くなるわけではない)はず。そうだとすると、このような作品の制作・上映が可能になったのはむしろグローバル化が進んだからだとも言えるのではなかろうか。

インドネシア映画『Cek Toko Sebelah』

インドネシアで劇場公開中のインドネシア映画『The Underdogs』を観て、エルネストつながりということでDVDでインドネシア映画『Cek Toko Sebelah』を観た。
タイトルの「Cek Toko Sebelah」の文字通りの意味は「隣の店を確かめろ」(隣の店と比べてみろ)だろうけど、比喩的な表現なのでタイトルは『ライバル』あたりがよいのでは。


まずはあらすじを結末まで。
小さな雑貨屋を営む華人一家。母は亡くなっていて、店を切り盛りしているのは父。息子は2人。兄は売れない写真家。弟は大学を出て大企業で活躍するエリートで、近く出世してシンガポールに駐在の見込み。病気で倒れた父を見舞いに息子2人が駆け付けると、父は店を弟に継がせるという。長男として自分が継ぎたい兄も、世界に打って出ようとして小さな雑貨屋に関わる暇はない弟も、なぜ?と首をかしげる。とりあえずシンガポール駐在までの1か月間ということで弟が慣れない雑貨屋の経営に手を出す。自分が店を継ぎたいと思う兄と関係が悪くなり、兄は母の墓を何度も訪ねて墓碑で微笑む母の姿に自分の気持ちを打ち明ける。
弟が店を継ぎたくないことを知り、かといって兄に任せられないと思った父は、店を売ることにする。大切にしてきた店を手放した心労のあまりに再び倒れると、父の病室で出会った兄弟は店が売られたことを知り、弟が店を継ぐと決心して、兄弟で力を合わせて店を取り戻す。
店が戻ると、病室で兄弟がしていた話を聞いていた父は店を兄に任せると言い、兄は自分のカラーを入れて店の経営に乗り出し、弟はシンガポールに旅立つ。


この物語の最大の謎は、雑貨屋を継ぐのが嫌だった弟がどうして途中で店を継ぐと言い出したのか、そして兄に任せられないと言っていた父はなぜ最後に兄に店を任せたのか。
弟が店を継ぐと言ったのは、息子が家を継がなければならないという中華世界の縛りのためであり、父親の意に反することはしたくないから。一流大学を出て大企業で活躍するエリートビジネスマンでも父親の命令には逆らえない。インドネシア華人には大学を出て外資系の企業で十分働けそうな力があっても家業を継ぐために田舎に引っ込む人が現実に多い。
では父はなぜ兄に任せたのか。病室で兄が弟に話したのは、父と母が2人で始めた店を守りたいということだった。兄は行き詰まるたびに母の墓を訪ねて、亡き母にいろいろ相談していた。そのことを知った父が店を兄に任せたということは、店の経営について妻の意見を取り入れたということではないか。
シンガポールに行きたいという息子に対して、父は「私たちはこの土地で裸一貫から今の地位を作り上げてきた。なのになぜ外国に行く必要がある?」と叱る。その父を演じているのが『うちのおバカ社長』(My Stupid Boss)にも出ていたマレーシア華人のチュー・キンワーで、キンワーにとってインドネシアは外国だというのがおもしろい。(ただし妻がインドネシア人だという意味では完全な外国ではない。)
役者に関しては、『ビューティフルデイズ』(Ada apa dengan cinta)の1と2でカルメン役のアディニアが兄の恋人役で出ており、雑貨屋の従業員が「『ビューティフルデイズ』のカルメンに会いたいなあ」と言っていた。『ビューティフルデイズ』はいろんな映画に参照されている。


冒頭の『The Underdogs』は若者が音楽グループを作ってインターネット上で動画配信などによって人気を得ていき、カリスマグループと対立するけれど最後に和解するという話。カリスマグループは、『Cek Toko Sebelah』の監督・主演のエルネスト、ラップのYoung Lex、韓国出身のHan Yoo Raの3人組。ほかにも音楽業界で知られた人たちがたくさん出ているようだけれど、興味深いのは最後の和解の場面。
カリスマグループの1人が事故で大怪我して救急搬送され、輸血が必要だと知ると、若者グループが自分たちのファンに輸血を呼び掛ける。エルネストたちが病院に駆けつけると自分たちと敵対するグループを支持しているはずの人たちが大勢輸血に来ていた。驚いたエルネストに対して「みんな同じ血を分け合ったインドネシア人じゃないか」(ちょっと意訳)と言って輸血に向かう。
エルネストはコメディ映画の監督をして自分で主演する人で、作品は、どこからどう見ても華人にしか見えない自分の顔をそのまま使って自虐的な華人ネタが多い。だから、劇中でこの顔を見れば、インドネシア人だけど原住民系とは心理的に別扱いされている少数派の華人という目で見ることになる。そのエルネストに対して原住民系の登場人物に「みんな同じ血を分け合ったインドネシア人じゃないか」と言わせている。「血」というのは輸血だからという状況を作っておいて、それをちょっとだけ飛躍させてインドネシア人としての血統の話を織り込んでいる。